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断罪後の悪役令嬢も、私は推している  作者: Manabit
第六章 王冠は誰の手を汚す

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第38話 理想を書いた者

 決裁を終えた翌朝も、古い王太子府文書はアルベルトの机に残っていた。


 片づけるよう命じることはできた。


 本来なら、そうすべきだったのだろう。


 十年近く前の施策案。


 現行制度とは異なる古い書式。


 王太子府から王宮文書庫へ移管された後、参考資料として保管されていたもの。


 今の国政に直接必要な書類ではない。


 それでも、アルベルトは手放せなかった。


 表紙には、自分の名がある。


 王太子アルベルト殿下御発案。


 冬季における救貧院への粥粉無償供給。


 頁を開けば、エレノアの文字がある。


 対象施設ごとの収容人数。


 幼児、成人、病人の区分。


 粉の配合。


 塩分量。


 運搬経路。


 代替倉庫。


 受領札。


 余剰分の返還。


 凍結で輸送が遅れた場合の優先順位。


 アルベルトは、一つずつ目で追った。


 読めば読むほど、記憶が戻ってくる。


 あの頃の自分は、善い王になりたかった。


 父王のように国を安定させるだけではなく、民の苦しみに手を伸ばせる王に。


 冬に飢える者がいると知れば、食料を配りたかった。


 孤児が寒さに震えていると聞けば、薪と布を届けたかった。


 教会の施療院に薬が足りないと分かれば、王太子府の費用を削ってでも送るべきだと思った。


 その気持ちに、嘘はなかった。


 今もない。


 だが、気持ちだけでは、粥は椀に入らない。


 薪は暖炉へ届かない。


 薬草は、使い方を誤れば毒になる。


 それを、エレノアは知っていた。


 いや。


 自分も、知るべきだった。


 アルベルトは次の文書を開いた。


 地方教会への冬季薪補助案。


 表紙には、また自分の名がある。


 民を凍えさせない王太子の慈愛。


 当時の王都報にそう書かれたことを覚えている。


 だが、中を開けば、エレノアの筆跡が続いていた。


 教会ごとの暖炉数。


 一日あたりの消費量。


 保存状態。


 運搬距離。


 近隣の林から伐採できる量。


 薪を無償配布することで、地元の薪商人が破綻しないための買い取り基準。


 王都から送るべき地域と、現地調達を補助すべき地域の区分。


 そして、欄外に短く記されていた。


 無償配布は一冬限り。


 次年度以降は、教会ごとの備蓄計画提出を条件とする。


 アルベルトは、その文字を見つめた。


 記憶がある。


 教会側から、冷たい条件だと反発が出た。


 困窮している教会へ薪を渡すのに、なぜ翌年の計画まで求めるのか。


 信仰の場を疑うのか。


 そう言われた。


 エレノアは答えた。


 一冬を救うことと、毎冬同じ不足を繰り返すことは違います。


 アルベルトは、その言葉を厳しすぎると思った。


 教会側へもう少し柔らかく説明するよう求めた。


 エレノアは従った。


 言葉を柔らかくした。


 条件は消さなかった。


 その結果、反発は彼女へ向いた。


 王太子は慈愛を示した。


 婚約者は教会へ条件を突きつけた。


 そう語られた。


 アルベルトは椅子から立ち上がった。


 窓の近くまで歩く。


 庭では、婚礼の後に植え替えられた白百合が、春の光を受けている。


 美しい花だった。


 リリアナに似合う。


 清らかで、柔らかく、人を安心させる。


 だからこそ、誰もその花の下にある土を見ようとしない。


 誰が耕したか。


 誰が水を運んだか。


 どれだけの球根が腐ったか。


 どの花を間引いたか。


 花を咲かせるには、選ばなければならないことがある。


 アルベルトは、そういうことをエレノアへ任せていた。


 扉が叩かれた。


「どうぞ」


 入ってきたのはリリアナだった。


 王妃としての装いではあるが、今日は白百合の冠をつけていない。


 手には、小さな書類束があった。


「お忙しいところ、申し訳ありません」


「いや」


 アルベルトは机の上を見た。


 古い文書を隠す気にはなれなかった。


 リリアナも、すぐに気づいた。


「王太子府の書類ですか」


「ああ」


「クラウスから届いた参考資料ですね」


「読んだことはあるか」


