第35話 白い手袋は泥を覚える
クラウス・レーヴェン宮中男爵が滞在延長を願い出てから、王都実務官たちの扱いは少し変わった。
客人ではなくなった。
少なくとも、城館の中では。
王妃宮から来た一団であることに変わりはない。
部屋も用意され、食事も出され、礼は尽くされている。
けれど、朝になれば備蓄庫へ行く。
昼には厨房で水量札を確認する。
午後には薬草庫でセリアに絞られる。
夕方にはユリスの前で帳簿を直す。
そういう日々が続いた。
最初の十日は、あっという間に過ぎた。
次の十日も過ぎた。
雪はさらに緩み、城館の裏庭には泥が増えた。
王都から来た者たちの白い手袋は、いつの間にか使われなくなっていた。
代わりに、備蓄庫用の厚い布手袋や、薬草庫用の袖覆いが使われるようになった。
それでも、分かったとは言えなかった。
「救貧院用の粥粉札と、孤児院用の粥粉札が混ざりました」
ユリスがそう告げたのは、研修が始まって二か月ほど経った頃だった。
私は執務机から顔を上げた。
「実配布ではありませんね」
「模擬配布です」
「なら、よかったです」
「よくはありません」
「はい」
ユリスの言う通りだった。
よくはない。
ただ、現実の子供の食事が減らなかっただけ、まだよかった。
小会議室へ行くと、王都実務官たちが模擬配布用の箱を前に沈黙していた。
箱は三つ。
第一救貧院。
西区孤児院。
第二施療院。
それぞれに、食料、布、薬草、記録札が入る予定だった。
しかし、西区孤児院の箱には、成人向けの塩入り粥粉が入っていた。
第一救貧院の箱には、孤児院向けの薄味粉が入っている。
実際の配布なら、気づけたかもしれない。
気づけなかったかもしれない。
そこが問題だった。
「理由は」
私が尋ねると、食料担当の若い文官が青い顔で答えた。
「箱の送り先を施設名で見ていました。中身の用途札を、最後に確認するつもりで」
「最後に」
「はい」
ハンナが腕を組んだ。
「最後に見た時には、鍋は火にかかっています」
若い文官は、唇を結んだ。
責められている。
そう感じているのだろう。
けれど、ハンナは責めているわけではない。
たぶん。
「箱へ入れる時に見るんです。棚から出す時に見る。鍋へ入れる時にも見る。最後だけじゃ足りません」
「三回、確認するのですか」
「三回で足りるなら楽ですね」
ハンナの言葉に、王都側が黙った。
私も少し黙った。
ハンナ、強い。
厨房の人間は、失敗すればそのまま食卓に出る。
だから、言葉が容赦ない。
食料担当の文官は、しばらく箱を見つめていた。
その目に、ようやく「書類の失敗」ではなく「食べる人の失敗」が映り始めている気がした。
「確認欄を増やします」
彼は言った。
「棚出し時、箱詰め時、調理前」
「誰が見るかも書いてください」
ハンナが言う。
「はい」
「見た、だけではなく、違った時にどこへ戻すかも」
ユリスが続けた。
「はい」
若い文官は、手帳に書き込んだ。
字は少し乱れていた。
でも、その乱れは悪くないと思った。
整った字で間違うより、乱れた字で立ち止まる方がいい。
同じ日、薬草庫でも失敗があった。
ミラではなく、教会倉庫担当の書記だった。
彼は薬草袋を、教会倉庫側の模擬棚へ置く時、札の向きを内側にしてしまった。
袋そのものは正しい棚にあった。
だが、禁忌札が見えない。
セリアは、それを見てしばらく無言だった。
無言が一番怖い。
私はそっと半歩下がった。
「なぜ、内側に」
セリアが尋ねた。
声は低い。
教会倉庫担当の書記は、硬い声で答えた。
「棚の外側に、教会側の受領札を出すためです」
「禁忌札より、受領札を見えるようにしたのですか」
「受領確認が必要でしたので」
「必要です」
セリアは頷いた。
「ですが、配る時に見る者は、受領印では止まりません」
彼は黙った。
