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断罪後の悪役令嬢も、私は推している  作者: Manabit
第六章 王冠は誰の手を汚す

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第37話 王の未決裁

 国王アルベルトの机には、三通の意見書が並んでいた。


 一通目は式典局から。


 聖女慈善基金の事業である以上、白百合紋をより大きく掲げ、王妃の名を表題の前に置くべきだと書かれている。


 二通目は教会から。


 祈祷記録を倉庫管理記録より後ろへ置くことは、寄付者の信仰心を軽んじる印象を与えかねない、とあった。


 三通目は財務局から。


 施設別、品目別、用途別に帳簿を分ければ、記録量が増え、現場の負担が重くなる。王妃宮用の集計台帳へ一本化する方が効率的である、という意見だった。


 どれも、無理なことは書いていない。


 白百合の名によって集まった寄付である。


 祈りを込めて差し出した者への敬意も必要だ。


 現場へ過度な記録を求めれば、配布そのものが遅れる危険もある。


 それぞれに理があった。


 だからこそ、アルベルトの手は止まっていた。


 机の中央には、もう一冊の書類がある。


 表紙には、飾り気のない文字で記されていた。


 ヴァルツェン式配布管理 王都試用版。


 その下に、小さく、


 聖女慈善基金配布事業への試験導入案。


 白百合紋は、表紙の端に置かれている。


 小さすぎるわけではない。


 だが、王都の式典文書に慣れた目には、ひどく控えめに見えた。


 アルベルトは、表紙を開いた。


 王妃宮用集計台帳。


 施設別現場台帳。


 品目別札一覧。


 対応番号表。


 改変履歴。


 事故未満記録。


 頁をめくるほど、必要な記録は増えていく。


 受取責任者。


 配布責任者。


 保管責任者。


 確認者。


 事故時の戻し先。


 札を改変した者。


 棚を移した者。


 誰が止めたか。


 どこで気づいたか。


 何が起きなかったか。


 事故が起きなかったことまで、記録する。


 アルベルトには、少し重く見えた。


 慈善とは、本来もっと柔らかなものではなかったか。


 困窮する者へ食料を配る。


 寒さに震える者へ布を渡す。


 病む者へ薬を届ける。


 そこへ、これほど多くの責任者名と確認欄を置けば、善意を差し出す者まで萎縮するのではないか。


 そう思ったところで、彼は自分の指が止まっていることに気づいた。


 決裁欄の上だった。


 採用。


 修正のうえ採用。


 再審議。


 どれかへ印を置けばよい。


 だが、置けない。


 式典局にも理がある。


 教会にも理がある。


 財務局にも理がある。


 そして、ヴァルツェンにも。


 アルベルトは背もたれへ身を預けた。


 窓の外では、王宮の庭師たちが婚礼の飾りを外している。


 白百合の意匠を施した布が、一本ずつ柱から降ろされていた。


 婚礼から、すでに季節が進んでいる。


 それでも慈善基金の混乱は終わっていなかった。


 寄付品は今も増えている。


 受領した施設は、善意を拒めない。


 倉庫が埋まる。


 札が増える。


 追加された祝賀札が、元の用途印を隠す。


 配ったという報告は届く。


 だが、誰へ届いたかは分からない。


 何も起きなければ、問題なしと記録される。


 誰かが寸前で止めていても。


 扉が叩かれた。


「入れ」


 入室したのは、クラウス・レーヴェン宮中男爵だった。


 ヴァルツェンから戻って以来、彼の姿には以前と違うところがある。


 礼は変わらず正しい。


 服装も王妃宮実務官として整っている。


 だが、持っている書類が増えた。


 以前なら清書された報告書だけを持ってきた。


 今は、その下に赤入れ済みの草案や、倉庫札の見本まで抱えている。


「陛下。お時間を頂戴いたします」


「試用版の件か」


「はい」


 クラウスは机の前で礼をした。


 アルベルトは三通の意見書を示した。


「反対ではない。だが、修正を求める声が多い」


「承知しております」


「式典局は白百合紋を大きくしたい。教会は祈祷記録の位置を戻したい。財務局は帳簿を減らしたい」


「はい」


「どれも、不当な要求とは言えない」


 クラウスはすぐには答えなかった。


 視線を下げ、机上の書類を見る。


「陛下は、どの部分が必要だとお考えでしょうか」


 問い返されるとは思わなかった。


 アルベルトは少し眉を寄せた。


「必要な部分か」


「はい。ヴァルツェン式の何を残し、何を変えるべきとお考えでしょうか」


「その判断のために、お前たち実務官の意見を求めている」


「意見は提出いたしました」


 声は穏やかだった。


 だが、引く気配がない。


「表題は維持。白百合紋は用途印および禁忌表示を隠さない位置に置く。薬草は食料と別台帳。事故未満記録と改変履歴は必須。現場用と王妃宮集計用は分け、対応番号でつなぐ。それが派遣チームの意見です」