「一部だけ」


 リリアナは机へ近づいた。


「灰麦粥用粉の元になった文書は、見せていただきました」


 アルベルトは、彼女の表情を見た。


 以前のリリアナなら、エレノアの書類を前にすると、わずかに身を固くした。


 今も緊張はある。


 だが、目を逸らさなくなっていた。


「この政策を覚えている」


 アルベルトは、薪補助案を示した。


「王都報では、私の慈愛だと書かれた」


 リリアナは何も言わない。


「私は、薪を配ろうと言った。それだけだ」


「それだけではありません」


「いや」


 アルベルトは首を振った。


「気持ちは本物だった。金を出すことも決めた。父上にも話を通した。だが、どの教会へ、どれだけ、どの道で、どの条件で運ぶかは、エレノアが決めた」


 彼は頁をめくる。


「地元の薪商人が潰れないように、王都から無償で送る地域を限った。翌年の備蓄計画を出させた。運搬中の盗難まで想定して、受領責任者を決めた」


「はい」


「それで、冷たいと言われた」


 リリアナの指が、書類の端で止まった。


「私は」


 彼女は小さく言った。


「その頃、エレノア様を怖い方だと思っていました」


 アルベルトは答えなかった。


「孤児院へ菓子を届けたいと申し上げた時も、先に児童数と保管場所を尋ねられました。私は、善意を疑われたと思いました」


「私も、そう思ったことがある」


「ええ」


 リリアナは、わずかに目を伏せた。


「今なら、違ったのだと分かります。私が疑われたのではなく、善意が届くまでの道を確かめていたのでしょう」


「それでも、言い方は厳しかった」


 アルベルトは言った。


 庇うためではない。


 事実として。


「彼女は、人を傷つけなかったわけではない」


「はい」


「相手の誇りを折るような言葉もあった。必要なことなら、相手の気持ちを待たずに進めたことも」


「ヴァルツェンでも、そうだったと聞きました」


 リリアナは答えた。


「ラッケ村の薬草の件です。内服を止めるために、村の誇りまで傷つけた。それでも、止める必要はあった」


「ならば、彼女がすべて正しかったという話でもない」


「そうですね」


 リリアナは書類を見たまま頷いた。


「けれど、彼女一人だけに、厳しさの代価を払わせてよかったという話でもありません」


 アルベルトは、ゆっくり目を閉じた。


 その通りだった。


 エレノアは完全ではなかった。


 冷たい判断もした。


 人を傷つけた。


 説明を省いた。


 自分の正しさを急ぎすぎたこともあった。


 だからといって、自分が負うべき責任まで彼女へ渡してよかった理由にはならない。


「リリアナ」


「はい」


「君は、彼女へ謝りたいと思うか」


 突然の問いだった。


 リリアナはすぐには答えなかった。


 窓の外の白百合へ目を向ける。


「思います」


 やがて、静かに言った。


「私が何を知らなかったのか。何を見ようとしなかったのか。謝りたいと思います」


「許してほしいとも?」


「……はい」


 その返事は小さかった。


「ですが」


 リリアナは続けた。


「許していただければ、私は安心するのでしょうね」


 アルベルトは彼女を見た。


「安心」


「自分は間違いに気づいた。謝罪した。許された。だから、もう過去の自分ではないと」


 リリアナは、胸元で指を重ねた。


「それは、私が楽になるための順番です」


「謝罪すべきではないと?」


「いいえ」


 彼女は首を振った。


「謝罪しなくてよいとは思いません。いつか、申し上げるべきことはあると思います。ただ、今すぐ私の気持ちを受け取ってくださいと求めるのは、違う気がします」


 アルベルトは机の上の文書を見た。


 同じことを、昨日考えた。


 謝りたい。


 許してほしい。


 もう一度、言葉を交わしたい。


 どれも本心だった。


 だが、その本心をエレノアへ送れば、彼女は読まなければならない。


 返事をするか、しないか。


 許すか、許さないか。


 また彼女に決めさせることになる。


「私は昨日、手紙を書こうとした」


 アルベルトは言った。


「書いたのですか」


「いや」


 彼は机の端から一枚の紙を取り出した。


 白紙に近い。


 最初の一行だけがある。


 エレノア。


 すまなかった。


 その下は空白だった。


 リリアナは、長くその紙を見つめた。


「何を謝ればよいか、分からなかった」


「多すぎて?」


「ああ」


