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断罪後の悪役令嬢も、私は推している  作者: Manabit
第六章 王冠は誰の手を汚す

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第39話 沈める畑

 春は、静かには来なかった。


 雪が消えれば、すぐに土が乾くわけではない。


 山に積もっていた雪は、昼の陽射しで緩み、夜の冷え込みで止まり、翌日にはまた流れ出す。


 細い沢が太くなる。


 固かった地面が崩れる。


 冬の間は道だった場所を、水が通り始める。


 ヴァルツェンの春は、雪が水へ姿を変えて押し寄せる季節だった。


 その朝、執務室へ飛び込んできた巡回兵の長靴は、膝近くまで泥に汚れていた。


「女伯様。ベルク川上流の雪解けが早まっております」


 机に広げられた地図へ、泥のついた指が伸びる。


 ベルク川は、城館から南東へ流れる川だ。


 上流の山間部から細い支流を集め、下流で二つの村の間を通る。


 西岸のベルナ村。


 東岸のクライネ村。


 川沿いには、春蒔き用の種籾を保管する共同倉がある。


 さらに下流には、二十戸ほどの家がまとまっていた。


「昨日の夕刻から、水位が指三本分上がりました。上流の第二堰に流木が引っかかっています」


 ユリスが地図を覗き込む。


「撤去は」


「近づけません。水が強すぎます」


「第一堰は?」


「今のところ保っています。ただ、第二堰が崩れれば、夜まで持つかどうか」


 私は地図を見る。


 身体の奥で、何かが動いた。


 知っている。


 この川を知っている。


 地図の線だけではない。


 冷たい水の音。


 春先の濁った流れ。


 土手に立つ人々。


 誰かが怒鳴っている。


 畑を守れと。


 ここへ水を入れるなと。


 記憶が浮かびかけ、額の奥が痛んだ。


 私は机の縁に指を置いた。


「女伯様?」


「大丈夫です」


 答えた声は、エレノア様のものに聞こえた。


 地図の西側には、低い農地が広がっている。


 ベルナ村の春麦畑。


 まだ種を入れる前の区画もあるが、早い畑では芽が出始めている。


 その外縁に、古い排水路があった。


 排水路。


 いや。


 これは、流すための道だ。


「西側の旧放水路は使えますか」


 私が尋ねると、巡回兵が顔を上げた。


「旧放水路、でございますか」


 ユリスも地図へ目を落とした。


「現在は農地側の土手で閉じています。三年前の増水後、村からの要望で補強した箇所です」


 三年前。


 頭の奥で、記憶がつながった。


 濁流。


 切られた土手。


 水に沈む畑。


 泣きながら土を掴む農夫。


 馬上から命令するエレノア様。


 西の土手を切りなさい。


 畑へ水を逃がします。


 下流の家屋と種籾倉を守るために。


 記憶の中で、誰かが叫んでいた。


 冷血伯。


 人の畑を何だと思っている。


 ようやく芽が出たのに。


 今年をどうやって生きろというのか。


 エレノア様は、答えなかった。


 いや。


 答えたのかもしれない。


 ただ、記憶には残っていない。


 命令を出したところだけが、鋭く残っている。


「三年前にも、同じ場所を開けたのですね」


 私が言うと、ユリスはわずかに目を伏せた。


「はい」


「被害は」


「ベルナ村の農地、十一区画が冠水しました。下流の家屋と共同倉は無事でした」


「補償記録はありますか」


 ユリスの沈黙が、答えだった。


「確認します」


「今、分かる範囲で」


 私の声が少し強くなった。


 ユリスは地図から目を上げた。


「種籾の一部貸与と、翌春税の支払い猶予がございます。ただし、冠水した全区画への補償ではありません」


「なぜですか」


「当時、領の備蓄と財源に余裕がありませんでした。王都から赴任されて間もない時期でもあり、村別台帳の整備も十分ではなく」


 言葉が続かない。


 責めても仕方がない。


 分かっている。


 エレノア様がヴァルツェンへ来たばかりの頃だ。


 領地の備蓄は乱れ、冬支度も不十分で、使える金も限られていた。


 それでも、水は待ってくれない。


 畑を沈めるか。


 家と種籾を流すか。