「分かっている」


「でしたら、あとは陛下のご決裁です」


 アルベルトの指が、机の上でわずかに動いた。


 言葉としては当然だった。


 王へ提出された制度案を、王が決裁する。


 それだけのことだ。


 けれど、クラウスの声には、ただ手順を確認する以上のものがあった。


「私が、三者の意見を調整せず決めろと?」


「調整は必要です」


「ならば、もう一度協議を」


「協議を重ねても、白百合紋を大きくしたい者と、禁忌札を大きくしたい者の意見は一致しません」


 静かな部屋に、言葉が落ちた。


「祈祷記録を先に置きたい者と、棚番号を先に置きたい者も。帳簿を減らしたい者と、事故未満を残したい者も同じです」


「だからこそ、双方が納得できるところを探すべきではないか」


「双方が納得するまで、現場は従来の様式を使います」


 アルベルトはクラウスを見た。


「それが何を意味する」


「何も変わらないということです」


 クラウスは答えた。


「そして、何も変わらないことを選んだ者の名は、どこにも残りません」


 室内が静まった。


 アルベルトは机の上の事故未満記録へ目を落とした。


 孤児院用の薄味粥粉が、救貧院の成人向け箱へ混ざりかけた。


 施療院用の薬草袋が、教会倉庫の一般配布棚へ置かれかけた。


 用途印が祝賀札で隠れかけた。


 いずれも事故にはならなかった。


 誰かが止めたからだ。


「お前は、私が決めないことで事故が起きると言いたいのか」


「事故が起きるとは断言できません」


「ならば」


「ですが、陛下が決めなければ、従来の仕組みが続くとは断言できます」


 クラウスの声は変わらない。


「決めないことも、現状を選ぶ決定です」


 アルベルトは返事をしなかった。


 胸の内に、小さな不快感が生じていた。


 責められている。


 そう感じた。


 自分は、考えている。


 式典局の立場も、教会の立場も、現場の負担も無視せず、最も穏当な形を探している。


 拙速な決定で混乱を増やすより、慎重であるべきだ。


 王とは、誰か一人の意見だけで動いてはならない。


 そう思う。


 間違ってはいない。


 だが、その正しさの中に、別のものが隠れている気がした。


 誰からも強く憎まれない答えを探している。


 式典局からも。


 教会からも。


 財務局からも。


 寄付商会からも。


 誰からも。


「クラウス」


「はい」


「ヴァルツェン女伯は、この制度を決める時、反対を受けなかったのか」


 クラウスは、わずかに目を伏せた。


「受けたと聞いております」


「誰から」


「村から。教会から。倉庫担当から。厨房から。商人から。そして、城館内部からも」


「それでも押し通したのか」


「いいえ」


 意外な答えだった。


「押し通しただけではありません。使えなかった札は直し、読まれなかった印は変え、村が拒んだ方法は理由を記録したうえで組み直しています」


「ならば、調整したのだろう」


「はい。ただし、残すべき線は残しました」


「残すべき線」


「薬草の禁忌。配布責任者。事故の戻し先。誰が止めたか。どこで変えたか」


 クラウスは机上の試用版を見た。


「嫌がられても、そこは消さなかった」


 アルベルトは表紙を見つめた。


 ヴァルツェン式。


 その名の下にある、細かな欄。


 エレノアは、こういう書類を作る女だった。


 王太子時代から。


 自分が新しい慈善策を口にすると、彼女は必ず尋ねた。


 対象者は。


 財源は。


 輸送は。


 冬季の保管は。


 重複受給への対応は。


 不正が起きた場合の責任者は。


 アルベルトは、そのたびに思っていた。


 まだ何も始めていないのに、なぜ最初から人を疑うのか。


 困っている者を助けようという話なのに、なぜ条件から入るのか。


 エレノアの言葉は正しい。


 だが、正しすぎる。


 もっと人を信じてもよいのではないか。


 そう言ったこともあった。


 エレノアは反論しなかった。


 ただ、書類を作り直した。


 アルベルトの理想が通る形に。


 それでも事故が起きない形に。


 誰かへ負担が偏りすぎない形に。


 その過程で反発が出れば、彼女が説明した。


 厳しい条件が必要なら、彼女が口にした。


