第42話 元婚約者ではなく
北西部救済令が出されてから、最初の報告がヴァルツェンへ届いたのは、十二日後だった。
王都からの正式文書。
封蝋は王家の大印。
今度は私印ではない。
私は執務机の上で封を切った。
紙は厚い。
命令書の写しと、救済の第一報。
それから、アルベルト陛下の署名が入った感謝状。
最初に救済報告を読む。
モラン領からの馬輸送は、予定より一日遅れた。
旧街道の一部が崩れ、荷を分けて人足で運び直したためだ。
それでも、食料が三日分を切っていた二村には、残り一日となる前に届いた。
南回りの荷車隊は予定通りではなかった。
橋の補修に時間がかかり、二隊に分かれた。
先行隊は到着。
後続隊は、まだ街道上。
中央教会の巡礼宿は、百名で受入を停止した。
門前で混乱が起きた。
教会側は非難を受けた。
だが、超過者は旧兵舎へ移送され、井戸と仮設便所が用意された。
旧兵舎では発熱者が七名確認された。
隔離区画へ移された。
今のところ、集団感染には至っていない。
備蓄報告を拒んだ二領には、王都納付の特例停止が通知された。
一領は、翌日に報告を提出。
もう一領は、なお異議を申し立てている。
完璧ではない。
予定通りでもない。
誰も傷つかなかったわけでもない。
門前で止められた者は怒っただろう。
祝祭費を削られた商人も。
特例を止められた領主も。
それでも、街道で倒れる者の数は、当初の見込みを下回った。
略奪は起きていない。
種籾を食用に回した村も、今のところ確認されていない。
私は報告書を机へ置いた。
「成功、でしょうか」
ユリスが尋ねた。
「まだ分かりません」
「はい」
「でも、間に合ったところはあります」
「ございます」
成功と呼ぶには早い。
けれど、失敗と呼ぶ理由もない。
現場では、決めた通りに動かなかった。
だから、動かなかった部分を記録している。
旧街道の崩落。
荷分け。
到着遅延。
受入停止時の混乱。
井戸の使用量。
発熱者の隔離。
そして、それぞれの決定者名。
資料の欄は、埋められていた。
アルベルト陛下。
モラン領主。
王都軍輸送隊長。
中央教会管理責任者。
旧兵舎受入責任者。
誰が、どこで、何を決めたか。
エレノア様の名は、どこにもない。
私は、それを確認してから、ようやく感謝状を開いた。
冒頭は形式通りだった。
北西部救済に際し、ヴァルツェン女伯エレノア・フォン・ヴァルツェンより提出された報告様式および助言が、各領の備蓄確認、輸送計画、受入判断に大きく資したこと。
王国の安寧に対する功績を認め、国王として感謝を表すること。
そして、ヴァルツェン領が保有する配布管理および備蓄運用の知見を、今後、北西部諸領の制度整備へ活用したいこと。
短い。
必要なことしか書かれていない。
元王太子婚約者。
かつて王の隣にいた者。
長年、王太子府の政策を支えた者。
そういう言葉は、一つもなかった。
ただ、
ヴァルツェン女伯エレノア・フォン・ヴァルツェン。
領主としての名だけがある。
私は、感謝状をもう一度読んだ。
「どうされました」
ユリスが尋ねる。
「いえ」
私は紙から目を離さなかった。
「元婚約者という言葉が、ありません」
ユリスは少しだけ黙った。
「正式文書としては、当然かと」
「そうですね」
当然だ。
でも、以前の王都なら、書いたかもしれない。
悲劇の元婚約者。
かつて王を支えた令嬢。
王家への忠誠を失わない女伯。
そういう物語へ戻そうとしたかもしれない。
エレノア様の今を、過去の関係の延長として飾るために。
今回は違った。
王と領主。
それだけだった。
「女伯様」
オルドが、静かに言った。
「陛下は、線を引かれたのでございましょう」
「線を」
「はい」
どこからどこまでが過去で。
今、誰と誰が向き合っているのか。
その線。
「良い線だと思います」
私は言った。
身体の奥が、少しだけ震えた。
エレノア様の反応だ。
痛みではない。
でも、完全に穏やかでもない。
かつて愛した人から、元婚約者としてではなく扱われる。
それは解放であると同時に、何かが本当に終わったと知ることでもある。
私は感謝状を机へ置いた。
すぐに精神世界へ入るべきか迷った。
先に、仕事を進める。
「北西部諸領への制度整備について、こちらから条件を出します」
ユリスが筆を構える。
「ヴァルツェン式配布管理を、そのまま複製することは認めません」
「理由は」
「各領の倉庫、街道、人口、作物が違います。帳簿だけ写せば、また形だけになります」
「担当者を派遣させますか」
「はい。ただし、王都実務官と同じ長期研修ではなく、各領で現地表を作った後、ヴァルツェンへ確認に来てもらいます」