 選ばなければならなかった。


 エレノア様は選んだ。


 そして、その後まで救いきれなかった。


「ベルナ村へ急使を」


 私は言った。


「旧放水路周辺の住民を退避させてください。農具、家畜、保管中の種、運べるものは高地へ。土手を切る準備をします」


 巡回兵が一瞬、目を見開いた。


「切るのでございますか」


「第二堰が崩れた場合に備えます。まだ切りません。水位と流木の状態を半刻ごとに報告してください」


「承知しました」


 兵が退室する。


 ユリスは地図を見たままだった。


「女伯様」


「何ですか」


「村は、反対するでしょう」


「分かっています」


「三年前の記憶があります」


「分かっています」


 私自身が、その記憶を見た。


 畑を失った人の顔も。


 冷血伯と叫んだ声も。


「それでも、切りますか」


 私は地図の下流を見る。


 二十戸の家。


 共同倉。


 春蒔き用の種籾。


 そこを失えば、被害は一村では終わらない。


 来年の冬まで続く。


「必要なら」


 そう答えた声は、震えなかった。


 でも、机の下で握った手は冷たかった。


 私は目を閉じる。


 精神世界の寝室の前に立つ。


 扉は閉じている。


「エレノア様」


 すぐには返事がない。


「ベルク川が増水しています」


 扉の向こうで、かすかに布の動く音がした。


「第二堰に流木。第一堰は、第二が崩れれば夜まで持つか分かりません」


「……西の放水路を」


 返事は早かった。


 領民の命に関わる話だからだ。


「開けるべきですか」


「はい」


「ベルナ村の畑が沈みます」


「知っています」


 エレノア様の声は、静かだった。


「三年前にも、同じことをしましたね」


 沈黙。


「はい」


「十一区画が冠水した。下流の家と種籾倉は守られた。でも、補償は一部だけだった」


「……はい」


「なぜ、全部を補償できなかったんですか」


 問いかけてから、少し強すぎたと思った。


 扉の向こうにいる人は、今も壊れた心を抱えている。


 責めたいわけではない。


 でも、聞かなければならない。


 同じ判断をするなら。


 同じ傷を残さないために。


「財源がありませんでした」


 エレノア様は答えた。


「当時の備蓄では、冠水した農家すべてへ種籾を渡せば、別の村の春蒔き分が不足しました」


「税の免除は」


「王都への納付額が確定した後でした。私の裁量で免除できる範囲を超えていました」


「猶予だけ」


「はい」


 短い答え。


 言い訳はしない。


 それが、逆につらかった。


「村へ説明しましたか」


「しました」


「何を」


「下流の家屋と共同倉を守るためだったこと。種籾貸与の対象。税の猶予。翌年の返済条件」


「それだけですか」


 また沈黙。


「……それだけです」


 私は扉を見つめた。


「怒っていましたか。村の人たち」


「はい」


「エレノア様は」


「判断は必要だったと思っています」


「それだけじゃなくて」


 言葉が少し詰まった。


「畑を沈めた人たちに対して、どう思っていたんですか」


 長い沈黙があった。


 扉の向こうで、息を吸う音がする。


「申し訳ないと」


 とても小さな声だった。


「思っていました」


「言いましたか」


「いいえ」


「なぜ」


「謝れば、判断が誤りだったと受け取られると思いました」


「誤りではなかった」


「はい」


「でも、傷つけたことまで否定しなくてよかったんじゃないですか」


 返事はない。


 私は唇を噛んだ。


 正論を言いたいわけではない。


 今の私には、三年前のエレノア様が持っていなかったものがある。


 整った帳簿。


 多少の備蓄。


 ユリス。


 セリア。


 オルド。


 村と話すための時間。


 比べるのは、ずるい。


「ごめんなさい」


 私は言った。


「責めたいわけじゃありません」


「分かっています」


「今度は、補償まで決めたいです」


「はい」


「放水路を開ける前に、冠水する区画を確定する。土地だけじゃなく、もう蒔いた種、移せなかった農具、家畜の飼料も。種籾は共同倉とは別に確保する。春税は猶予じゃなくて、被害割合に応じて減免を王都へ申請する」