 婚約を解いたこと。


 彼女の言葉を聞かなかったこと。


 理想の実務を押しつけたこと。


 嫌われる役を担わせたこと。


 彼女が非難されている間、自分は善良な王太子として支持を得ていたこと。


 最後には、その厳しさを理由にして彼女を排除したこと。


 どれを先に書けばよいのか。


 どれほど書けば足りるのか。


 何を書いても、自分の後悔を並べているだけに見えた。


「書かないのですか」


「今は」


 アルベルトは答えた。


「謝罪から逃げるためではない」


「はい」


「だが、謝罪したことで、何かを果たしたつもりになりたくない」


 リリアナは、ゆっくり頷いた。


「私もです」


 しばらく、二人は黙っていた。


 かつてなら、エレノアについて二人で話すこと自体が難しかった。


 リリアナは罪悪感から目を逸らし、アルベルトは自分の選択を守ろうとした。


 今も、選択をすべて誤りだったとは思えない。


 アルベルトはリリアナを愛している。


 彼女と王妃として歩むことを選んだ。


 その選択と、エレノアへの扱いが正しかったかどうかは別の話だった。


 誰かを選ぶために、別の誰かを悪役にする必要はなかった。


 少なくとも、あれほどまでに。


「君が持ってきた書類は?」


 アルベルトが尋ねると、リリアナは手元の束を差し出した。


「試用版の導入施設候補です」


 王都第一救貧院。


 西区孤児院。


 王都第二施療院。


 中央教会倉庫。


 四施設。


 それぞれに、事故未満の報告が添えられている。


「この四施設から始めたいと思います」


「反発は」


「あります」


 リリアナは答えた。


「第一救貧院は、確認欄が増えれば配膳が遅れると。中央教会は、祈祷記録の位置に納得していません。寄付商会からは、白百合紋が目立たないと苦情が来ています」


「それでも?」


「昨日、陛下がご決裁くださいましたから」


 アルベルトは、その言葉に小さく息を止めた。


 リリアナの声に責める響きはない。


 ただ、決まったこととして受け取っている。


「私は、陛下のご決裁を現場で動かします」


「私が決め、君が動かす」


「はい」


「以前は」


 アルベルトは言いかけ、止まった。


 以前は、自分が理想を語り、エレノアが動かした。


 同じように見える。


 だが、違う。


 今回は、反発が出る条件を自分の名で決めた。


 リリアナも、白百合の名だけを前に出すのではなく、現場の不満を受けるつもりでいる。


「何か?」


「いや」


 アルベルトは首を振った。


「必要な報告は、私にも回してくれ」


「事故未満も?」


「ああ」


「かなり多くなると思います」


「構わない」


「すべてに目を通せますか」


 穏やかな問いだった。


 それでも、アルベルトは一瞬、答えに詰まった。


 王の仕事は多い。


 外交。


 軍。


 税。


 貴族間の調整。


 地方からの陳情。


 すべての事故未満記録を読むことは現実的ではない。


「月ごとの集計を」


 言いかけて、止めた。


 また総数だけを見ようとしている。


「重大度を分けてくれ」


 アルベルトは言い直した。


「すべてを私が直接読むとは言えない。だが、同じ事故未満が三度続いたもの、用途違い、薬草の禁忌、責任者不明は、個別に上げてくれ」


 リリアナの目が、わずかに和らいだ。


「承知しました」


「それ以外も、集計元を残すこと」


「はい」


 この答えが正しいかは分からない。


 エレノアなら、さらに不足を指摘したかもしれない。


 だが、これは自分で決めた。


 不完全でも。


「アルベルト様」


 リリアナが、王妃ではなく妻としての呼び方をした。


「謝りたいという気持ちを、なかったことにしなくてよいと思います」


 アルベルトは彼女を見た。


「消せない」


「私もです」


「だが、今は送らない」


「はい」


「許されることを前提に、何かをするつもりもない」


「はい」


 リリアナは小さく頷いた。


「それでも、いつか言葉を渡せる時が来たなら」


 そこで彼女は言葉を切った。


「返事を求めない言葉にしたいです」


 アルベルトは、その意味を考えた。


 返事を求めない謝罪。


 許しを条件にしない後悔。


 そんなものが本当に書けるのか。


 今は分からない。


 だから、まだ書けないのだろう。


 リリアナが退室した後、アルベルトは再び古い文書を開いた。