「薬草を手に取る者は、まず何を見なければならないと思いますか」
「……使ってよい相手、です」
「はい」
セリアは薬草袋を取り上げ、札を外へ向けて置き直した。
「受領札は上に吊るす。禁忌札は袋の正面。保管棚札は棚の端。全部同じ場所に貼るから、どれかが消えます」
ミラがすぐに紙を出した。
「棚札、袋札、受領札を分けます」
「分けてください」
「王都の教会倉庫では、棚の正面に全て吊るしていました」
「だから混ざったのでしょう」
「はい」
ミラは素直に頷いた。
教会倉庫担当の書記は、悔しそうに唇を噛んだ。
でも、反論はしなかった。
その日から、王都側の模擬棚には紐が増えた。
棚札。
袋札。
受領札。
配布禁止札。
最初は紐だらけで見づらかった。
翌日、ユリスが札の位置を整理した。
その翌日、今度はミラが「薬草棚は子供の目線より高い位置に禁忌札を吊るすと、倉庫番以外が読みにくい」と指摘した。
セリアは少しだけ満足そうだった。
ほんの少しだけ。
たぶん。
研修が三か月を過ぎる頃には、王都の者たちは、失敗することに慣れ始めていた。
それは、悪い意味ではない。
失敗しても、隠さない。
言い訳をしない。
どの札で、どの棚で、誰の手が止まったのかを記録する。
それが少しずつできるようになった。
クラウスは、毎夕、赤入れされた紙を王妃宮への中間報告にまとめていた。
最初の報告書は、整っていた。
最近の報告書は、少し汚い。
矢印がある。
欄外がある。
失敗理由が書かれている。
そして、責任者名が残っている。
「王都へ送るには、少々見苦しい報告書になりました」
クラウスがそう言った時、ユリスはすぐに答えた。
「見苦しい方がよい場合もあります」
「慰めですか」
「いいえ。整いすぎた報告書は、失敗の跡が消えます」
クラウスは苦笑した。
「あなたは時々、女伯に似たことを言いますね」
ユリスは真顔で黙った。
たぶん、褒め言葉として受け取っていいのか迷っている。
私は内心で少し笑った。
王都の人間が、ユリスにそう言う日が来るとは。
いや、ユリスはもともと優秀だけど。
この人の帳簿は、もっと評価されていい。
ある午後、クラウスが私の執務室に来た。
手には、王都用の改訂案がある。
表紙には、まだ仮題が書かれていた。
王妃宮慈善配布管理案。
その下に、小さく、ヴァルツェン研修反映版。
私は表紙を見て、少しだけ首を傾げた。
「まだ、控えめですね」
「何がでしょうか」
「ヴァルツェンの名が」
クラウスは表情を変えなかった。
だが、答えるまでに少し間があった。
「王都では、反発があるでしょう」
「でしょうね」
「冷血伯の様式と呼ぶ者も出ます」
「でしょうね」
「聖女慈善基金の名を前に出した方が、寄付も協力も集まりやすい」
「でしょうね」
「ですが」
クラウスは、表紙を見下ろした。
「このままでは、どこで何を学んだのかが薄い」
私は何も言わなかった。
「こちらで学んだのは、札の形だけではありません。棚の分け方、確認の戻し先、失敗の記録、用途印の大きさ、禁忌札の位置です。それを“王妃宮慈善配布管理案”とだけ書けば、王都はまた、自分たちの制度だと思うでしょう」
クラウスは、少しだけ苦い顔をした。
「私も、そう思っていました」
「今は?」
「今は、違います」
彼は表紙の仮題に線を引いた。
「ヴァルツェン式配布管理、王都試用案」
その文字を見て、胸の奥が少しだけ動いた。
派手な名前ではない。
美しい名誉でもない。
ただの実務名。
けれど、そこには確かに、ヴァルツェンが残っている。
「その題で、王都は通りますか」
「揉めます」
「でしょうね」
「ですが、通します」
クラウスは言った。
声は硬い。
けれど、初日に玄関広間で聞いた硬さとは違った。
体面の硬さではなく、覚悟の硬さだった。
