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断罪後の悪役令嬢も、私は推している  作者: Manabit
第五章 白い手紙と灰色の帳簿

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幕間 宮中男爵は白い手袋を外す

 その任務を命じられた時、私、クラウス・レーヴェンは、正直なところ、乗り気ではなかった。


 辺境が嫌だったのではない。


 ヴァルツェン女伯を侮っていたわけでもない。


 ただ、王妃宮の机には、まだ片づいていない報告書が積まれていた。


 救貧院、孤児院、施療院、教会倉庫。


 どこも混乱している。


 婚礼記念の配布品は、王都中から善意とともに集まり続けていた。


 食料。


 布。


 薬草。


 寄付金。


 祈祷済みの護符。


 子供用の菓子。


 病人用の粥粉。


 寒さに弱い老人へ配る外套。


 それらは一つ一つを見れば、間違いなく善意だった。


 だが、善意は箱に入れた瞬間から、管理すべき物資になる。


 そして王都は、そのことを少し軽く見ていた。


 私も、その一人だったのだろう。


 聖女慈善基金の配布管理を整えるため、ヴァルツェン女伯のもとへ実務官を派遣する。


 王妃リリアナ妃殿下からそう告げられた時、私は礼を取った。


 拒む理由はない。


 王妃宮付きの実務官として、命じられた任を果たすだけだ。


 だが、心のどこかで思っていた。


 今、王都を離れるのか、と。


 配布事故はまだ起きていない。


 しかし、事故になりかけた事例はすでに複数ある。


 孤児院用の薄味粥粉が、救貧院の成人向け箱へ混ざりかけた。


 施療院管理用の薬草袋が、教会倉庫の一般配布棚へ置かれかけた。


 祝賀札が、用途印や禁忌札を隠しかけた。


 どれも、誰かが止めた。


 だから、大きな事故にはならなかった。


 けれど、止めた者の名は報告書の端に小さく残るだけだった。


 いや、残っていないものもあった。


 それを整理しなければならない時に、王都を離れる。


 しかも、北方の女伯に教えを受けるために。


 冷血伯。


 その名を知らない王都官吏はいない。


 王太子殿下の婚約者であった頃から、厳しく、冷たく、笑わず、慈善の場にまで数字と手順を持ち込んだ女。


 そう語られていた。


 私は、その噂を丸ごと信じていたわけではない。


 王都に長くいれば、噂がどれほど都合よく曲がるかは分かる。


 ただ、彼女が厳しい人物であることは事実なのだろうと思っていた。


 そして、厳しい人物の帳簿なら、学ぶところはあるかもしれないとも思った。


 だが、それでも。


 札と台帳なら、王都にもある。


 通達、責任部署、承認印、報告経路。


 それらを組み直すことなら、王妃宮でもできる。


 そう思っていた。


 その時、リリアナ妃殿下が言った。


「ヴァルツェンへ着いたら、まず帳簿ではなく倉庫を見てください」


 私は、思わず顔を上げた。


「倉庫、でございますか」


「はい」


 妃殿下は、机の上の返書に視線を落としていた。


 ヴァルツェン女伯からの返書。


 そこには、王都への参上はいたしません、と書かれていた。


 そして、必要なら王都の実務官をヴァルツェンへ寄越すように、と。


 丁寧な言葉だった。


 だが、線は明確だった。


「女伯なら、きっとそうすると思います」


 妃殿下は静かに言った。


「帳簿だけではなく、棚を見せるはずです」


 帳簿ではなく、倉庫。


 制度を見るなら、普通は書式から入る。


 王都ではそうだ。


 まず通達を読む。


 責任者を確認する。


 承認印を見る。


 報告経路を押さえる。


 そのうえで、現場の運用を合わせていく。


 だが、ヴァルツェン女伯は倉庫から見せるという。


 その順番だけは、少し気になった。


 辺境の奇習なのか。


 それとも、王都が見落としている何かなのか。


 私はその時、初めて任務への重さとは別のものを覚えた。


 興味だった。


 小さなものだ。


 だが、確かにあった。


 ヴァルツェンへ向かう道は、王都の石畳とは違っていた。


 雪解けの泥が車輪に絡み、馬車は何度も揺れた。


 王都で整えた白い手袋は、城館へ着く前に端を汚した。


 私はそれを少し不快に思った。


 今思えば、その不快感こそ、王都の手だったのだろう。


 汚れないことに慣れた手。


 汚れたものを、どこか別の場所で誰かが処理していることを、深く考えない手。