 今度は、徴税延期案だった。


 凶作地域の農民を救うため、春税の納付を秋まで延期する政策。


 これも、自分の発案として記録されている。


 だが、実施条件にはエレノアの文字がある。


 延期対象地域。


 免除ではなく延期とする理由。


 種籾を失った農家への追加猶予。


 領主が延期分を農民へ利子付きで転嫁することの禁止。


 虚偽申告への罰則。


 翌年まで凶作が続いた場合の再審査。


 アルベルトは、当時の会議を思い出した。


 徴税延期には、多くの貴族が反対した。


 領地収入が減る。


 王都への納付が遅れる。


 軍備費に影響する。


 エレノアは、反対する貴族の名を一人ずつ挙げ、どの領地なら延期可能か、どこは別の補助が必要かを示した。


 その場で彼女は嫌われた。


 アルベルトは会議の最後に言った。


 民を思う心を忘れてはならない、と。


 自分は理想を語った。


 エレノアは、誰からどれだけ取らないかを決めた。


 そして、彼女が恨まれた。


 頁の端に、短い訂正があった。


 王太子殿下御裁可後、グランディール侯爵令嬢が実施条件を追記。


 それだけ。


 アルベルトは筆を取った。


 新しい紙へ、政策名を書き出す。


 冬季救貧院支援。


 地方教会薪補助。


 施療院薬草供給。


 凶作時徴税延期。


 孤児院衣料配布。


 妊婦、乳幼児優先救済枠。


 自分が発案者として称賛された政策。


 その横に、実施案作成者を書く。


 エレノア・フォン・グランディール。


 当時の名。


 同じ名が並ぶ。


 何度も。


 さらに、その横に反対意見と処理担当を書く。


 教会折衝。


 エレノア。


 財務局調整。


 エレノア。


 貴族家への負担割り当て。


 エレノア。


 不正受給対策。


 エレノア。


 商会への価格交渉。


 エレノア。


 自分の名前は、表紙と最終裁可欄にある。


 彼女の名は、途中にある。


 途中のすべてに。


 アルベルトは、書き終えた紙を見つめた。


 これは告発ではない。


 エレノアがすべてをしたわけでもない。


 多くの文官が働いた。


 商人が運んだ。


 教会が配った。


 厨房が煮た。


 だが、理想を実行可能な形へ変え、誰かへ負担を求める役を担ったのは、ほとんど彼女だった。


 自分は、その構図を便利に思っていた。


 少なくとも、疑わなかった。


 アルベルトは紙の一番下へ書いた。


 王太子の理想を実施可能な形へ整えた者。


 エレノア・フォン・グランディール。


 書いた瞬間、胸が痛んだ。


 だが、消さなかった。


 それは、王都報へ載せる言葉ではない。


 彼女へ送る言葉でもない。


 まず、自分が忘れないための記録だった。


 しばらくして、老書記官を呼んだ。


「王太子府時代の慈善、救済政策の原案をすべて集めてくれ」


 老書記官は、少し驚いた顔をした。


「すべて、でございますか」


「私が発案者として記録されているものを中心に」


「どのような目的で」


 アルベルトは、机上の一覧を見た。


「誰が実施条件を作り、誰が反対を受け、誰が修正したかを確認する」


 老書記官の目が、古い文書の余白へ向いた。


 そこにある筆跡を、彼も知っているのだろう。


「承知いたしました」


「それから」


 アルベルトは一度言葉を止めた。


「表紙だけではなく、別紙と欄外も確認してくれ」


 老書記官は深く頭を下げた。


「はい、陛下」


 書記官が退室した後、アルベルトは書きかけの謝罪文を手に取った。


 エレノア。


 すまなかった。


 まだ、その先は書けない。


 だが、昨日よりは少しだけ分かっていた。


 何を謝りたいのか。


 彼女を失ったことではない。


 自分の隣からいなくなったことでもない。


 彼女が担っていたものを見ようとせず、彼女の厳しさだけを見ていたこと。


 理想の美しい部分を自分の名で受け取り、その代価を彼女へ残していたこと。


 それを謝りたい。


 だからこそ、今は送らなかった。


 言葉にする前に、自分が何をしていたのかを最後まで読まなければならない。


 アルベルトは謝罪文を破らなかった。


 折り畳み、古い王太子府文書の下へ置いた。


 許しを求めるためではない。


 忘れないために。


 王の机には、まだ読むべき書類が残っていた。

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