「認められない可能性があります」


「その時は、領費から先に補填します」


「他の支出が不足します」


「優先順位を組み直します」


「簡単ではありません」


「分かっています」


 分かっていない部分も、きっとある。


 でも、諦めたくない。


「畑を沈めるなら、次の種まで持っていきたいです」


 扉の向こうが静かになる。


「……あなたは」


 エレノア様が言った。


「私ができなかったことを、しますね」


「違います」


 私はすぐに答えた。


「エレノア様が三年前に家と種籾倉を守ったから、今、補償の帳簿を作れるんです」


 自分でも、少し息が上がっていた。


「エレノア様の判断がなかったら、村そのものがもっと大きく壊れていた。私は、その続きができるだけです」


「続き」


「はい」


「三年前の」


「はい」


 扉の向こうから、かすかな吐息が聞こえた。


「では」


 エレノア様は、ゆっくり言った。


「続けてください」


「一緒に、です」


「……はい」


「エレノア様も一緒です」


 少し間があった。


「分かりました」


 現実へ戻ると、ユリスがまだ地図の前にいた。


「補償案を作ります」


 私が言うと、彼はすぐに紙を取った。


「対象区画は旧放水路の西側低地。三年前の冠水記録と現行土地台帳を照合します」


「種籾だけでは足りません。すでに蒔いた分、農具、飼料、移動に使った人足も」


「人足までですか」


「村の人が自分の畑を守るために働いたのではなく、下流全体を守るために動くことになります」


 ユリスの筆が止まる。


 すぐに、新しい欄を作った。


「共同防災人足費として分けます」


「お願いします。家畜を高地へ移す場所も必要です」


「旧修道院跡の牧草地が使えます。春の借地契約前です」


「所有者は」


「教会です」


「無償で借りる前提にしないでください」


 ユリスが顔を上げた。


「借地料を?」


「はい。教会にも管理の手間があります。ただし、救援協力として減額を願うことはできます」


「承知しました」


「それから、冠水後の排水と土の確認。すぐに種を蒔き直せるとは限りません」


「農務官を出します」


「一人では足りません」


「近隣村の経験者を雇います。指導料を別に」


 私は頷いた。


 ラッケ村で学んだことが、ここにもつながる。


 知識を持つ者へ、無償で頼らない。


 手間を、善意で消さない。


 畑を沈める判断だけでなく、その後を帳簿にする。


 昼前、ベルナ村から代表者たちが城館へ到着した。


 泥に汚れた農夫が四人。


 村長。


 そして、三年前に冠水した区画を持つ農家の女性。


 彼女の名は、アンナ・ベルク。


 年は四十前後。


 両手は赤く荒れていた。


 会議室へ入るなり、彼女は私を真っ直ぐ見た。


「また、私らの畑を沈めるんですか」


 礼はなかった。


 オルドがわずかに動く。


 私は目で止めた。


「必要になれば、旧放水路を開きます」


「三年前もそう言った」


「はい」


「下の家を守るためだって。種の倉を守るためだって」


「はい」


「守られた人らは、春を迎えた。私らの畑は腐った」


 声は大きくない。


 でも、言葉の一つ一つが重い。


「今年も、同じですか」


「同じ判断になる可能性があります」


 アンナの口元が歪んだ。


「冷血伯は、やっぱり変わらない」


 身体の奥が固くなった。


 エレノア様の反応だ。


 胸の下が冷える。


 呼吸が浅くなる。


 でも、逃げない。


「判断は変えません」


 私は言った。


「第二堰が崩れ、第一堰が危険水位に達した場合、旧放水路を開きます。下流の家屋と種籾倉を守るためです」


「なら、何を話し合うんです」


「沈めた後のことを」


 アンナが眉を寄せた。


 ユリスが補償案の草稿を机へ置く。


「冠水対象区画を、放水前に確定します。蒔かれた種、移動不能な農具、飼料、家畜の避難費用、共同防災人足費を記録します」


「記録して、それで?」


「被害割合に応じ、春税の減免を王都へ申請します。決定までの間は領費から仮補填します」


 村長が息を呑んだ。


「減免、ですか。猶予ではなく」


「はい」


「王都が認めなかったら」


「その場合も、領費による補填分は返還させません」


 ユリスが私を見た。


 確認する視線だった。


 私は頷く。


「ただし、全額補償を約束することはできません」


 アンナの顔がまた硬くなる。


「結局、足りないってことですか」


「足りない可能性があります」


 私は答えた。


「水に流されたものを、すべて元通りにできるとは申し上げられません」


「なら」


