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断罪後の悪役令嬢も、私は推している  作者: Manabit
第五章 白い手紙と灰色の帳簿

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第32話 王都の戸惑い

 ヴァルツェンからの返書が王妃宮に届いたのは、婚礼の祝賀布がまだ王都の大通りに残っている頃だった。


 白百合の花は、すでに一部が萎れ始めている。


 だが、祝賀の熱はまだ冷めていなかった。


 聖女リリアナ妃殿下の慈愛。


 新王アルベルト陛下の春。


 王都報は、そうした言葉を繰り返し、広場ではまだ婚礼記念の配布を讃える声が聞こえていた。


 その一方で、王妃宮の奥にある小会議室には、静かな緊張が落ちていた。


 机の上に置かれているのは、ヴァルツェン女伯からの返書。


 封蝋は、北方の女伯のもの。


 華やかさはない。


 ただ、線の細い文字で、必要なことだけが書かれている。


 リリアナは、その一文をもう一度読んだ。


 王都への参上はいたしません。


 柔らかな礼文の中に、その言葉だけが刃のように残っていた。


 責められているわけではない。


 非礼でもない。


 むしろ、返書は丁寧だった。


 婚礼への祝意も、王妃宮への敬意も、慈善基金の混乱を案じる言葉も、過不足なく整えられている。


 けれど、線は引かれていた。


 王都へは戻らない。


 そういう返書だった。


「……ヴァルツェン女伯は、王都へ来られぬと」


 王妃宮の筆頭書記官が、低く言った。


 その声音には、失望よりも困惑があった。


「来られぬ、ではありません」


 リリアナは、返書から目を上げた。


「来ない、とお書きです」


 室内が、わずかに静まった。


 数人の文官が視線を交わす。


 言葉の違いは小さい。


 けれど、その意味は大きかった。


 来られないのではない。


 来ない。


 それは事情の説明ではなく、意思の表明だった。


「ですが、妃殿下」


 式典局から出向している官吏が、慎重に口を開いた。


「聖女慈善基金の配布管理は、すでに王妃宮だけの問題ではございません。救貧院、孤児院、施療院、教会倉庫、寄付商会……関係先が増えすぎております。女伯が直接王都で確認くだされば、整理は早いかと」


