第33話 白い者たちが雪へ来る
王妃宮からの返書が届いたのは、半月ほど後のことだった。
その間に、ヴァルツェンの雪は少しだけ緩んだ。
屋根の端からは昼ごとに雫が落ち、城館裏の細道には、雪ではなく泥の色が混じり始めている。
薬草庫では、ラッケ村から届いた二度目の乾燥葉が保管棚に並び、セリアが「初回より安定しています」と短く評価した。
ユリスは、買い取り代金と指導料の支払い記録を別々にまとめ、採取人組から届いた確認印の写しを、また律儀に別紙へ綴じていた。
王都が返事を整えている間にも、ヴァルツェンの仕事は止まらない。
雪が緩めば、道が悪くなる。
道が悪くなれば、運ぶ順番を変えなければならない。
春が近づくことは、仕事が軽くなることではない。
むしろ、冬の間に固まっていたものが、一斉に動き出す合図だった。
そんな頃に届いた王妃宮の返書には、実務官派遣の受諾が記されていた。
代表者、クラウス・レーヴェン宮中男爵。
食料担当一名。
薬草担当一名。
布類担当一名。
会計担当一名。
教会倉庫担当一名。
計六名。
随行の書記と護衛を含めれば、もう少し増える。
王都側としては、かなり真面目な編成だと思う。
少なくとも、礼だけ整えた視察団ではない。
ただし、返書の最後にはこうあった。
まずは十日程度の滞在を予定し、必要に応じて延長を検討したい。
私はその一文を見て、そっと目を閉じた。
十日。
十日か。
うん。
王都、そういうところだぞ。
「女伯様」
ユリスが、淡々とした声で言った。
「十日では、倉庫の棚番号を覚える前に終わります」
「そうですね」
「薬草庫に至っては、セリア殿が一日目で追い返す可能性があります」
「否定できませんね」
私は返書を机に置いた。
王都側が本気であることは分かる。
でも、まだ分かっていない。
彼らはたぶん、ヴァルツェン式を“見に来る”つもりなのだ。
見て、写して、持ち帰る。
十日で。
それでは足りない。
けれど、それを最初から言葉だけで責めても仕方がない。
「まず、来てもらいましょう」
私は言った。
「十日で終わると思うなら、十日目に本人たちが分かるはずです」
「分からなかった場合は?」
「その場合は、王都の慈善は王都の理解度で回ることになります」
ユリスが少しだけ沈黙した。
「女伯様」
「はい」
「最近、言葉が厳しくなられましたね」
「えっ」
「いえ。必要な厳しさです」
そう言って、ユリスは書類をまとめた。
いや、今のは褒められたのだろうか。
たぶん違う。
でも、以前ならユリスもそんなことを言わなかった気がする。
城館の中も、少しずつ変わっている。
私だけではなく。
王都からの一団は、返書からさらに数日を置いて、雪の残る街道を通り、ヴァルツェン城館へ到着した。
王都の者たちは、一目でそれと分かった。
外套は上質で、手袋は白い。
荷箱には王妃宮の印。
書類箱は磨かれた革で、封紐まで整っている。
馬車の車輪には泥除けがついていたが、ヴァルツェンの雪解け道にはあまり役に立っていなかった。
白い手袋の端に、泥が跳ねている。
それを見た瞬間、私は少しだけ悪いことを考えた。
もっと汚れますよ。
いや、言わない。
言わないけれど。
玄関広間で、一団の代表が進み出た。
三十代前半くらいの、痩せた男だった。
背筋は伸びている。
礼も正しい。
目元には疲れがあるが、視線は逃げない。
「王妃宮実務官、クラウス・レーヴェン宮中男爵にございます。このたびは、聖女慈善基金配布管理に関する研修受け入れ、深く感謝申し上げます」
声は堅い。
礼は深い。
ただ、その奥にある緊張も分かる。
辺境の女伯。
冷血伯。
薬草伯。
彼の中で、どの名前が一番強いのかは分からない。
私はエレノア様の身体に残る礼法に従って、静かに頷いた。
「ヴァルツェンへようこそ、レーヴェン宮中男爵」
歓迎の言葉は、それだけにした。
長い挨拶は不要だ。
雪道で疲れているだろうし、こちらも見せるものが多い。
クラウスの後ろには、担当者たちが並んでいた。
食料担当の若い文官。
会計担当の中年文官。
教会倉庫担当の書記。
布類担当の女性官吏。
そして薬草担当と思われる女書記。
彼女だけは、王都の者にしては服装が実用的だった。
袖口が絞られ、爪も短い。
セリアが横目で見ている。
査定が始まっている。
がんばってください、薬草担当さん。