 断る必要があれば、彼女が断った。


 そして、冷たいと言われた。


「陛下」


 クラウスの声で、アルベルトは意識を戻した。


「王妃殿下も、表題と用途表示の維持を望んでおられます」


「リリアナが」


「はい。ただし、最終決裁は陛下へ委ねると」


 アルベルトは少しだけ息を吐いた。


 リリアナは、自分へ押しつけたのではない。


 王妃宮の事業であっても、教会や財務局をまたぐ制度変更は王の決裁が必要だ。


 それでも一瞬、彼女が決めてくれればと思った自分がいた。


 エレノアがいれば。


 その考えが浮かび、アルベルトの指が止まった。


 エレノアがいれば、どうしただろう。


 式典局へ説明し、教会へ譲歩できる部分を示し、財務局には集計用の別表を作らせる。


 最後に、残すべき線を残した案を自分の前へ置く。


 そしてアルベルトは、それに署名する。


 それで政策は王の名によって実行される。


 反発は、エレノアへ向かう。


「……下がってくれ」


 アルベルトは言った。


 クラウスはすぐには動かなかった。


「陛下」


「今日中に決裁する」


 その言葉に、クラウスは深く頭を下げた。


「承知いたしました」


 扉が閉じる。


 アルベルトは一人になった。


 三通の意見書。


 ヴァルツェン式配布管理。


 決裁欄。


 彼は筆を取った。


 まず式典局への回答を書く。


 白百合紋は維持する。


 ただし、用途印および禁忌表示を妨げない位置と大きさに限る。


 筆が止まる。


 式典局は不満を持つだろう。


 婚礼記念事業の象徴性を損なうと言うかもしれない。


 次に教会への回答。


 祈祷記録は削除しない。


 ただし、倉庫用台帳では、棚番号、保管責任者、用途、禁忌を先に記載する。


 教会は、信仰を実務の後ろへ置いたと反発するかもしれない。


 財務局への回答。


 王妃宮用の集計台帳は一本化する。


 ただし、施設別現場台帳および品目別台帳は維持し、対応番号で接続する。


 記録量は減らない。


 現場から不満が出るだろう。


 アルベルトは筆を置き、書いた文を読み返した。


 誰も完全には満足しない。


 おそらく、それで正しいのだ。


 誰か一人へ、すべての不満を引き受けさせないためには。


 彼は試用版の決裁欄へ筆を進めた。


 正式採用ではない。


 王都内の指定施設で、半年間の試験導入。


 事故未満記録を毎月王妃宮へ報告。


 制度の改変は、理由と責任者名を残す。


 薬草関係は施療院の薬務責任者が確認。


 教会倉庫では、祈祷記録と保管記録を分離。


 表題は維持。


 ヴァルツェン式配布管理 王都試用版。


 最後に署名する。


 アルベルト・レオンハルト・アーデル王国国王。


 自分の名を書く。


 その下に、王璽を押す欄がある。


 アルベルトは印を持ち上げた。


 重い。


 何度も押してきたはずの王璽が、今日は重かった。


 王冠も、おそらく同じなのだろう。


 頭に載せているだけなら、飾りに見える。


 だが、その名で誰かの利益を削り、誰かに負担を求め、反発を受ける時、初めて重さが分かる。


 印を押した。


 乾いた音がした。


 それだけだった。


 誰かが泣くわけでもない。


 歓声もない。


 ただ、決裁が一つ終わった。


 アルベルトは、三通の意見書を脇へ置いた。


 その時、試用版の下から古い紙の端が見えた。


 クラウスが参考資料として添付した、過去の王太子府文書だった。


 冬季救貧院支援案。


 十年近く前のものだ。


 表紙には、自分の名があった。


 王太子アルベルト殿下御発案。


 冬季における救貧院への粥粉無償供給。


 若い自分が考えた政策だ。


 寒さの中で、食事を取れない者を減らしたかった。


 父王からも褒められた。


 王都報にも載った。


 民を思う王太子の慈愛、と。


 アルベルトは頁をめくった。


 対象施設の選定。


 必要量の算定。


 粉の配合。


 塩分量。


 幼児用の分離。


 輸送費。


 不足時の優先順位。


 重複配布を防ぐ受取札。


 配布後の余剰分返還。


 欄外に、細い文字が並んでいる。


 エレノアの字だった。


 表紙にはない。