 早い。


 リリアナは、その言葉に目を伏せた。


 早い。


 確かに、そうなのだろう。


 エレノアが来れば、早い。


 かつて王太子殿下の隣で、誰もが言いにくいことを言い、誰も見ていない表を整え、誰かに嫌われる役を引き受けていた人。


 その人が来れば、王都の混乱はきっと早く整う。


 だが、それはまた、彼女を同じ席へ座らせることではないのか。


 リリアナは、返書の別紙に目を移した。


 そこには、実務官派遣の条件が並んでいた。


 代表者一名。


 食料担当。


 薬草担当。


 布類担当。


 会計担当。


 教会倉庫担当。


 短期視察ではなく、最低一季の実務研修。


 薬草担当者は、施療院または薬務管理における実務経験を有する者に限る。


 儀礼担当者のみの派遣は不可。


 帰還後、三度の報告書往復を必須とする。


 王都で用いる慈善制度は、王都の責任において運用されるべきものと存じます。


 リリアナは、その最後の一文を指でなぞった。


 王都の責任。


 その通りだった。


 けれど、その当たり前のことを、自分たちはどこかで見失っていたのかもしれない。


「つまり」


 別の文官が、困ったように言った。


「女伯をお呼びするのではなく、こちらからヴァルツェンへ出向け、ということですか」


「そのように書かれています」


「辺境へ、でございますか」


 誰かが小さく息を漏らした。


 それは、あからさまな侮りではなかった。


 だが、戸惑いの奥に、王都の者らしい感覚があった。


 王都から呼ぶ。


 地方が応じる。


 それが当然だと思っている感覚。


 リリアナは、それを責められなかった。


 自分も、返書を読むまでは、どこかでそう思っていたのだ。


 エレノアに王都へ来てもらう。


 それが最も早く、最も現実的な方法だと。


 だが、エレノアはそうはしなかった。


 来ない。


 ただし、学ぶ者は拒まない。


 それは拒絶ではない。


 けれど、許しでもない。


 王都に、自分たちの足でヴァルツェンまで来るよう求める返書だった。


「妃殿下」


 筆頭書記官が、別紙をめくりながら言った。


「この条件では、人選が難しゅうございます。代表者には、それなりの身分と権限が必要です。しかし高位の方では、実務研修という名目を嫌がるでしょう」


「現場を見られる者を選んでください」


 リリアナは答えた。


「見学ではありません。女伯は、研修と書いています」


「はい。ただ……薬草、食料、会計、教会倉庫をそれぞれ分けるとなると、少人数では足りません」


「ならば、チームにしましょう」


 自分で言って、リリアナは少し息を吸った。


 チーム。


 王妃宮が、ヴァルツェンへ人を送る。


 しかも、教えを受けるために。


 室内の空気が、またわずかに揺れた。


 だが、リリアナは取り消さなかった。


「聖女慈善基金は、私の名で広がりました。ならば、混乱も私の名で見なければなりません」


「妃殿下」


「白百合の名で配ったものが、現場で混ざっているのです。ならば、白百合の名だけでは足りなかったのでしょう」


 その言葉を口にするのは、少し痛かった。


 自分の善意が足りなかったのではない。


 そう言い聞かせたかった。


 けれど、善意だけでは足りなかった。


 それは、認めなければならなかった。


「代表者の候補が一人おります」


 筆頭書記官が、慎重に言った。


「クラウス・レーヴェン宮中男爵。王妃宮付きの実務官です。家格は高くありませんが、宮中の物資配分と会計整理に通じています。教会側との折衝経験もございます」


「現場を嫌がる方ですか」


「……嫌がらない、とは申し上げられません」


 リリアナは、少しだけ目を細めた。


「正直ですね」


「ただし、逃げる方ではありません。面倒な表を面倒なまま扱える者です」


 その言い方に、リリアナは返書の一部を思い出した。


 短期視察ではなく、実務研修。


 女伯の字は、静かだった。


 だが、その静けさの中に、妥協しない意思があった。


「その方を呼んでください」


「かしこまりました」


「それから、薬草担当は必ず実務経験者を。条件書に明記されています。儀礼担当者だけを送って、ヴァルツェンの薬草庫で追い返されるようなことは避けたいです」


 筆頭書記官は一瞬黙った。


「……追い返される可能性が?」


「あります」


 リリアナは、静かに言った。


「女伯は、そういう方です」


 その言葉に、昔の記憶が重なった。


 王太子殿下の隣で、エレノアが書類を閉じる姿。


 柔らかな願いに、必要数を問う声。


 祈りに、運搬経路を添える手。


 あの頃のリリアナには、それが冷たく見えた。


 今は、その冷たさが何を守っていたのかを、少しだけ知っている。


 会議はその後も続いた。


 食料担当には、救貧院配布記録を扱ったことのある下級文官。


 布類担当には、式典局ではなく、倉庫管理の経験がある者。


 会計担当には、寄付金と物資を別表で扱える者。


 教会倉庫担当には、教会側と王妃宮側の双方に顔が利く書記。


 そして薬草担当には、施療院の薬務記録に携わった女書記を候補とする。


 全員が決まったわけではない。


 だが、形は見え始めていた。


 王都から、ヴァルツェンへ。


 教えを受けるための一団。


 それは、王都の者たちにとって愉快な話ではないだろう。


 だが、リリアナは思った。


 愉快でないからこそ、行く必要があるのかもしれない。


 会議の終わりに、クラウス・レーヴェン宮中男爵が呼ばれた。


 三十を少し越えた、痩せた男だった。


