第40話 王からの密書
ベルナ村の畑に水を入れてから、七日が過ぎた。
濁流は引いた。
けれど、水が消えたからといって、畑が元に戻るわけではない。
低地には薄い泥が残り、畝の境は崩れ、春麦の若い芽は土へ伏していた。
冠水した区画では、農務官と村の確認役、城館の記録係が杭を立てて回っている。
蒔かれた種。
失われた飼料。
泥に埋まった農具。
避難に使った荷車。
家畜を移すために働いた人の数。
一つずつ数える。
数えれば戻るわけではない。
それでも、数えなければ最初からなかったことになる。
アンナ・ベルクは、毎朝確認班に同行していた。
城館の役人へ畑の境を示し、土の下に何があったかを説明する。
態度はまだ硬い。
私を見ると、礼はする。
ただし、感謝はしない。
それでいいと思う。
今、必要なのは感謝ではない。
補償表を最後まで作ることだ。
「女伯様」
ユリスが、新しい集計表を机へ置いた。
「冠水区画は十二です。当初の見込みより一区画増えました」
「放水路の北側ですか」
「はい。水路脇の畦が崩れました。農務官によれば、土を入れ直せば夏作には間に合う可能性があります」
「春麦は」
「難しいとのことです」
私は表を見る。
十二の農家名。
家族数。
作付面積。
失われた種。
今後必要な種。
仮補填額。
税減免申請の基準。
アンナの家の欄には、三年前から残る負債についての追記もある。
種籾貸与記録と、村の仲介人へ支払った差額。
その差額は、まだ確認中だった。
「仲介人の件は」
「帳簿上、正式な徴収ではありません」
「なら、不正ですか」
「その可能性があります。ただし、三年前の記録が不十分です。本人は、運搬費と手数料だったと主張しています」
「実際に運搬しましたか」
「一部は。ただ、貸与を受ける条件として一律に上乗せしていたようです」
私は息を吐いた。
三年前の傷は、過去に置かれていない。
補償が足りなかったところへ、別の誰かが入り込んでいる。
必要な制度がない場所では、誰かが勝手な制度を作る。
「当時の村長と、種籾を受け取った他の農家にも聞き取りを」
「進めています」
「今後の種籾貸与は、城館と受取人の直接記録にしてください。仲介が必要なら、手数料を先に明記する」
「承知しました」
ユリスが次の紙を出そうとした時、扉が叩かれた。
入ってきたオルドの手には、小さな銀盆がある。
その上に、封書が一通載っていた。
「女伯様。王都より、親展の書状でございます」
身体の奥が、わずかに固くなった。
白百合の封蝋ではない。
王家の獅子。
だが、正式な王命書に使われる大印ではなかった。
小さな私印。
「アルベルト陛下から?」
「そのようでございます」
オルドが銀盆を机へ置く。
封書は薄い。
命令書のような別紙もない。
私はすぐには手を伸ばさなかった。
エレノア様の身体が、封蝋を知っている。
指先が冷える。
胸の奥に、古い記憶の影が触れる。
王太子時代。
同じ印で届いた短い手紙。
午後の茶会の時間変更。
会議への同席依頼。
誕生日の贈り物に添えられた、形式ばらない言葉。
今は、国王から北方の女伯へ届いた封書だ。
同じ印でも、意味は違う。
「正式な使者は?」
「封書を届けたのは王宮伝令ですが、返書を急ぐ命は受けていないとのことです」
「王命ではない」
「はい」
私は封を切った。
最初に書かれていたのは、ベルク川の増水と冠水被害への見舞いだった。
知らせが王都まで届いているらしい。
下流の家屋と種籾倉を守った判断について、領主としての尽力に敬意を表する。
そんな言葉が続く。
そこまでは、国王から領主へ送る文面として理解できた。
問題は、その先だった。
王国北西部の三領において、春先の食糧不足が確認されている。
前年の不作と、雪解け道の崩落による輸送遅延が重なったためだ。
すでに複数の村から人が移動を始めている。
このままでは、流民が街道沿いへ集まり、食料の強奪や感染症の拡大につながるおそれがある。
王都では、備蓄放出と受入先の指定を検討している。
だが、各領の申告する備蓄量と、実際に動かせる量が一致していない。
街道の通行状況も不確かだ。
どこまで受け入れ、どこで止めるべきか。
その判断に必要な資料について、ヴァルツェン女伯の助言を求めたい。
私は、そこで読むのを止めた。
助言。
また。
また、エレノア様に決めさせるのか。
喉の奥に、熱いものが上がる。
「女伯様?」
ユリスの声が聞こえた。
「続けます」
自分に言い聞かせるように、続きを読む。
アルベルト陛下は、ヴァルツェンへ流民を受け入れよとは書いていなかった。
王都へ来いとも。
北西部救済策を作れとも。