「お疲れでしょう。まずは荷を解いていただきます」
オルドが穏やかに言った。
クラウスは礼を返す。
「お気遣い痛み入ります。王妃殿下より、まず倉庫を見るようにと申し付けられております」
その言葉に、私は少しだけ目を瞬かせた。
リリアナ妃殿下が、そう伝えていたのか。
王都の白い手紙の奥に、以前より少しだけ実務の線が見える気がした。
「では、その通りに」
私は頷いた。
「まず、倉庫を見ていただきます」
クラウスの後ろで、王都側の数名がわずかに顔を見合わせた。
代表者は聞いていたのだろう。
けれど、他の者たちにとっては、到着初日に帳簿室ではなく倉庫へ向かうことが意外だったらしい。
そうだろう。
王都の感覚では、少し乱暴かもしれない。
でも、ここではそこから始める。
「帳簿は、棚に結びついています」
私は言った。
「棚を見ずに帳簿を写しても、王都では動きません」
クラウスは一瞬だけ沈黙した。
それから、正しく頭を下げた。
「承知しました」
不満は飲み込んだらしい。
えらい。
いや、偉そうに言える立場ではないけれど。
そのまま、一団を備蓄庫へ案内した。
王都の者たちは、城館の廊下を歩きながら、あまり周囲を見ないようにしている。
たぶん、無礼にならないよう気をつけているのだろう。
でも、見るべきなのは壁の古さではない。
床に残った泥の拭き方。
扉の横に吊るされた鍵札。
運搬用の橇の置き場所。
廊下の端に積まれた空袋。
そういうものだ。
備蓄庫の扉を開けると、冷たい空気が流れ出した。
灰麦の匂い。
乾燥豆の匂い。
木箱と麻袋と、わずかな土の匂い。
王都の白い手袋が、そこで少しだけ止まった。
「こちらが第一備蓄庫です」
ユリスが説明を引き継いだ。
「食料配布用、冬季緊急用、返済受入用で棚を分けています。袋の印は、品目ではなく用途を優先しています」
食料担当の文官が、すぐに手帳を開いた。
「品目ではなく、用途を」
「はい。灰麦でも、粥用、粉菓子用、病人用、返済受入分では扱いが違います。同じ棚に置くと、帳簿上は合っていても現場で混ざります」
ユリスは棚を指した。
「この棚の丸印二つは、成人向け粥粉。こちらの丸一つは、孤児院向け薄味。こちらは塩入り。こちらは塩なし。袋の角の切り方も違います」
「袋の角、ですか」
「暗い倉庫で、印が見えにくい時に触って分かるようにしています」
食料担当の文官が、驚いた顔で袋の角を見た。
クラウスも近づく。
「触って判別するのですか」
「はい」
ユリスは淡々と答える。
「王都からの報告では、祝賀札が元の用途印を隠していました。紙札は上から貼れば隠れます。袋の角は、隠れにくい」
クラウスの顔がわずかに変わった。
自分たちの失敗を、そのまま棚で見せられた形だ。
責めてはいない。
ただ、逃げ場はない。
私は何も言わずに見ていた。
ここで私が説明しすぎる必要はない。
ユリスの方が、ずっと良い。
会計担当の文官が、別の棚を見て眉を寄せた。
「こちらの棚は、同じ灰麦袋でも帳簿色が違うのですね」
「購入分、物納分、寄付受入分で分けています」
「同じ品なら、合算してもよいのでは」
「会計上だけなら可能です」
ユリスは、そこで一拍置いた。
「ですが、次回配布の見積もりが狂います。購入分は同じ品質で再調達しやすい。物納分は村ごとに乾燥率が違う。寄付分は量も品質も次回保証されない。合算すると、足りない理由が消えます」
会計担当の文官は、すぐに返せなかった。
その沈黙は悪くない。
今、彼は考えている。
写すためではなく、理解するために。
備蓄庫を出る頃には、王都側の手帳には文字が増えていた。
だが、私は分かっている。
まだ入口だ。
袋の角を見ただけ。
棚の違いを聞いただけ。
ここから、配布先、受取責任者、返済、再調達、苦情の戻し先がつながっていく。
十日で終わるわけがない。
次に向かったのは、薬草庫だった。
セリアが待っていた。
ものすごく待っていた。
正確には、待ち構えていた。
薬草担当の女書記が、一歩前に出て礼をした。
「王都第二施療院薬務記録係、ミラ・トレイスと申します」
セリアの目が、わずかに動いた。
「施療院の記録係ですか」
「はい。薬草の調合は薬師が行いますが、私は入庫、使用記録、禁忌札の管理を担当しております」
「実物は扱いますか」
「薬師の指示下であれば」
「ならば、入って構いません」