 礼は正しい。


 身なりも整っている。


 だが、目元には疲れがあった。


 婚礼記念配布の混乱で、すでに何日もまともに眠っていないのだろう。


「クラウス・レーヴェン」


 リリアナは、返書の別紙を彼に渡した。


「あなたを、ヴァルツェン派遣実務官チームの代表候補とします」


 クラウスは一瞬、紙を受け取る手を止めた。


「ヴァルツェン、でございますか」


「はい」


「女伯を王都へお招きする件ではなく?」


「女伯は、王都へは参りません」


 クラウスの表情は大きく変わらなかった。


 だが、眉の端が少しだけ動いた。


 不満。


 困惑。


 そして、ほんのわずかな警戒。


 冷血伯。


 彼の中にも、その名はあるのだろう。


「こちらが、ヴァルツェンへ学びに行くのですね」


「そうです」


「……承知しました」


 返事は早かった。


 不満を飲み込むのも早かった。


 それだけで、リリアナは彼がただの体面だけの官吏ではないことを知った。


「期間は最低一季。短期視察ではありません」


「実務研修、とありますね」


「ええ」


「厳しい条件です」


「必要な条件なのでしょう」


 クラウスは別紙を読み進め、薬草担当の項目でわずかに目を止めた。


「儀礼担当者のみの派遣は不可」


「薬草は、飾りではありませんから」


「ヴァルツェン女伯の文面ですか」


「ええ」


「……なるほど」


 その「なるほど」に、少しだけ棘があった。


 リリアナは聞き流さなかった。


「不満ですか」


「いいえ」


「本当に?」


 クラウスは沈黙した。


 そして、少しだけ頭を下げた。


「正直に申し上げれば、王都から呼ぶはずが、こちらが辺境へ赴くことには戸惑いがございます」


「そうでしょうね」


「ですが、現場は混乱しております。祝賀品の受領は増えましたが、配布後の確認が追いついておりません。今のままでは、次の大きな配布で事故が起きます」


 クラウスは顔を上げた。


「ならば、行くべきなのでしょう」


 その言葉に、リリアナは小さく頷いた。


「女伯は、手順だけを写しても動かないと考えておられます」


「おそらく、その通りです」


 クラウスは、意外にもすぐ認めた。


「王都ではすでに、ヴァルツェンから届いた袋印を参考にした札を作ろうとしました。ですが、現場からは、どれを大きく書くべきか分からないという声が上がっています。白百合紋を上に置くべきか、用途印を上に置くべきかで揉めました」


「それで?」


「式典局は白百合紋を推しました」


「あなたは?」


「用途印です」


 リリアナは、少しだけ息を吐いた。


 よかった。


 少なくとも、この男は完全には白い紙面の側だけにいるわけではない。


「では、ヴァルツェンでそれを学んでください」


「はい」


「ただし」


 リリアナは、そこで言葉を切った。


「女伯を、王都の代わりに働かせるためではありません」


 クラウスは目を伏せた。


「……承知しております」


「いいえ。私自身にも言っているのです」


 リリアナは、返書を見つめた。


 王都への参上はいたしません。


 その一文が、胸に残っている。


 痛い。


 けれど、必要な痛みだ。


「王都の慈善は、王都が責任を持って回さなければなりません。女伯にまた背負わせるための派遣ではありません」


「肝に銘じます」


 クラウスは深く礼をした。


 その背は硬い。


 まだ納得しきっているわけではないだろう。


 だが、それでよいのかもしれない。


 納得できないまま、学ぶこともある。


 リリアナは、窓の外を見た。


 王都の空は晴れている。


 祝賀布が風に揺れている。


 白百合の飾りが、広場でまだ光っている。


 その白さの下で、配布表の空欄が増えている。


 自分は、それを見なければならない。


「クラウス」


「はい」


「ヴァルツェンへ行ったら、まず帳簿を見るのではなく、倉庫を見てください」


 クラウスは少し驚いたように顔を上げた。


「倉庫、でございますか」


「女伯なら、そう言う気がします」


 確信はない。


 けれど、そう思った。


 エレノアなら、紙だけを見せない。


 棚を見せる。


 袋を見せる。


 札を見せる。


 誰が持ち、誰が戻すのかを見せる。


 それが、あの人の実務なのだろうから。


 クラウスは、少しだけ考えた後、頷いた。


「承知しました。倉庫から見ます」


 その日の夜、リリアナは一人で返書を読み直した。


 礼は尽くされている。


 だが、そこには距離があった。


 当然だ。


 その距離を作ったのは、自分たちなのだから。


 リリアナは、白百合の封蝋に指を置いた。


 この印は、人を助けるためにあるのだと思っていた。


 今も、そう思いたい。


 けれど、この印だけでは足りない。


 白百合の名で集めたものを、誰かの手に正しく届けるには、灰色の帳簿が必要なのだ。


 その帳簿を、かつて誰が支えていたのか。


 今さら知るには、遅いのかもしれない。


 それでも、知らないままではいられなかった。


 リリアナは、新しい紙を出した。


 ヴァルツェン女伯への返書。


 そこに、短く書く。


 王妃宮は、貴領への実務官派遣を受け入れます。


 王都の慈善を、王都の責任において運用するために。


 筆先が、少し震えた。


 それでも、書き直さなかった。


 白百合は、灰色の帳簿を学ばなければならない。


 リリアナは、そう思った。


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