「先に、自分の領地を見る」
「そうです」
王都側は、何を見るべきか分からなかった。
今度は違う。
王都試用版がある。
北西部救済の実例もある。
それでも、各領が自分で数えなければならない。
「必要項目は送ります。人口、用途別備蓄、最低残存量、輸送可能量、受入上限、停止基準、決定者名」
「確認者は」
「ヴァルツェン側一名、王都側一名、対象領一名。三者で」
「王都側も入れますか」
「国王陛下の制度として広げるなら、王都にも責任があります」
ユリスが頷いた。
「承知しました」
「それから、制度名は」
一瞬、迷う。
ヴァルツェン式。
王都試用版では、そう残った。
北西部へ広がれば、その名はさらに大きくなる。
名が残ることは大事だ。
でも、名前だけが一人歩きする危険もある。
「各領導入版、としてください」
「ヴァルツェン式の名は残しますか」
「はい。ですが、必ず領名を併記する」
ヴァルツェン式配布管理・リーデン領導入版。
ヴァルツェン式配布管理・ハルツ領導入版。
ヴァルツェンの形をそのまま持ち込んだものではなく、その領地で組み直したもの。
「改変履歴も必須です」
「はい」
「失敗が起きた時、ヴァルツェンの責任にされないように」
言ってから、少し強すぎたかと思った。
でも、必要だ。
「ヴァルツェンの名を使うなら、どこを変えたか残してもらいます」
「当然でございます」
オルドが答えた。
「名誉だけを受け取り、責任を戻すことは許されません」
その言葉に、胸の奥がまたわずかに動いた。
エレノア様も、聞いている。
返書の草案を整えた後、私はようやく精神世界へ入った。
寝室の扉の前に立つ。
「エレノア様」
「はい」
「北西部救済の第一報が届きました」
「被害は」
「あります。でも、食料は間に合った村があります。旧兵舎で発熱者が七名。隔離済み。大きな略奪はなし。種籾を食べた村も、今のところありません」
扉の向こうで、静かに息を吐く音がした。
「そうですか」
「成功かは、まだ分かりません」
「はい」
「でも、アルベルト陛下は決めました」
返事はない。
「祝祭費を削った。受入上限を決めた。報告を拒んだ領主の特例を止めた。馬輸送と荷車輸送を同時に動かした」
「……そうですか」
「全部、自分の名で」
扉の向こうが、少しだけ静かになった。
「エレノア様の名は、命令書にありません」
「はい」
「資料を使ったことは書いてあります。でも、決定責任者はアルベルト陛下です」
「それでよいのです」
声は、はっきりしていた。
「はい」
「私の名がないことは、軽んじられたことではありません」
「分かっています」
「今回は、陛下が決めた」
「はい」
「ならば、その責任も陛下のものです」
「はい」
扉越しの声は落ち着いている。
でも、少しだけ遠い。
「感謝状も来ました」
「そうですか」
「読みますか」
少しの沈黙。
「お願いします」
私は全文を読んだ。
ヴァルツェン女伯エレノア・フォン・ヴァルツェン。
その名を、ゆっくり読む。
元婚約者という言葉はない。
過去の関係も。
王都へ戻ることを望む文面も。
ただ、領主としての功績と、制度の知見への感謝。
読み終えた後、長い沈黙があった。
「エレノア様」
「はい」
「嫌でしたか」
「いいえ」
「寂しいですか」
聞いてよいのか迷った。
でも、聞かなければ、また都合のよい意味だけを取ってしまう。
扉の向こうで、衣擦れがした。
「少し」
エレノア様は答えた。
胸が締めつけられる。
「はい」
「私は、長い間、あの方の隣に立つために学びました」
「はい」
「王妃として。国王を支える者として」
「はい」
「その役割がなくなったことは、分かっていたつもりでした」
声が、ほんの少し揺れた。
「けれど、元婚約者とさえ書かれない文書を読むと、本当に終わったのだと思います」
私は扉に手をついた。
「エレノア様」
「大丈夫です」
「大丈夫じゃなくてもいいです」
「……あなたは、そればかりですね」
「大事なので」
返事はすぐにはなかった。
「寂しいと感じることと、戻りたいと思うことは、同じではありません」
エレノア様が言った。
「はい」
「私は、戻りたくありません」
「はい」
「王妃の座にも。あの方の隣にも」
「はい」
「それでも、寂しい」
「はい」
私は、ただ答えた。
否定しない。
喜びに変えようとしない。
終わった恋を、正しかった判断だけで消さない。
「玲奈」
「はい」
「私は、あの方を許したのでしょうか」
「分かりません」
今度は、私がすぐに答えた。
「決めなくていいです」
扉の向こうが静かになる。
「エレノア様が前に言ったことです」
