第34話 帳簿は写せない
王都の実務官たちは、翌朝から帳簿室へ入った。
前日に備蓄庫、薬草庫、厨房を見せたからだろう。
彼らの顔には、昨日より少しだけ緊張があった。
白い手袋は外されている。
代わりに、王都から持ってきたらしい薄い作業用手袋をつけていた。
昨日の泥が、多少は効いたのかもしれない。
帳簿室の中央には、ユリスが用意した見本が並んでいた。
灰麦粥用粉の配布台帳。
備蓄庫の棚番号表。
袋印一覧。
受取責任者表。
配布後報告の戻し先一覧。
薬草庫の禁忌札写し。
厨房用の水量札。
そして、共同備蓄返済とは別にされた、薬草買い取りと指導料の支払い帳。
うん。
並べると、改めて思う。
地味。
ものすごく地味。
でも、この地味さの中に、領地の命が詰まっている。
「本日は、王都側の標準配布台帳案を作成していただきます」
ユリスが説明した。
「こちらの様式を写すのではありません。王都の救貧院、孤児院、施療院、教会倉庫で用いることを想定し、各担当で必要項目を組み直してください」
クラウス・レーヴェン宮中男爵は、手元の資料を確認して頷いた。
「写すのではなく、組み直す」
「はい」
ユリスは淡々と続けた。
「昨日、女伯様も申された通り、帳簿は棚と手に結びついていなければ動きません。王都の棚、王都の手、王都の配布先に合わせて作る必要があります」
王都の実務官たちは、それぞれの担当ごとに分かれた。
食料担当は、灰麦粥粉の札を見ている。
会計担当は、買い取り分、寄付分、備蓄分をどう分けるかで眉を寄せている。
教会倉庫担当は、保管場所と配布責任者の欄を増やすか悩んでいる。
布類担当は、防寒布の大きさと用途を分ける欄を作っている。
薬草担当のミラは、セリアの前で禁忌欄を書いていた。
その姿勢だけで分かる。
薬草担当だけ、すでに試験を受けている空気だ。
「禁忌欄が小さいです」
セリアが言った。
早い。
開始から半刻も経っていない。
ミラはすぐに書き直した。
「この大きさではどうでしょうか」
「まだ小さいです。白百合紋より大きく」
「紋章より、ですか」
「紋章で事故は止まりません」
王都側の数名が顔を上げた。
セリアは気にしない。
「幼児、産婦、衰弱者。施療院判断。家庭配布不可。ここは、読ませるための欄です。飾りの下に置いてはいけません」
ミラは少し黙り、白百合紋を欄外へ移した。
セリアはそれを見て、ようやく頷いた。
「ましです」
褒めてはいない。
でも、セリア基準ではかなり前進だと思う。
私は部屋の端でそれを見ながら、心の中でミラを応援した。
がんばれ。
セリアの「ましです」は、たぶん王都の勲章より重い。
食料担当の若い文官は、灰麦粥粉の札に苦戦していた。
「成人用、児童用、病人用で分けるのは理解しました。ただ、救貧院には病人も子供もおります。施設単位で分けるべきか、使用者単位で分けるべきか」
ハンナが腕を組む。
「食べる人で分けてください」
「しかし、配布箱は施設ごとに届きます」
「なら、箱の中を分けてください」
「箱の中を」
「同じ箱に入れるなら、札を大きく分ける。袋の紐を変える。水量札も別にする。子供用の粉を大人用の鍋に入れたら、薄すぎます。大人用を子供用に入れたら、濃すぎます」
「……なるほど」
「なるほど、で終わらせないでください。鍋の前では、なるほどと言っている時間はありません」
ハンナも、なかなか容赦がない。
王都の文官は、慌てて水量札の絵を描き直した。
鍋。
水線。
椀の数。
塩入り、塩なし。
字は綺麗なのに、絵は下手だった。
いや、そこは仕方ない。
ユリスの最初の煙三本も、なかなかひどかった。
でも、下手でも伝わる絵はある。
美しくなくていい。
間違えなければいい。
午前の終わりには、王都側の第一案が出そろった。