「ですが、三年前のように、畑を沈める命令だけを出して終わりにはしません」


 会議室が静まった。


 身体の奥が、また小さく震えた。


 エレノア様は聞いている。


 私は続けた。


「三年前の判断は必要でした。下流の家屋と共同倉を守るために、放水路を開く必要があった。その判断を誤りだったとは申しません」


 アンナは目を逸らさない。


「ただし、冠水した農家への補償と説明は足りませんでした」


 ユリスの筆が止まった。


 オルドも動かない。


 誰も声を出さない。


「それについては、領主としてお詫びします」


 私は頭を下げなかった。


 貴族としての礼を保ったまま、アンナを見る。


 謝罪を、判断の撤回にはしない。


 でも、傷つけたことを消さない。


「……今さら」


 アンナの声がかすれた。


「はい。今さらです」


「謝れば、畑が戻るんですか」


「戻りません」


「夫は、あの年の借金を返すために南へ働きに出た。去年まで戻れなかった」


「記録にありませんでした」


「でしょうね」


 アンナは笑った。


 冷たい笑いだった。


「冷血伯の帳簿には、畑の数しかない」


 痛い。


 その言葉は、私ではなく、奥にいるエレノア様へ届いている。


 でも、否定できない。


「だから、今、聞きます」


 私は言った。


「三年前に失ったものも、今回の記録へ残してください」


「補償してくれるんですか」


「過去分をすべて補償するとは約束できません。ですが、三年前の被害が今も農家の負担として残っているなら、今回の支援額を決める材料にします」


「私らが苦労したって書けば、金になるんですか」


「苦労を金に換えるのではありません」


 言葉を選ぶ。


「今の生活に残っている負担を、なかったことにしないためです」


 アンナは黙った。


 しばらくして、荒れた手を机の上へ置いた。


「夫が南へ行った間、上の子が畑を手伝いました」


「はい」


「学校には行けなかった」


 ユリスが書く。


「牛を一頭売った」


「はい」


「種は借りた。次の年、二倍返した」


 ユリスの筆が止まる。


「貸与記録では、一・二倍となっています」


「村の仲介人に払った分です」


 空気が変わった。


 ユリスの目が鋭くなる。


「仲介人の名は」


「あとで言います」


「分かりました」


 アンナは私を見る。


「今年、畑を沈めるなら」


「はい」


「先に、何を残すか見に来てください」


「人を出します」


「役人だけじゃなくて」


 彼女は言った。


「畑を知ってる人を連れてきてください。芽が出てない畑でも、何もないわけじゃない」


 私は頷いた。


「村から一人、農務官一人、城館の記録係一人。三者で確認します」


「私も行きます」


「お願いします」


 会議は、それから長く続いた。


 冠水予定区画。


 家畜の避難順。


 農具を運ぶ荷車。


 共同倉から分けておく種籾。


 老人と子供の退避先。


 放水の合図。


 土手を切る者。


 切った後に責任を問われないための命令書。


 それが重要だった。


 現場で土手を切る者は、自分の手で他人の畑へ水を入れる。


 命令が曖昧なら、後で恨みを一身に受ける。


「土手を切る責任は、私が負います」


 私は命令書へ書いた。


 ヴァルツェン女伯の命により、旧放水路を開く。


 現場責任者の判断ではない。


 村長の判断でもない。


 命令者名は、私。


 エレノア・フォン・ヴァルツェン。


 その名を書いた時、身体の奥で、かすかな息遣いを感じた。


 夕刻、第二堰の一部が崩れた。


 水位が急に上がった。


 第一堰の上端まで、手のひら一枚。


 巡回兵からの報告を受け、私は命令を出した。


「旧放水路を開いてください」


 命令書が運ばれる。


 ベルナ村の鐘が鳴る。


 低地の者たちは、すでに退避している。


 家畜も、運べる農具も、高地へ移した。


 残ったのは畑だ。


 芽を出した春麦。


 まだ何も見えない土の下の種。


 何年も耕された土。


 土手が切られた。


 濁った水が、低地へ流れ込む。


 最初は細い筋だった。


 すぐに広がった。


 畝と畝の間を埋め、春麦の緑を覆い、畑全体を鈍い灰色へ変えていく。


 私は丘の上から見ていた。


 アンナもいた。


 彼女は何も言わなかった。


 泣かなかった。


 ただ、拳を握っていた。


 隣に立つ私を見ようともしない。


 それでよかった。


 今、許される必要はない。


 感謝される必要もない。


 下流では、川の水位が少しずつ下がっている。


 家屋は残った。


 共同倉も。