「……そうでしたね」
「アルベルト陛下が一つ正しいことをしたからって、全部許さなくていい。逆に、まだ許せないからって、変化を認めない必要もないです」
「難しいですね」
「人間なので」
「ずいぶん大きく出ましたね」
「現代人代表として」
「代表なのですか」
「今ここには私しかいませんので」
小さな沈黙の後、扉の向こうから、かすかな笑い声が聞こえた。
笑った。
エレノア様が。
ほんの少し。
でも、確かに。
「感謝状には」
私は続けた。
「ヴァルツェン女伯と書いてありました」
「はい」
「元婚約者ではなく」
「はい」
「私は、それが良いと思いました」
「私も」
声はまだ寂しさを含んでいる。
でも、崩れてはいない。
「今は、そう思います」
「はい」
「私は、あの方の隣にいなくても、王国へ仕事を届けられる」
「はい」
「王の署名を、私が用意しなくてもよい」
「はい」
「それは」
少し言葉が止まる。
「楽ですね」
私は思わず笑った。
「もっと早く言ってくださいよ」
「知りませんでした」
「じゃあ、今から覚えましょう」
「また、慣れろと言うのですか」
「はい。休むことと同じくらい大事です」
「どちらも難しいですね」
「知っています」
扉の向こうで、また空気が緩んだ。
そして、その時だった。
扉が、ほんの少しだけ動いた。
蝶番の音。
細い隙間。
私は息を止めた。
これまで、閉じたままだった扉。
声だけが届いていた扉。
そこに、指一本分ほどの隙間ができている。
暗い部屋の中から、淡い光が漏れた。
扉の向こうに、人影がある。
白い寝衣。
長い髪。
細い指が、扉の縁に触れている。
顔全体は見えない。
でも、エレノア様がそこに立っている。
「エレノア様」
声が震えた。
「見えます」
「……そうですか」
「はい」
「ひどい顔をしていませんか」
「見えません。まだ半分も」
「それは、幸いです」
「いや、全然幸いじゃないです。もっと開けてください」
「欲張りですね」
「前にも言われました」
扉は、それ以上開かなかった。
でも、閉じもしなかった。
「玲奈」
「はい」
「私は、あの方の隣へ戻らなくてもよいのですね」
問いは、確認だった。
誰かに許可を求める声ではない。
それでも、私ははっきり答えた。
「はい」
扉の隙間へ向かって。
「エレノア様は、ここに立っていればいいんです」
「ここ」
「ヴァルツェンに」
「はい」
「私と一緒に」
少しだけ言葉に詰まった。
でも、逃げない。
「はい」
扉の向こうの人影が、わずかに顔を上げた。
「では」
エレノア様は言った。
「ここにいます」
その言葉は、小さかった。
けれど、これまで聞いたどの決意よりも強く感じた。
現実へ戻った時、目の前には感謝状があった。
ヴァルツェン女伯エレノア・フォン・ヴァルツェン。
その名を指でなぞる。
過去の肩書きではない。
誰かの隣に立つための名でもない。
この土地を守る領主の名。
返書には、北西部諸領への制度展開を受け入れる条件を書いた。
各領は、自領の現地表を作成すること。
ヴァルツェン式をそのまま複製しないこと。
導入版には領名を併記すること。
改変履歴を残すこと。
王都、ヴァルツェン、対象領の三者で確認すること。
そして、制度運用の最終責任は各領主が負うこと。
最後に、公印を押す。
今度は手が止まらなかった。
その夜、私的業務記録を開いた。
北西部救済、第一報受領。
食料輸送は一部遅延。指定村への初回分は到着。
中央教会巡礼宿、受入上限にて停止。超過者は旧兵舎へ移送。
発熱者七名、隔離。
大規模な略奪および種籾の食用転用は、現時点で確認なし。
国王アルベルト陛下より、ヴァルツェン女伯としての助言および制度運用に対する正式な感謝状を受領。
北西部諸領への制度展開について、条件付きで受諾。
そこまで書き、筆を止めた。
最後に一行だけ追記する。
過去の席を失っても、今の名まで失うわけではない。
書き終えた後、窓の外を見た。
ヴァルツェンの春は、まだ冷たい。
ベルナ村の畑では、明日から種の再配布が始まる。
王都では、救済令への反発が続いているだろう。
北西部では、まだ食料を待つ村がある。
何も終わっていない。
それでも、エレノア様の扉は少し開いた。
アルベルト陛下は、自分の名で命令を出した。
二人は、もう同じ席へ戻らない。
けれど、同じ王国の中で、それぞれの責任を引き受け始めている。
それでいい。
今は、それでいい。
エレノア様は、元婚約者ではない。
王都の空席でもない。
ヴァルツェン女伯エレノア・フォン・ヴァルツェン。
この土地に立ち、この土地から王国へ仕事を届ける、一人の領主だった。