「王都へ戻れば、白百合紋を大きくせよと言われるでしょう。標準化しろとも言われます。欄を減らせとも言われます」
「はい」
「その時、私が説明します。減らせば、何が消えるのかを」
私は、少しだけ驚いた。
クラウス・レーヴェン宮中男爵。
王都から来た実務官。
最初は、辺境へ学びに来ることに戸惑っていた人。
その人が、今は王都に戻って赤入れを持ち帰ると言っている。
実務は、人を変えることがある。
派手ではない。
でも、確かに。
「レーヴェン宮中男爵」
「はい」
「その説明は、嫌われます」
「でしょうね」
「止める者は、嫌われます」
クラウスは一瞬だけ目を伏せた。
その言葉が、どこから来たものかを察したのかもしれない。
「それでも、必要なのでしょう」
「はい」
「ならば、私が嫌われます」
私は、少しだけ息を止めた。
それは、軽い言葉ではなかった。
少なくとも、私にはそう聞こえなかった。
「王都では、嫌われる役を誰かが避けた結果、女伯に寄せすぎていたのかもしれません」
クラウスは続けた。
「私は、そのことに気づくのが遅かった」
私は返事に迷った。
責めることは簡単だ。
今さら、と言うこともできる。
でも、この人は今、ここでそれを言った。
逃げずに。
「遅くても、戻し先があれば直せます」
私が言うと、クラウスは目を上げた。
「女伯のお言葉ですか」
「いいえ」
私は少しだけ考えた。
「たぶん、ヴァルツェンの帳簿の言葉です」
クラウスは、小さく頷いた。
その夜、私は精神世界の扉の前に立った。
「エレノア様」
「はい」
「クラウス殿が、王都試用案の表題を変えました」
「何に」
「ヴァルツェン式配布管理、王都試用案」
扉の向こうが、少しだけ静かになった。
「……そうですか」
「はい」
「王都では、反発があるでしょう」
「クラウス殿もそう言っていました」
「通すつもりですか」
「そのようです」
しばらく返事がなかった。
私は扉の前で待つ。
急かさない。
こういう沈黙は、たぶん必要なものだ。
「名が残るのは」
やがて、エレノア様が言った。
「不思議ですね」
「嫌ですか」
「いいえ」
声は小さかった。
「ただ、慣れません」
「薬草伯の時も、そう言ってました」
「……そうでしたね」
「慣れましょう」
「あなたは、何でも慣れさせようとしますね」
「大事なことなので」
扉の向こうで、ほんの少しだけ空気が緩む。
私は、その気配に救われる。
「エレノア様」
「はい」
「王都に戻らなくても、王都の誰かが嫌われ役を覚え始めています」
「……それは、良いことです」
「はい」
「とても、良いことです」
その声は、静かだった。
でも、少しだけ温かかった。
現実に戻り、私は私的業務記録を開いた。
王都実務官チーム研修、三か月経過。
模擬配布にて、粥粉用途違い発生。
棚出し時、箱詰め時、調理前の三段確認を追加。
薬草棚の札位置を修正。
棚札、袋札、受領札、配布禁止札を分離。
王妃宮への中間報告、失敗記録を含めて作成。
王都試用案表題、ヴァルツェン式配布管理へ変更予定。
そこまで書いて、ペンを止める。
最後に、一行だけ追記した。
白い手袋は、泥を覚えた後でなければ、帳簿を動かせない。
書いた後、少しだけ笑ってしまった。
言葉としては、あまり上品ではない。
でも、今日の記録には合っている気がした。
窓の外では、雪解けの泥が黒く光っている。
王都の者たちは、明日もその泥の上を歩く。
きっと、また間違える。
赤を入れられる。
セリアに睨まれる。
ハンナに鍋の前で叱られる。
ユリスに欄の意味を問われる。
それでいい。
その手間の中でしか、覚えられないことがある。
王都は、まだヴァルツェンを理解したわけではない。
けれど、白い手袋のままでは触れられないものがあることを、少しずつ知り始めていた。




