第31話 戻らない返書
王妃宮への返書は、翌日の午前から整えることになった。
執務机の上には、三種類の紙が置かれている。
王妃リリアナ妃殿下へ宛てる正式な返書。
王妃宮の実務官へ渡す条件書。
そして、王都側から派遣される者に提出させる事前報告の雛形。
白い手紙への返事なのに、机の上はすでに灰色だった。
飾り罫も、祝福文もない。
あるのは、配布先、品目、責任者、保管場所、確認者、事故時の戻し先。
うん。
見慣れた景色になってきた。
「王妃殿下への返書は、こちらです」
ユリスが草案を差し出した。
文面は丁寧だった。
丁寧すぎるくらいに。
婚礼への祝意。
王妃となったリリアナ妃殿下への敬意。
灰麦粥用粉と使用札に目を留めていただいたことへの礼。
慈善基金の混乱を憂慮する言葉。
そして、王都短期滞在の辞退。
私はその一文で、目を止めた。
『女伯エレノア・フォン・ヴァルツェンは、領内冬季管理および春前備蓄調整のため、王都への短期滞在は叶いません』
正しい。
嘘ではない。
ヴァルツェンには、まだ冬の仕事が残っている。
ラッケ草の備蓄も、春の返済案も、倉庫の調整もある。
でも、この文面だけだと、少し違う。
私はペンを取った。
「ユリス」
「はい」
「ここは、もう少しはっきり書きます」
「はっきり、でございますか」
「はい」
私は該当箇所に線を引いた。
そして、その下に書く。
『王都への参上はいたしません』
ユリスが、わずかに息を止めた。
オルドも、静かに視線を上げる。
分かる。
王妃宮への返書としては、かなり強い。
けれど、ここはぼかしてはいけないと思った。
領内管理のため行けません。
冬季業務のため難しいです。
それは、理由になる。
けれど、線にはならない。
理由がなくなれば、また呼ばれる。
春になったら。
備蓄が落ち着いたら。
次の慈善配布の前に。
そのたびに、エレノア様が揺れる。
だから、今回は線を引く。
「王妃殿下への礼は崩しません。困っている現場も軽んじません。でも、戻らないことは曖昧にしません」
ユリスは少し考えてから、頷いた。
「では、その後に支援方法を続けましょう」
「お願いします」
ユリスは別の紙を引き寄せた。
その動きが早い。
この人、本当に頼りになる。
「王都への参上はいたしません。ただし、聖女慈善基金における配布管理の混乱については、看過すべきものではないと判断いたします」
「いいですね」
「続けて、王都側実務官の派遣を求める形で」
「はい」
私たちは文面を整えていった。
王都へは行かない。
ただし、学ぶ者を拒みはしない。
必要であれば、王妃宮より実務官をヴァルツェンへ派遣すること。
代表者を一名置くこと。
食料、薬草、布類、会計、教会倉庫、それぞれの担当者を分けること。
短期視察ではなく、実務研修として扱うこと。
到着前に、現在の配布先、品目、責任者、保管場所、事故または混乱の記録を提出すること。
ユリスは書きながら、少しだけ眉を寄せた。
「かなり厳しい条件になります」
「厳しいですか」
「王都側から見れば」
「現場から見れば?」
「必要です」
「では、必要な厳しさです」
ユリスは小さく頷いた。
その表情に、少しだけ笑いそうになる。
以前より、この人は私の返し方に慣れてきた気がする。
いいことなのか悪いことなのかは、少し分からない。
次に、条件書へ移った。
これは王妃殿下への手紙とは違う。
美しくなくていい。
誤解なく、運用できることが大事だ。
セリアは、薬草の項目に容赦なく赤を入れた。
「薬草担当者は、必ず施療院または薬務管理の実務経験者。王妃宮の侍従や儀礼官では不可」
「不可、と書きますか」
「書いてください」
「かなり強いですね」
「薬草は強い言葉で止めなければ事故になります」
そう言われると、反論できない。
私は素直に書き直した。
薬草担当者は、施療院または薬務管理における実務経験を有する者に限る。
儀礼担当者のみの派遣は不可。
うん。
怖い。
でも必要。
オルドは、滞在期間の欄を見ていた。
「最低一季、とございますが」
「短いですか」
「短いというより、王都側が理解しない可能性がございます」
「一季って、季節一つ分ですよね」
「はい。ですが、王都の者は十日も滞在すれば十分と考えるかもしれません」
あり得る。
とてもあり得る。
私は条件書に追記した。
見学のみを目的とする短期滞在は受け入れない。
研修期間は最低一季。
やむを得ず短縮する場合も、帰還後三度の報告書往復を必須とする。
書いてから、私は少し遠い目をした。
地味。
ものすごく地味。
でも、こういう地味な文言が、たぶん人を守る。
「王都側は、嫌がりますね」
私が言うと、オルドが静かに答えた。
「それでも来るなら、本気ということでございましょう」
「来なければ?」
「王都の慈善は、王都が回すべきものです」
その言葉に、私はペンを止めた。
王都の慈善は、王都が回すべきもの。
その通りだ。
当たり前のことなのに、胸に落ちるまで時間がかかった。
エレノア様は、王都の実務をよく知っている。
だからこそ、必要とされれば行けてしまう。
戻れてしまう。
そして、また背負えてしまう。
でも、それは正しさではない。
便利さだ。
王都にとっての。
私は条件書の最後に、一文を加えた。
派遣者は、王都帰還後、各施設における運用責任者として報告および改善に関与すること。
ユリスがそれを読んで、頷いた。
「学んで終わりにしない、ということですね」
「はい。見て、感心して、帰って終わりでは困ります」
「では、代表者の責任も明記しましょう」
「お願いします」
代表者。
王都側は、おそらくそれなりの身分を持つ者を置くだろう。
ただの下級文官では、王妃宮と教会と施療院を動かせない。
かといって、高位貴族では実務を嫌がるかもしれない。
中途半端に偉くて、十分に実務を知っていて、王都で報告を通せる者。
そういう人物が来る必要がある。
面倒だ。
でも、面倒でなければ意味がない。
昼を過ぎる頃には、返書草案と条件書はほぼ形になっていた。
あとは、清書と封蝋。
王妃宮宛ての正式な文面は、礼を尽くす。
だが、別紙の条件書は逃がさない。
白い手紙に、灰色の条件を添える。
我ながら、実にこの章らしい。
……章?