 ヴァルツェン城館で出迎えた女伯は、噂よりも若く見えた。


 だが、立ち姿は崩れない。


 礼は正確で、言葉は短い。


 歓迎の美辞麗句は、ほとんどなかった。


 私は王妃殿下からの指示を伝えた。


 まず倉庫を見るよう申し付けられている、と。


 女伯は一瞬だけ、目を瞬かせた。


 ほんのわずかだった。


 だが、私は見逃さなかった。


 彼女は驚いたのだ。


 おそらく、リリアナ妃殿下がそこまで伝えていたことに。


 その反応を見た時、私は少しだけ考えを改めた。


 王妃殿下は、ヴァルツェン女伯をただ便利な実務者として呼ぼうとしたのではない。


 少なくとも、今は。


「では、その通りに」


 女伯は言った。


「まず、倉庫を見ていただきます」


 そこから先は、私が思っていた研修とはまったく違った。


 第一備蓄庫。


 灰麦の匂い。


 乾燥豆の袋。


 棚番号。


 鍵札。


 袋の角の切り方。


 丸印二つは成人向け粥粉。


 丸印一つは孤児院向け薄味。


 塩入りと塩なし。


 購入分、物納分、寄付受入分。


 同じ灰麦なのに、棚が違う。


 同じ袋なのに、帳簿色が違う。


 私は最初、それを細かすぎると思った。


 だが、ユリス・バルクという文官が静かに説明した。


 購入分は再調達しやすい。


 物納分は村ごとに乾燥率が違う。


 寄付分は次回の品質も量も保証されない。


 合算すると、足りない理由が消える。


 その時、私は何も言えなかった。


 王都では、総数を見ていた。


 いくつ受け取ったか。


 いくつ配ったか。


 いくつ残ったか。


 もちろん、それも必要だ。


 だが、総数は理由を消す。


 同じ数に見えるものの中に、次回も用意できる物と、二度と同じ形では来ない物がある。


 それを混ぜれば、次の配布で見込みを誤る。


 私はその日、帳簿を見る前に、自分の帳簿の薄さを見せられた。


 薬草庫では、さらに手痛かった。


 薬草庫管理人セリアは、私たちを客人として扱わなかった。


 少なくとも、薬草の前では。


 彼女は札を指し、こう言った。


「白百合紋を貼るなら、貼る場所を決めてください。禁忌札の上に貼るなら、祝福ではなく危険です」


 その言葉に、私は反論できなかった。


 反論する資格がなかった。


 王都では、白百合紋は善意の印だった。


 寄付を集める力がある。


 人を安心させる力がある。


 聖女王妃の名があれば、扉は開く。


 だが、その紋が禁忌札を隠せば、人を危険にさらす。


 それは、言われてみれば当然のことだった。


 当然のことなのに、王都では誰も強く言わなかった。


 美しくないからだ。


 善意の印より危険表示を大きくすることは、式典局には好まれない。


 寄付商会にも好まれない。


 教会側にも、顔をしかめる者が出るだろう。


 だから、誰も正面から言わなかった。


 そして、その言われなかったことを、ヴァルツェンの薬草庫で言われた。


 厨房では、鍋の水線を見せられた。


 文字ではない。


 絵と線。


 美しい説明文ではなく、忙しい者が間違えないための線。


 ハンナという厨房の女は、私たちの整えた札を見て、すぐに言った。


「鍋の前では、なるほどと言っている時間はありません」


 私は、その言葉を報告書の欄外に書いた。


 最初は記録のためだった。


 後には、自分への戒めになった。


 なるほど、と言って済ませる者は、まだ鍋の前に立っていない。


 研修は十日で終わらなかった。


 終わるはずがなかった。


 私は王妃宮へ滞在延長を願い出た。


 書状を書く時、少し恥ずかしかった。


 十日程度で概要を把握できると考えたのは、私だったからだ。


 恥ずかしい。


 だが、その恥は残すべきものだった。


 消せば、また同じ過ちをする。


 ヴァルツェンでは、失敗を消さない。


 失敗を戻せる形にする。


 最初は、その言い方も厳しすぎると思った。


 だが、三か月も経つ頃には、私自身が同じことを口にするようになっていた。


 模擬配布で、孤児院用の粥粉と救貧院用の粥粉が混ざった。


 実際の配布ではなかった。


 だから、子供の椀には届かなかった。


 それでも、事故未満として記録した。


 薬草棚では、禁忌札が内側を向いた。


 薬草は正しい棚にあった。


 しかし、札が見えなければ止まらない。


 これも事故未満として記録した。


 教会倉庫では、祈祷記録が棚番号より前に置かれた。


 祈りを否定する必要はない。


