第29話 白い手紙
ラッケ草の備蓄は、少しずつ形になっていた。
最初に届いた乾燥葉は薬草庫で保管され、二度目からは村で乾かしたものと、城館で乾かしたものを並べて、セリアが状態を比べた。
煙三本。
根を残すこと。
昼に指一本分だけ沈む雪。
そんな、王都の帳簿にはまず出てこない言葉が、今では薬草庫の札に残っている。
メルカ殿からは、相変わらず短い伝言が届いた。
山を買ったと思うな。
ユリスはそれを、支払い帳の欄外に残していた。
「……これは、正式な記録ですか」
私が尋ねると、ユリスは一瞬だけ視線を迷わせた。
「正式な記録ではありません。ですが、消すべきではない言葉だと判断しました」
「なるほど」
私は支払い帳の余白を見つめた。
山を買ったと思うな。
うん。
確かに、消すべきではない。
薬草庫の奥には、ラッケ草の袋が三つ並んでいる。どの袋にも、採取日、乾燥場所、確認者の名が記されていた。
王都の美しい贈答品に比べれば、何とも地味だ。
灰色の袋。
黒い文字。
不揃いな確認印。
けれど、その不揃いさが、少しだけ嬉しかった。
メルカ殿の印。
若い採取人たちの印。
セリアの確認印。
ユリスの記録。
そこには、誰かの手が残っている。
「十分とは言えません」
セリアは、いつも通り厳しかった。
乾燥葉の一束を指先でほぐし、葉の裏の白い毛を確かめながら言う。
「冬の巡回兵全員に回すには足りません。木こり、猟師、子供のひび割れまで考えるなら、優先順位を決める必要があります」
「分かりました。まずは巡回兵と、凍傷の危険が高い仕事の者ですね」
「はい。それと、子供用には薄く調整します。強いものをそのまま塗らせないでください」
「札を分けますか」
「分けます」
即答だった。
セリアが即答する時は、だいたい議論の余地がない。
私は素直に頷いた。
「では、子供用の油練り札を別に作りましょう。メルカ殿にも確認を」
「必要です。城館だけで整えると、また山の言葉が消えます」
セリアの声には、少しだけ変化があった。
以前なら、薬草庫の外の知識に対して、もっと慎重で、もっと硬かった気がする。
今も慎重ではある。
だが、閉じてはいない。
ラッケ村での聞き取りは、セリアにとっても何かを変えたのかもしれない。
薬草庫の下働きが、炉のそばで煙の流れを確認している。
「セリア様、これは三本ですか」
「二本半です」
「半分も数えるんですか」
「数えます」
下働きの少女は、ひええ、という顔をした。
私も内心で少し同じ顔をした。
煙二本半。
そこまで見るのか。
でも、見るのだ。
薬になるか、効きの薄い草になるか。
それを分けるのは、そういう細いところなのだろう。
ヴァルツェンの春は、まだ遠い。
けれど、雪の下にあったものは、少しずつ地面の上へ出始めていた。
そんな頃、王都では盛大な婚礼が開かれていた。
新王アルベルト陛下と、聖女リリアナ妃殿下の御成婚。
白百合の花で飾られた大聖堂。
王都の広場へ張られた祝賀布。
救貧院、孤児院、施療院、教会倉庫へ送られる記念配布品。
王都報は、それを「新たな王国の春」と書いた。
白百合の慈愛が、王都の隅々へ届いたのだと。
執務室でその紙面を読んだ時、指先が少しだけ冷えた。
婚礼は、祝われるべきものなのだろう。
リリアナ妃殿下が民を助けたいと願っていることも、たぶん本当なのだろう。
それでも、その白い紙面の奥に、私は別のものを探してしまう。
祝福の言葉の下に隠れた、配布表の空欄を。
誰かの手間と、誰かの見落としを。
紙面の中央には、宮廷画家の下絵をもとにしたらしい精巧な挿絵が刷られていた。
白百合を持ち、民へ微笑む聖女。
隣には、アルベルト陛下。
おそらく、婚礼の前から用意されていた絵なのだろう。
そこには、祝福されるべき王と王妃の姿だけが、最初から過不足なく配置されていた。
王都報は、いつも通り綺麗だった。
綺麗すぎるくらいに。
リリアナ妃殿下の祈り。
アルベルト陛下の慈愛。
民衆の歓声。
白百合の香り。
祝賀の鐘。
そこに、エレノア様の名はない。