書かれていたのは、王が判断するために必要な資料の項目を教えてほしい、という依頼だった。
さらに、こう続いていた。
最終的な決定と、その結果については、国王である自分が責任を負う。
領内事情により助言が困難であれば、断って構わない。
ヴァルツェンの備蓄を王命によって徴発する意図はない。
提出できない資料については、その理由だけ知らせてほしい。
以前なら、書かなかった言葉だろう。
断ってよい。
自分が責任を負う。
王都へ来いとは言わない。
エレノア様へ答えを求めるのではなく、判断材料を求めている。
私は手紙を机へ置いた。
怒りが消えたわけではない。
少し形が変わっただけだ。
「何が書かれていたのでございますか」
オルドが尋ねた。
私は要点を伝えた。
ユリスは黙って聞いていた。
「助言を受けますか」
「まだ決めません」
「王命ではありません」
「はい」
「お断りしても、形式上は問題ございません」
「形式上は」
問題は、形式ではない。
北西部で人が動いている。
食料がない。
道が崩れている。
このままなら、誰かが死ぬ。
エレノア様なら、それを無視できない。
だからこそ、怖い。
アルベルト陛下は、そのことを知っている。
断ってよいと書きながら、エレノア様が断れない種類の問題を送ってきたのではないか。
意図していないとしても。
「ユリス」
「はい」
「この文面をどう読みますか」
彼は手紙を受け取り、慎重に目を通した。
「以前の王都からの要請とは異なります」
「どこが」
「結論を求めていません。必要資料の項目についての助言を求めています。また、王命による備蓄徴発を否定しています」
「書いてある通りですね」
「はい」
「書いてない部分は?」
ユリスは少し考えた。
「陛下は、ご自身が何を確認すべきか分からないのだと思います」
私は黙った。
「王都側には、各領から備蓄総数は届くでしょう。しかし、動かせる備蓄か、次の収穫まで必要な備蓄か、品質はどうか、輸送できるかまでは分からない」
「それをエレノア様に教えてほしい」
「女伯様に、です」
ユリスが静かに訂正した。
私の中にいるエレノア様ではなく、ヴァルツェン女伯へ。
外から見れば、そうだ。
「陛下は、答えを求めるのではなく、答えを出すための欄を求めておられるように見えます」
「欄」
「はい」
それは、少しだけ腑に落ちた。
アルベルト陛下は今、自分が何を見て決めるべきか分からない。
だから、エレノア様が使ってきた判断の枠組みを借りたい。
でも、借りた枠組みで決めるのは自分だと書いている。
「それでも」
私は言った。
「エレノア様に聞けば早いと、思っているんでしょうね」
「おそらく」
ユリスは否定しなかった。
「ですが、早い答えを求めてはいません」
早い方法が正しいとは限らない。
第五章で記録した言葉を思い出す。
「少し、考えます」
私は手紙を折り直した。
その日の午後、冠水区画の確認に出た。
今は、王都の流民より、目の前の畑だ。
そう思った。
でも、泥の中を歩いている間も、手紙の文面は頭から離れなかった。
北西部の三領。
前年の不作。
崩れた街道。
動き始めた人々。
受け入れる側にも限界がある。
無制限に入れれば、受入先の備蓄が尽きる。
止めれば、街道で人が死ぬ。
食料だけ送っても、輸送路がなければ届かない。
備蓄総数だけでは足りない。
使える量。
動かせる量。
いつまでに。
誰が運ぶ。
どこへ置く。
誰を優先する。
受け入れを止める基準。
考えたくなくても、項目が浮かぶ。
エレノア様の身体が知っている。
この人は、何度こうして考えたのだろう。
夕方、アンナの畑で確認作業が終わった。
土の表面は乾き始めている。
だが、指を入れれば、すぐ下はまだ重い泥だった。
農務官が土を握り、首を振る。
「今すぐ蒔き直すのは難しいです。少なくとも五日、晴れが続けば」
「雨の予報は」
「二日後に一度」
アンナが低く息を吐いた。
「夏作へ切り替えた方がいいですか」
「区画によります」
農務官が答える。
「高い側は春麦を蒔き直せるかもしれません。低い側は豆か飼料作物へ」
「種は」
「城館で確保します」
私が言うと、アンナはこちらを見た。
「どこからです」
「領内備蓄から。不足分は買い入れます」
「他の村の分を減らすんじゃないでしょうね」
鋭い。
当然の問いだ。
「減らしません。貸与予定分と緊急補填分を分けます」
「帳簿では?」
「倉庫でも分けます」
アンナは少し黙った。
「なら、見せてください」
「受入時に、村の確認役を出してください」
「分かりました」
信じたわけではない。
確かめると言っている。
それでいい。