合格したらしい。
よかった。
いや、本当によかった。
薬草庫に入るなり、セリアは一つの袋を机に置いた。
王都から送られた報告書にもあった、施療院管理用の薬草袋と同じ形式のものだ。
「この札を見てください」
ミラがすぐに覗き込む。
「家庭配布不可。施療院管理。使用判断者確認。幼児、産婦、衰弱者には使用前確認」
「王都では、この札が半分隠れていました」
「……報告で読みました」
「半分隠れれば、半分伝わりません」
セリアの声は冷たい。
「薬草では、その半分で人が死ぬことがあります」
室内が静まった。
王都の者たちが、息を詰める。
セリアは遠慮しない。
たぶん、遠慮する気が最初からない。
「白百合紋を貼るなら、貼る場所を決めてください。禁忌札の上に貼るなら、祝福ではなく危険です」
クラウスが、ゆっくり頷いた。
「記録します」
「記録だけでは足りません。王都へ戻った時、誰が貼る場所を決めるのか。その者の名も必要です」
ミラがすぐに手帳へ書いた。
その速さを見て、セリアの目が少しだけ和らいだ気がした。
ほんの少しだけ。
たぶん。
薬草庫の後は、厨房だった。
ハンナが待っていた。
こちらも、かなり待ち構えていた。
「灰麦粥用粉は、札だけ見ても駄目ですよ」
開口一番、それだった。
王都側の食料担当が目を瞬かせる。
「水の量を間違えたら、同じ粉でも別物です。子供用は薄め。病み上がりにはもっと柔らかく。大人の労働者に出すなら塩気がないと持ちません。でも塩入りを幼児に回したら駄目。札はそのためにあるんです」
ハンナは鍋を指した。
「文字を読んでいる暇がない時もあります。だから、鍋の絵と水線を見ます。忙しい厨房では、綺麗な説明文より、間違えない線の方が役に立ちます」
王都側の文官は、真剣に手帳を取っていた。
白い手袋は、もう少し灰色になっている。
よし。
いい傾向だ。
夕方には、王都側の一団は明らかに疲れていた。
移動の疲れだけではない。
備蓄庫、薬草庫、厨房。
三か所を見ただけで、彼らの持ってきた「十日で概要を把握する」という予定は、かなり怪しくなっているはずだ。
最後に、私は小会議室で彼らと向かい合った。
机の上には、今日見せた札の写しが並んでいる。
袋印。
角切り。
禁忌札。
鍋の水線。
受取責任者欄。
配布後報告欄。
どれも地味だ。
でも、どれも必要だ。
「本日は、帳簿そのものにはほとんど触れていません」
私が言うと、クラウスは苦い顔をした。
「はい。正直に申し上げれば、想定よりも前段が多いと感じております」
「帳簿の前に、物があります」
「……そのようです」
「物の前に、人がいます。誰が持つのか。誰が読むのか。誰が間違えるのか。誰が戻すのか。それを見ずに帳簿だけを写しても、王都では動きません」
クラウスは黙って聞いていた。
反発はあるだろう。
だが、聞いている。
「十日で終えるつもりなら、様式だけ持ち帰ることになります」
私は言った。
「それでは、王都の混乱は形を変えて残るでしょう」
室内が静かになる。
クラウスは、しばらく手元の札を見ていた。
白い手袋の指が、袋の角切りの見本に触れる。
「女伯」
「はい」
「十日では足りない、という意味が少し分かりました」
「少し、ですか」
「はい」
クラウスは顔を上げた。
「まだ、少しです。今日見たものを、どう王都へ持ち帰るべきか、私にはまだ分かりません」
正直だ。
私は、その答えを少し気に入った。
「では、分かるまで見てください」
「……厳しいお言葉です」
「必要な言葉です」
クラウスは一瞬だけ目を伏せ、それから深く頭を下げた。
「承知しました」
その夜、私は私的業務記録を開いた。
王都実務官チーム到着。
代表、クラウス・レーヴェン宮中男爵。
備蓄庫、薬草庫、厨房を初日確認。
袋印、角切り、禁忌札、水線、責任者欄を説明。
十日予定は不足の見込み。
そこまで書いて、ペンを止める。
最後に、一行だけ追記した。
帳簿は、棚と手に結びついていなければ動かない。
書き終えて、窓の外を見た。
王都の者たちは、今夜この城館で眠る。
白い手袋を汚し、雪解けの泥を踏み、灰麦の袋と薬草の札を見た。
まだ何も分かっていない。
でも、何も見ていないわけではない。
それでいい。
始まりは、たぶんそのくらいでいい。
王都は、ようやくヴァルツェンの倉庫に立ったのだから。