 でも、目の前では畑が沈んでいる。


 どちらも事実だった。


「女伯様」


 ユリスが低く言った。


「第一堰、水位が指二本分下がりました」


「記録してください」


「はい」


「放水開始時刻。下流の水位変化。冠水範囲。畑ごとの深さ」


「確認班を出します」


「日が落ちる前に境界杭だけでも」


「承知しました」


 アンナが、濁った畑を見たまま言った。


「三年前は、ここで終わりでした」


 私は彼女を見る。


「命令が出て、水が来て。あとは、自分たちで何とかしろって」


「今回は終わりにしません」


「言いましたね」


「はい」


「覚えておきます」


 信頼ではない。


 警告だ。


 でも、それでいい。


 言葉を守るかどうかは、これから決まる。


 その夜、城館へ戻ると、私はすぐに私的業務記録を開かなかった。


 先に精神世界へ入った。


 寝室の扉の前に立つ。


「エレノア様」


「はい」


「放水路を開けました」


「下流は」


「家も、共同倉も無事です」


「そうですか」


「畑は沈みました」


「……はい」


 扉の向こうが静かになる。


「謝りました」


 私は言った。


「三年前の補償と説明が足りなかったことを」


 返事はない。


「判断が間違いだったとは言ってません」


「はい」


「必要だった。でも、傷つけた。それは両方、本当だと言いました」


 長い沈黙。


「怖くは」


 エレノア様の声が聞こえた。


「ありませんでしたか」


「怖かったです」


「彼らは、怒っていたでしょう」


「はい」


「冷血伯と」


「言われました」


 扉の向こうで、息が止まった気配がした。


「でも、逃げませんでした」


「……そうですか」


「エレノア様」


「はい」


「三年前のあなたも、逃げなかったんですよね」


 返事はすぐにはなかった。


「命令からは」


 やがて、エレノア様は答えた。


「逃げませんでした」


「その後からは?」


 また、沈黙。


「逃げたのかもしれません」


 その言葉は、驚くほど静かだった。


「補償できないことを、説明しても理解されないと思いました。謝れば、判断を撤回しろと言われると思いました。だから、必要な記録だけを残して、次の仕事へ進みました」


「はい」


「それを、逃げたと言うのなら」


「責めません」


 私は扉に手を触れた。


「今、続きをしていますから」


「あなたが」


「私たちが、です」


 扉の向こうで、微かな衣擦れがした。


 誰かが近づいたような。


 でも、扉は開かない。


「玲奈」


 名前を呼ばれた。


 一瞬、呼吸を忘れた。


 エレノア様が、私を玲奈と呼んだ。


 これまでも名前を知っていた。


 でも、こんなふうに、静かに呼ばれたことは少なかった。


「はい」


「ありがとうございます」


 胸の奥が熱くなる。


「まだです」


 声が少し震えた。


「補償も、土の確認も、種の配布も終わってません」


「それでも」


「終わってから、もう一回言ってください」


「……欲張りですね」


「はい」


 思わず笑った。


「推しからの感謝は、何度あっても困りませんので」


「推し」


「あっ」


 遅かった。


「今のは忘れてください」


「難しいです」


 以前にも聞いた返事だった。


 扉の向こうの声に、ほんの少しだけ笑いが混じっていた。


 現実へ戻り、私は私的業務記録を開いた。


 ベルク川第二堰、一部崩落。


 第一堰危険水位到達。


 旧放水路を開放。


 ベルナ村低地農地、冠水。


 下流家屋および共同種籾倉、被害なし。


 冠水区画、明朝より三者確認。


 蒔種、農具、飼料、家畜避難費、共同防災人足費を個別記録。


 春税減免を王都へ申請予定。


 三年前の被害についても、現在残る負担を聞き取り対象とする。


 そこまで書いて、筆を止めた。


 最後に、一行だけ追記した。


 守るために沈めたものを、沈めたままにしてはならない。


 窓の外では、川の音が遠く聞こえていた。


 明日からは、沈んだ畑を数える。


 失った種を数える。


 運べなかった農具を数える。


 畑を守れなかった人の怒りも、帳簿の外へ追い出さない。


 エレノア様の判断は、三年前と同じだった。


 けれど、その先は変えられる。


 厳しい判断を、冷たいままで終わらせない。


 必要だったと言いながら、傷つかなかったことにはしない。


 沈めた畑に、次の種を持っていく。


 それが、私たちの仕事だった。


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