 だが、保管の記録と混ぜれば、どちらも読まれない。


 これも直した。


 赤入れされた紙は、日に日に増えた。


 最初は見苦しいと思った。


 王妃宮へ出す報告書に、これほど欄外と矢印があってよいのかと。


 だが、整いすぎた報告書は、失敗の跡を消す。


 そう言ったのは、ユリスだった。


 私は彼の言葉に、ヴァルツェン女伯と同じ温度を感じた。


 冷たいのではない。


 消さないのだ。


 誰の手が止めたのか。


 どこで迷ったのか。


 どの札が読まれなかったのか。


 どの棚で混ざったのか。


 それらを消さないために、ヴァルツェンの帳簿は灰色で、細かく、見苦しい。


 だが、その見苦しさが、人を守っていた。


 帰還の日、私は備蓄庫をもう一度見せてほしいと願った。


 最初の日と同じ棚を見た。


 同じ袋を見た。


 同じ灰麦の匂いを吸った。


 だが、見えるものは違っていた。


 初日は、台帳に写すための形を見ていた。


 帰還の日は、棚と手と失敗の戻し先を見ていた。


 袋の角に触れる者。


 鍋へ運ぶ者。


 鍵を戻す者。


 受け取りに署名する者。


 間違いに気づいて止める者。


 帳簿は、紙ではなかった。


 紙に結び直された、人の動きだった。


 王都へ戻った時、私の手袋はもう白くなかった。


 正確には、白い手袋は荷箱の奥に入ったままだった。


 王妃宮へ入る前、従者が新しい手袋を差し出した。


 私は一度それを受け取った。


 だが、つけなかった。


 指先には、インクの跡が残っていた。


 爪の際には、備蓄庫の埃がわずかに入っている。


 礼儀としては、白い手袋をつけるべきだったのかもしれない。


 だが、その時の私は、汚れた指で報告書を持つべきだと思った。


 報告会は、予想通り荒れた。


 式典局の官吏は、表紙を見て眉をひそめた。


「ヴァルツェン式、ですか」


「はい」


「聖女慈善基金の試用案であれば、その名を前に出すべきでは」


「副題として記載しております」


「白百合紋も、端に寄りすぎているように見えます」


「用途と禁忌を隠さない位置に置きました」


「しかし、寄付者への印象が」


「白百合紋では禁忌は止まりません」


 室内が静まった。


 私は、自分の声が思ったより硬いことに気づいた。


 だが、引くつもりはなかった。


 寄付商会の代表が、困ったように言った。


「帳簿が多すぎます。現場が嫌がるでしょう」


「嫌がると思います」


「では、もう少し簡略化を」


「減らすなら、何が消えるかを先に確認してください」


「何が、とは」


「事故未満記録。改変履歴。禁忌欄。戻し先。配布責任者。受取責任者。棚番号。袋札の向き。水量札。これらのどれを消すのか、決めてから減らしてください」


 誰もすぐには答えなかった。


 それはそうだろう。


 減らせ、と言うのは簡単だ。


 だが、何を消すのかを名指しするのは難しい。


 教会側の書記が、慎重に口を開いた。


「祈祷記録が後方に置かれておりますが、これは教会側で抵抗が出ます」


「祈祷記録を消す必要はありません」


「では、なぜ後方に」


「倉庫で最初に必要なのは、棚番号と保管責任者だからです。祈りは箱の位置を覚えてくれません」


 言ってから、私はユリスの言葉をほとんどそのまま使ったことに気づいた。


 少しだけ苦笑しそうになった。


 だが、笑わなかった。


 この場では、笑うべきではない。


「教会が祈ることを否定しているのではありません。祈りと保管を同じ欄に置くと、どちらも読まれない。だから分けるのです」


 教会側の書記は黙った。


 納得したわけではないだろう。


 だが、反論は止まった。


 次に、式典局の官吏が声を低くした。


「しかし、冷血伯の名が前に出れば、寄付者が不安を覚える可能性があります」


 私は、その言葉を予想していた。


 それでも、胸の奥が少し冷えた。


 冷血伯。


 王都はまだ、その名で彼女を呼ぶ。


 ヴァルツェンで見た備蓄庫を知らずに。


 薬草庫の札を知らずに。


 厨房の水線を知らずに。


 赤入れされた報告書を知らずに。


 私は静かに息を吸った。


「これは女伯の名誉のためではありません」


 室内の視線が集まる。


「ヴァルツェン式と記すのは、どこで学び、どこへ戻して確認すべきかを残すためです。王都で勝手に変えたものを、後からヴァルツェン式と呼ぶわけにはいきません。逆に、ヴァルツェンで学んだものを王都の美名で塗り替えれば、改変時の戻し先が消えます」