いや、何でもない。
今のはたぶん玲奈の中の何かが変な言い方をした。
忘れよう。
夕方、私は一人で精神世界の扉の前に立った。
扉の向こうに、エレノア様の気配がある。
「返書、形になりました」
「……はい」
「王妃殿下への礼は崩していません。でも、王都へは参上しないと書きました」
少しだけ間があった。
「強い文面ですね」
「はい」
「リリアナ様を責める形には、していませんか」
「していません。王妃殿下の善意も、王都の混乱も、ちゃんと別に扱っています」
「そうですか」
エレノア様の声が、少しだけ安堵したように聞こえた。
やっぱり、気にしている。
リリアナ妃殿下を悪者にしたいわけではない。
でも、自分が戻るわけにもいかない。
その間で、エレノア様はまだ揺れている。
「実務官を派遣するなら、最低一季。担当を分ける。薬草担当は実務経験者。見学ではなく研修。帰還後の報告も必須」
「かなり、面倒な条件です」
「はい」
「王都側は、嫌がるでしょう」
「嫌がるでしょうね」
「来ないかもしれません」
「それなら、それが王都の答えです」
自分で言って、少し冷たいと思った。
でも、撤回はしない。
「こちらは拒んでいません。学ぶ場は用意します。でも、王都が自分で覚えるつもりがないなら、エレノア様が代わりに背負う必要はありません」
扉の向こうは静かだった。
長い沈黙ではない。
けれど、その短い間に、エレノア様が何かを飲み込んでいる気がした。
「私は」
やがて、エレノア様が言った。
「呼ばれれば、行くものだと思っていました」
胸の奥が痛んだ。
「必要とされるなら、断る理由はないと」
「……そうですね」
「特に、事故が起きると分かっているなら」
「はい」
「だから、これは不思議です」
「不思議?」
「行かないと決めたのに、見捨ててはいない」
私は扉を見つめた。
「はい」
「そういう形が、あるのですね」
その声は、とても静かだった。
私はすぐには返せなかった。
エレノア様にとって、必要とされることは、背負うこととほとんど同じだったのかもしれない。
求められたら行く。
困っているなら整える。
嫌われても止める。
感謝されなくても回す。
それができるから、やってしまう。
それができてしまうから、誰も止めなかった。
「あります」
私は、ようやく答えた。
「助けることと、背負い直すことは違います」
「……はい」
「エレノア様は、王都を助けてもいい。でも、王都に戻らなくていい」
扉の向こうで、小さく息を吐く音がした。
「まだ、慣れません」
「慣れましょう」
「簡単に言いますね」
「私は言う係なので」
「では、私は慣れる係ですか」
「はい。あと、時々休む係もお願いします」
「それは難しいです」
「知っています」
私がそう言うと、扉の向こうの気配が少しだけ柔らかくなった。
よかった。
少しだけでも、笑ってくれたならいい。
現実に戻ると、机の上には清書を待つ返書があった。
白い紙。
黒い文字。
王妃宮への礼文。
その下に添えられる、灰色の条件書。
私は最後に、王妃への返書をもう一度読み直した。
柔らかすぎない。
冷たすぎない。
礼を尽くし、線を引く。
王都へは参上いたしません。
必要であれば、実務官をヴァルツェンへお寄越しください。
帳簿、倉庫、薬草庫、配布札、各運用を確認いただきます。
王都で用いる慈善制度は、王都の責任において運用されるべきものと存じます。
私はそこで目を止めた。
王都の責任。
エレノア様の責任ではない。
少なくとも、全部ではない。
そのことを、王都にも、エレノア様にも、きちんと知らせなければならない。
私は私的業務記録を開いた。
王妃宮への返書草案作成。
王都短期滞在は辞退。
実務官派遣を求める。
最低一季。
担当分離。
薬草担当は実務経験者。
帰還後報告必須。
そこまで書いて、ペンを止めた。
最後に、一行だけ追記する。
必要とされることと、戻ることは同じではない。
書き終えると、指先の震えはなかった。
その代わり、胸の奥に小さな重さが残った。
これは、たぶん正しい重さだ。
誰かを拒むための重さではない。
誰かを背負い直さないための重さ。
王都は、白い手紙を送ってきた。
こちらは、返書を送る。
白さを拒むためではなく。
その下にある灰色の実務を、王都自身に見せるために。
封蝋を押す時、私は小さく息を吸った。
ヴァルツェン女伯の印が、白い紙に沈む。
戻らないための返書が、ここに形になった。