 発案者欄にもない。


 ただ、実施案のほぼすべてに、彼女の筆跡がある。


 アルベルトは、頁をめくる手を止めた。


 記憶が戻る。


 あの政策を提案した日、自分は熱心に語った。


 冬に空腹で眠る子供をなくしたい。


 温かい粥を、すべての救貧院へ届けたい。


 エレノアは静かに聞いていた。


 そして言った。


 すべての施設へ同量を配れば、人数の多い施設が不足します。


 幼児と成人では配合を分ける必要があります。


 塩を含む粉は、病人用と分けるべきです。


 輸送路が凍結した場合の代替倉庫を決めなければなりません。


 アルベルトは、少し苛立った。


 まだ始めてもいない。


 まずは助けると決めるべきだ。


 細かな問題は、その後で解決すればよい。


 そう言った。


 エレノアは目を伏せ、承知しましたと答えた。


 その後、彼女が解決した。


 細かな問題を。


 すべて。


 アルベルトは古い文書を閉じた。


 胸の奥に、重いものが残った。


 すまなかった。


 言葉が浮かんだ。


 誰もいない部屋で。


 声にはならない。


 何に対する謝罪なのか、自分でも一つには絞れなかった。


 彼女の言葉を聞かなかったこと。


 理想だけを語り、その条件を彼女に整えさせたこと。


 反発を受ける役を任せたこと。


 彼女が冷たいと言われる時、自分は優しい王太子として称賛されていたこと。


 そして最後には、その冷たさを理由の一つにして、彼女を隣から退けたこと。


 すべてだ。


 謝りたいと思った。


 許してほしいとも。


 もう一度、自分の言葉を聞いてほしい。


 そんな願いまで浮かんだ。


 アルベルトは目を閉じた。


 その願いが、あまりにも自分本位に思えた。


 謝れば、自分は謝った人間になれる。


 許しを求めれば、許すかどうかを決める仕事を、またエレノアへ渡すことになる。


 話を聞いてほしいと願えば、傷つけられた彼女へ、自分の後悔を受け止める役まで求めることになる。


 それでも、謝りたいという気持ちは消えなかった。


 消すべきでもないのかもしれない。


 ただ、今、その気持ちを彼女へ渡すべきではない。


 アルベルトは、古い文書を試用版の横へ置いた。


 一方には、かつてエレノアが整えた政策。


 もう一方には、ヴァルツェンから戻ってきた制度。


 どちらにも、彼女の仕事がある。


 だが、今日の決裁には、自分の判断がある。


 十分ではない。


 一つ決めただけだ。


 これで何かが償われるわけでもない。


 許される理由にもならない。


 それでも、アルベルトは決裁済みの書類を見た。


 表題は消さなかった。


 禁忌欄も。


 事故未満記録も。


 改変履歴も。


 誰かが嫌がる条件を、自分の名で残した。


 扉の外へ声をかける。


「書記官を」


 すぐに老書記官が入室した。


 アルベルトは決裁済みの試用版を渡した。


「王妃宮、式典局、教会、財務局へ回せ」


 老書記官は内容を確認し、わずかに目を上げた。


「修正協議には戻されないのでございますか」


「戻さない」


「反発が予想されます」


「分かっている」


「陛下のご決定として通知いたしますか」


 アルベルトは一度だけ息を吸った。


「そうだ」


 老書記官は深く頭を下げた。


「承知いたしました」


 書類が運ばれていく。


 机の上には、古い王太子府文書だけが残った。


 表紙には、自分の名。


 中には、エレノアの字。


 アルベルトはその紙を、すぐには片づけなかった。


 王冠を戴く者が手を汚さなければ、その汚れは消えるのではない。


 見えない場所で、誰かの手へ移るだけだ。


 そして、自分は長い間、その手が誰のものかを知ろうとしなかった。


 窓の外で、白百合の飾りが最後の一本まで外された。


 春の光が、何もなくなった柱へ差し込んでいる。


 アルベルトは、古い書類の余白に残る細い字を見つめた。


 謝罪の言葉は、まだ書けなかった。


 代わりに、今日、自分の名で一つ決めた。


 それがあまりに遅いことを、彼自身が一番よく分かっていた。

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