クラウスが代表して、机の上にまとめる。
王都慈善配布標準台帳案。
その表題を見た瞬間、私は少しだけ嫌な予感がした。
標準。
便利な言葉だ。
そして、危ない言葉でもある。
ユリスも同じことを思ったらしい。
表題を見て、眼鏡の奥の目が細くなった。
「標準台帳、ですか」
クラウスは少し身構えた。
「王都側では、救貧院、孤児院、施療院、教会倉庫を横断して管理する必要があります。全て別様式にすると、集計が難しくなります」
「集計は楽になります」
ユリスは言った。
「現場は混ざります」
沈黙。
静かな一撃だった。
クラウスは表情を変えなかったが、食料担当の若い文官が少しだけ肩を揺らした。
ユリスは第一案をめくる。
「食料、薬草、布類、寄付品が同じ台帳に入っています」
「施設ごとの受領を一括で見るためです」
「受領は見えます。ですが、使用時の危険度が違います。薬草は食料と同じ列に置くべきではありません」
セリアが横から言った。
「薬草は別台帳です」
クラウスはそちらを見た。
「しかし、教会倉庫では同じ日に受け取ります」
「受け取る日が同じでも、扱う手が違います」
セリアは即答した。
「それを同じ列に置いた結果、王都では施療院用の薬草が一般配布棚に置かれました」
誰も反論しなかった。
できなかったのだと思う。
会計担当の文官が、苦しそうに口を開いた。
「では、集計用と現場用を分けるべきでしょうか」
ユリスの目が少しだけ和らいだ。
「はい」
たぶん、そこが正解だった。
「集計用台帳は王妃宮用。現場用台帳は施設別、品目別。両者をつなぐ番号を置く。現場の札には、集計番号より用途と禁忌を大きく」
クラウスが手帳に書き込む。
「王妃宮用、現場用、対応番号」
「さらに、改変履歴が必要です」
「改変履歴」
「王都で様式を変えるなら、誰が、いつ、どこを変えたか残してください。次の事故で、どこからずれたのか分からなくなります」
クラウスは、少しだけ顔をしかめた。
「そこまで必要ですか」
私は口を開いた。
「必要です」
部屋の視線がこちらに集まる。
「善意の配布は、悪意のある失敗より原因が消えやすいのです。誰も悪くない。急いでいた。祝賀だった。寄付品が多かった。そう言っているうちに、どこを変えたせいで混ざったのか分からなくなります」
クラウスは黙って聞いていた。
「改変履歴は、責任追及のためだけではありません。次に直す場所を残すためです」
「……承知しました」
彼は素直に頷いた。
完全に納得したかは分からない。
でも、逃げなかった。
それで十分だ。
午後は、第一案の赤入れになった。
赤入れというより、赤の海だった。
食料と薬草を分ける。
布類は大きさと用途を分ける。
祝賀品と生活必需品を分ける。
寄付受入と配布完了を分ける。
受取責任者と配布責任者を分ける。
不足と余剰を同じ欄にしない。
苦情欄を「感想」にしない。
戻し先を明記する。
白百合紋は、用途印を隠さない位置にする。
書けば書くほど、王都側の顔が険しくなった。
分かる。
私も見るだけで疲れる。
でも、ここを省くと人が消える。
ユリスが、教会倉庫担当の書記に説明していた。
「教会倉庫は、祈りの場であると同時に保管場所です。そこを混ぜないでください」
「どういう意味でしょうか」
「寄付品を受け取る時、感謝の祈りは必要でしょう。ですが、倉庫では、箱の番号、棚の位置、配布日、鍵の管理者が必要です。祈りの記録と保管の記録を同じ欄に置くと、どちらも読まれません」
教会倉庫担当の書記は、少し顔を赤くした。
怒ったのかと思ったが、違った。
恥じたのだ。
「……王都の教会倉庫では、受領時の祈祷記録が最初に来ます」
「祈祷記録を消す必要はありません」
ユリスは言った。
「ただ、棚番号より前に置かない方がいい」