帰り道、私は思った。
判断材料を渡すというのは、こういうことだ。
領主が大丈夫だと言うだけでは足りない。
どの倉庫から。
どの種を。
誰が確認する。
どこまで減れば止める。
それを見せる。
アルベルト陛下が求めているのも、それなのかもしれない。
夜、精神世界の扉の前へ行った。
「エレノア様」
「はい」
「アルベルト陛下から手紙が来ました」
扉の向こうが静かになる。
返事が遅れた。
「王命ですか」
「いいえ。私印でした」
「内容は」
私は最初から説明した。
北西部の食糧不足。
流民。
備蓄量の不一致。
道の崩落。
助言の依頼。
最終責任は自分が負うという一文。
断ってよいという一文。
王都へ来いとは書かれていないこと。
話し終えても、返事はなかった。
「怒ってますか」
「いいえ」
「私は、ちょっと怒りました」
「そうでしょうね」
「またエレノア様に決めさせるのかって」
「陛下は、決定を求めてはいないのでしょう」
エレノア様も、ユリスと同じように読んだ。
「でも、エレノア様に聞けば、何を見るべきか分かる」
「はい」
「便利ですよね」
言葉に棘が入った。
扉の向こうで、短い沈黙。
「便利だったのでしょう」
エレノア様は、静かに答えた。
胸が痛んだ。
「ごめんなさい」
「なぜ、あなたが謝るのですか」
「エレノア様に言わせたくなかったです」
「事実です」
「だからって」
「玲奈」
また名前を呼ばれた。
私は口を閉じた。
「手紙を、もう一度読んでください」
「読みました」
「陛下は、誰が責任を負うと書いていましたか」
「自分が、と」
「断ることは」
「認めると」
「ヴァルツェンの備蓄を」
「王命で徴発しない」
「王都へ」
「来いとは書いてません」
一つずつ答える。
言葉にするたび、以前との違いが明確になる。
「変わったと、思いますか」
私が尋ねた。
「分かりません」
エレノア様の答えは早かった。
「一通の手紙だけでは」
「そうですよね」
「ただ」
そこで声が止まる。
「以前の陛下なら、最も良い方法を尋ねたでしょう」
「今回は、判断するために必要な資料を尋ねた」
「はい」
「それは違う?」
「違います」
エレノア様は、簡潔に答えた。
「許せますか」
思わず聞いてしまった。
扉の向こうが、長く沈黙した。
「分かりません」
「はい」
「今、それを決める必要はありますか」
逆に問われた。
「……ないです」
「では、決めません」
その言葉に、少し救われた。
許すか。
許さないか。
今すぐどちらかに決めなくていい。
「助言はしますか」
「人命に関わります」
「やっぱり」
「ですが」
エレノア様の声が、少し強くなる。
「答えは渡しません」
私は扉を見つめた。
「判断材料を?」
「はい」
「何を見ればよいか。どこで止めるか。何を失えば次の冬に響くか」
「最終判断は、陛下が」
「自分の名で」
扉の向こうで、かすかな衣擦れがした。
「それでよいと思います」
「エレノア様」
「はい」
「アルベルト陛下を助けたいですか」
聞いた後で、少し踏み込みすぎたと思った。
けれど、取り消せない。
長い沈黙が続く。
「王国の民を」
やがて、エレノア様は言った。
「助けたいと思います」
それは、答えであり、答えではなかった。
アルベルト個人を助けたいのか。
まだ情があるのか。
憎んでいるのか。
許したいのか。
そこには触れない。
今は、民の話をする。
「分かりました」
私は言った。
「じゃあ、王様には王様の仕事をしてもらいましょう」
「王様」
「陛下の仕事を」
「ええ」
扉の向こうの声が、わずかに柔らかくなった。
「そうしていただきましょう」
翌朝、執務室へユリス、オルド、農務官、備蓄庫管理人を集めた。
机の上には、アルベルト陛下の手紙。
その隣に、白紙の表を置く。
「王都へ結論は送りません」
私は言った。
「王が判断するための資料項目を送ります」
ユリスが筆を構える。
「項目は」
「まず、村別の人口と現在の備蓄量。ただし総数ではなく、用途別に」
「食用、種用、飼料用」
「病人用も分けます。次に、一日あたりの消費量。次の収穫までに必要な最低量」
「放出可能量を算出します」
「輸送可能量は別です。倉庫にあっても、道が通れなければ動かせません」
農務官が地図を開く。
「街道状況、橋梁、荷車通行可能数、迂回路」
「護衛も。流民が増えれば、輸送隊そのものが狙われる可能性があります」
オルドが静かに言った。
「受入先の治安維持人数も必要でございましょう」
「はい。宿泊場所。井戸。便所。病人の隔離場所」
ユリスの筆が走る。
「受入可能人数は、食料だけでは決まりませんね」