「戻し先」


「はい」


 私は報告書の一頁を開いた。


 事故未満記録。


 禁忌札が隠れかけた事例。


 粥粉の用途違い。


 祈祷記録と棚番号の混同。


 水量札の読み違い。


「善意の失敗は、誰も悪くないという言葉で消えます。消えれば、次も同じ場所で止めることになります。女伯は、それを消さない仕組みを作っていました」


 私はそこで、少しだけ言葉に詰まった。


 女伯は。


 そう言った時、ヴァルツェンの執務室で見た彼女の姿が浮かんだ。


 若く、静かで、厳しい。


 だが、あの厳しさの中に、消さない意思があった。


「冷血伯と呼ばれた方が、なぜ冷たく見えたのか」


 私は続けた。


「我々は、考えるべきです」


 室内は静かだった。


 嫌われるだろうな、と私は思った。


 だが、不思議と怖くはなかった。


 ヴァルツェンでは、もっと手厳しい沈黙を何度も経験した。


 セリアの無言。


 ユリスの静かな指摘。


 ハンナの鍋の前の一言。


 それらに比べれば、王都の不満はまだ言葉になっているだけましだった。


 最後に、リリアナ妃殿下が報告書を手に取った。


 表紙を見る。


 ヴァルツェン式配布管理 王都試用版。


 聖女慈善基金配布事業への試験導入案。


 白百合紋は端にある。


 妃殿下は、しばらく何も言わなかった。


 その沈黙の間、私は、自分の指先のインク跡を見ていた。


 白い手袋をしていなくてよかったと思った。


 この報告書は、綺麗な手だけで持つものではない。


「表題は、このままで」


 やがて、妃殿下が言った。


 式典局の官吏が顔を上げる。


「妃殿下」


「白百合紋は、用途と禁忌を隠さない位置に置きなさい」


「しかし」


「慈善の名が、危険表示を隠してはなりません」


 その声は、強くはなかった。


 だが、引かなかった。


 私は、ヴァルツェンへ向かう前の王妃殿下を思い出した。


 まず倉庫を見なさい。


 あの言葉の意味を、私はようやく王都で理解した気がした。


 報告会の後、私は一人で残り、表紙の配置を確認した。


 式典局の者が用意した清書案では、やはり白百合紋が中央に寄せられていた。


 悪意ではない。


 彼らにとって、美しく整えるとはそういうことなのだ。


 私は、紋章の位置を端に戻した。


 中央には、表題を置く。


 ヴァルツェン式配布管理 王都試用版。


 白百合を消すわけではない。


 ただ、隠させない。


 紋章も、祈りも、善意も、消す必要はない。


 だが、それらが用途、禁忌、責任、戻し先を覆ってはならない。


 私は白い手袋を机の端に置いたまま、汚れた指で報告書を閉じた。


 紙の端に、わずかにインクがついた。


 以前なら、すぐに拭き取っただろう。


 今は、そのままにした。


 見苦しいかもしれない。


 だが、見苦しいものが残している事実もある。


 ヴァルツェン女伯は、王都へ戻らなかった。


 こちらが行き、見て、泥を踏み、赤を入れられ、持ち帰った。


 それだけのことだ。


 だが、それは王都にとって小さなことではない。


 私は報告書の最後に、自分の名を書いた。


 クラウス・レーヴェン。


 王妃宮実務官。


 ヴァルツェン研修派遣代表。


 その肩書きが、以前より少し重く感じた。


 嫌われるだろう。


 式典局にも、寄付商会にも、教会側にも、王妃宮の中にさえ、面倒なことを持ち帰った男だと思われるかもしれない。


 だが、それでいい。


 誰かが嫌われなければ、また誰か一人に寄せすぎる。


 それを、王都はもう繰り返してはならない。


 白い手袋では、持てない帳簿がある。


 私はそう思いながら、インクで汚れた指のまま、報告書を抱えた。

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