その言葉は、静かだった。
だが、効いた。
教会倉庫担当は深く頷き、台帳の順番を書き直した。
夕方には、王都側の第一案は見る影もなくなっていた。
紙は赤と黒でいっぱいになり、表題も変わった。
王都慈善配布標準台帳案。
その文字には線が引かれた。
新しい表題は、まだ仮だった。
王妃宮用集計台帳。
施設別現場台帳。
品目別札一覧。
対応番号表。
改変履歴。
クラウスはそれを見て、小さく息を吐いた。
「増えましたね」
「増えました」
私は頷いた。
「王都に持ち帰れば、嫌がられます」
「でしょうね」
「書類が増えたと」
「言われるでしょうね」
「しかし、今まで少なすぎたのですね」
私はクラウスを見た。
彼は赤だらけの紙を見ていた。
「少ないから、美しく見えた。少ないから、誰の手間が消えているか分からなかった」
その言葉は、私に向けたものではなかったのかもしれない。
クラウス自身が、自分に言い聞かせているように聞こえた。
私は少しだけ頷いた。
「少ない帳簿は、楽です」
「はい」
「でも、楽な帳簿が、人を楽にするとは限りません」
クラウスは、ゆっくり顔を上げた。
「ヴァルツェンでは、いつもこのように?」
「いいえ」
私は即答した。
「いつも失敗します」
王都側の数名が、驚いた顔をした。
私は少しだけ苦笑しそうになった。
エレノア様の顔では、たぶんあまり笑えていないけれど。
「最初から正しい帳簿などありません。村で破られかけた札もあります。厨房で使えないと言われた札もあります。薬草庫で書き直された札もあります」
セリアが、静かに頷いた。
「大事なのは、失敗を戻せる形にしておくことです」
「戻せる形」
クラウスが繰り返す。
「はい。誰がどこで困ったのか。どの札が読まれなかったのか。どの棚で混ざったのか。それが分かれば直せます。分からなければ、また美しい札を作って終わりです」
室内は静かだった。
だが、朝の静けさとは違う。
疲れた静けさ。
考えている静けさ。
少なくとも、無礼を避けるために黙っているだけではない。
その日の研修は、そこで終わった。
王都側の実務官たちは、赤だらけの紙を抱えて部屋を出ていく。
白い手袋は、ほとんど使われなくなっていた。
クラウスは最後に残り、机の上の赤入れ済み台帳を見下ろした。
「女伯」
「はい」
「十日で持ち帰れるのは、失敗の見本だけかもしれません」
「それでも、何も持ち帰らないよりは良いでしょう」
「……厳しい」
「必要です」
クラウスは小さく笑った。
初めて、少しだけ表情が崩れた。
「王妃殿下に、延長を願う書状を書きます」
「ご自身で?」
「はい。私が十日と申し上げて来たのですから、私が誤りを認めるべきでしょう」
私は、その答えをかなり気に入った。
王都側の人間としては、悪くない。
「では、ユリスに書状用の紙を用意させます」
「ありがとうございます」
クラウスは礼をした。
深く、だが昨日ほど硬くはなかった。
その夜、私は私的業務記録を開いた。
王都実務官チーム、第一案作成。
標準台帳案は不適。
王妃宮用集計台帳、施設別現場台帳、品目別札一覧、対応番号表、改変履歴へ分割。
薬草は別台帳。
禁忌欄を白百合紋より大きく。
教会倉庫は祈祷記録と保管記録を分ける。
クラウス・レーヴェン、滞在延長を王妃宮へ願い出る予定。
そこまで書いて、ペンを止める。
最後に、一行だけ追記した。
写せるものは形だけであり、動かすには失敗の戻し先が要る。
書き終えた時、外は静かだった。
王都の者たちは、赤だらけの紙を前に、今ごろ頭を抱えているかもしれない。
それでいい。
頭を抱えるところから始まる実務もある。
美しい白い札ではなく。
赤を入れられた灰色の帳簿から。
王都は、ようやく写すことを諦め始めていた。