「決まりません」
ベルナ村の避難で思い知った。
人を移すには、場所がいる。
水がいる。
世話をする人がいる。
「受入停止基準も作ります」
備蓄庫管理人が顔を上げる。
「停止、でございますか」
「はい」
「陛下へ、流民の受入を止める基準をお伝えするのですか」
「無制限に受け入れれば、受入先も共倒れします」
言葉は冷たい。
でも、必要だ。
「残存備蓄が次の収穫までの最低必要量を下回る場合。井戸の供給量を超える場合。隔離場所がない状態で感染症が確認された場合。護衛人数が不足する場合」
「反発が出ます」
「出ます」
「見捨てるのかと」
「言われるでしょう」
私は紙を見る。
以前なら、エレノア様一人がこういう線を引いた。
今は、私たちが引く。
そして、最終的にその線を使うかどうかは王が決める。
「停止した後の行き先も必要です」
ユリスが言った。
「止めるだけでは、街道に滞留します」
「中継所を設ける候補地。別の受入地。食料だけを渡す場合の配布地点。王都軍による護送の要否」
「軍を動かす判断は陛下です」
「はい。だから資料に入れます」
項目は増えていった。
村別備蓄表。
用途別在庫。
最低残存量。
放出可能量。
輸送可能量。
荷車数。
護衛人数。
街道状況。
橋の耐荷重。
受入可能人数。
井戸。
宿泊所。
隔離場所。
受入停止基準。
中継地。
再移送先。
配布責任者。
報告の戻し先。
最後に、私は一つ加えた。
「決定者名」
ユリスが筆を止める。
「各段階の?」
「はい。備蓄を放出した者。受入人数を決めた者。停止を命じた者。移送先を変えた者」
「責任追及のためですか」
「それだけではありません」
私はアルベルト陛下の手紙を見る。
「誰が、どの情報を見て決めたかを残すためです」
間違えることはある。
今ある資料で正しいと思った判断が、結果として失敗することも。
でも、決めた者を消してはいけない。
責任を押しつけるためではなく。
次に直すために。
午後には、王都へ送る返書の草案ができた。
冒頭に、見舞いへの礼。
北西部の状況を憂慮する旨。
助言依頼を受けること。
ただし、救済策の結論ではなく、判断に必要な資料項目と報告様式を送ること。
ヴァルツェンの備蓄提供については、ベルク川冠水被害の補填と領内春備蓄の確認後に、別途回答すること。
そして、最後に。
提出資料を基にした決定は、国王陛下および各領主の責任において行われるべきものと存じます。
私は、その一文を読み返した。
厳しいだろうか。
当たり前のことだ。
でも、以前は当たり前ではなかった。
「このまま出します」
ユリスが頷いた。
「密書への返書も、私印扱いになさいますか」
少し考える。
「いいえ」
「正式な領主書簡として?」
「はい。内容は王国の救済に関わります」
私信の中に閉じ込めない。
元婚約者同士の手紙にしない。
国王と領主のやり取りとして残す。
「王家の私印へ、ヴァルツェン女伯の公印で返します」
「承知しました」
封蝋を用意する。
押す前に、手が一瞬止まった。
身体の奥に、エレノア様の緊張がある。
アルベルト陛下へ送る手紙。
でも、これは昔の手紙ではない。
婚約者としての返事ではない。
戻ってほしいという呼びかけへの答えでもない。
王が判断するための資料を、領主が送る。
それだけだ。
「エレノア様」
心の中で呼ぶ。
『はい』
「押します」
『お願いします』
二人で手を動かすような気がした。
ヴァルツェン女伯の公印が、赤い蝋へ沈む。
印を上げる。
紋章が、まっすぐ残った。
その夜、私的業務記録を開いた。
国王アルベルト陛下より、北西部食糧不足および流民発生について助言依頼。
王命ではなく私印による書状。
最終決定の責任は国王が負う旨、明記あり。
救済策の結論は示さず、判断資料の項目および報告様式を返送。
村別備蓄、用途別在庫、最低残存量、輸送可能量、受入可能人数、停止基準、中継地、決定者名を必須とする。
ヴァルツェンからの物資提供は、領内被害確認後に別途判断。
そこまで書き、筆を止める。
最後に一行だけ追記した。
答えを渡すことと、判断を支えることは同じではない。
窓の外では、春の雨が降り始めていた。
ベルナ村の土は、また乾くのが遅れるだろう。
王都では、北西部の報告が集まり始めている。
どちらも、待ってはくれない。
それでも、急いで答えを出すことはしなかった。
見るべきものを並べる。
失ってはいけないものを数える。
止める線を決める。
そして、決めるべき人に返す。
アルベルト陛下。
これは、エレノア様の答えではありません。
あなたが、自分の名で答えを出すための帳簿です。