当たり前だ。
婚礼の記事なのだから。
今さら、そのことに腹を立てるのは筋違いだ。
分かっている。
分かっているけれど、身体の奥に残るものは、理屈だけでは消えてくれない。
胸の奥が、ほんの少しだけ重くなる。
たぶん、それは私の感情だけではなかった。
エレノア様の身体が、この文字を覚えている。
祝福の裏側に、自分が立っていないことを。
そこに立たないと決めた今でも、痛みが消えるわけではないことを。
「女伯様」
ユリスの声で、私は顔を上げた。
「王都から、別便で封書が届いております。王妃宮の封蝋です」
王妃宮。
私は、思わず王都報の挿絵を見た。
白百合の印が押された封書。
王妃リリアナ妃殿下からの手紙。
白い封筒は、王都報の紙面よりもずっと静かだった。
けれど、机の上に置かれた瞬間、執務室の空気が少し変わった。
オルドが控えめに眉を寄せる。
ユリスは、いつも通り無表情を保とうとしているが、指先に力が入っている。
王妃からの手紙。
それは名誉なことなのだろう。
普通なら。
だが、この部屋では、少し違う。
私は封蝋を見つめた。
白百合。
美しい印。
それを割る指先が、わずかに強張った。
手紙は、丁寧だった。
あまりに丁寧で、だからこそ、痛かった。
婚礼に際してヴァルツェンより寄せられた祝意への礼。
灰麦粥用粉の支援が王都の救貧院で役立ったことへの感謝。
袋印と使用札が現場の助けになったこと。
薬草管理についての報告も、王妃宮で共有されたこと。
そこまでは、よかった。
リリアナ妃殿下の言葉は、以前よりも実務に近づいている。
白くて柔らかいだけではない。
そこに、現場の手間を見ようとする努力があった。
でも、手紙はそこで終わらなかった。
婚礼を記念した慈善配布が、王都各所で大きく広がったこと。
救貧院、孤児院、施療院、教会倉庫、寡婦救済所、老齢者施し所。
配布先が増え、寄付品も増えたこと。
そして、現場で混乱が起き始めていること。
同封の実務報告を開くと、そこには王都報には載らない行が並んでいた。
孤児院へ送るはずだった薄味の粥粉が、救貧院の成人用配布に混ざりかけた。
施療院で管理すべき薬草袋が、教会倉庫の一般配布品と同じ棚に置かれた。
祝賀用の甘菓子が多く届いた一方で、防寒布は必要数に足りなかった。
箱には白百合紋と祝福文が添えられていたが、用途札がないものが多かった。
受け取りは記録されている。
だが、その後、誰がどこへ配ったのかが薄い。
私は一枚ずつ報告書をめくった。
字は整っている。
紙も上質だ。
だが、整っているからこそ、欠けているものがよく分かった。
綺麗な表なのに、戻し先がない。
誰が間違えたかを責めるためではない。
次にどこを直せばいいのか。
それが見えない。
「……王都は、派手ですね」
思わず、そんな言葉が漏れた。
ユリスは反応に困ったように、眼鏡の位置を直した。
「婚礼ですので」
「ええ。婚礼ですものね」
私の声は、自分で思ったよりも冷たかった。
まずい。
これは玲奈の感情がかなり出ている。
エレノア様の顔で、あまり露骨に王都への不満を出すのはよろしくない。
私は咳払いをして、報告書へ視線を戻した。
「王妃宮は、何を求めていますか」
ユリスが静かに尋ねた。
私は手紙の後半を読み直した。
そこに書かれている言葉は、礼儀正しい。
柔らかい。
相手を傷つけないよう、何重にも布で包まれている。
けれど、包みを解けば、中身は一つだった。
王都へ来てほしい。
聖女慈善基金の配布管理を見てほしい。
各施設の運用を確認し、指導してほしい。
私は、手紙を机の上に置いた。
「王妃殿下は、私に王都へ来てほしいそうです」
言った瞬間、部屋が静まった。
暖炉の薪が小さく鳴る。
オルドの手が、ほんのわずかに動いた。
ユリスは、視線を下げた。
「……王都へ、でございますか」
「短期滞在の上、慈善基金の配布管理について助言を、とあります」
短期滞在。
助言。
配布管理。
どれも柔らかい言葉だ。
でも、私には違う言葉に聞こえた。
戻ってきてください。
あなたがいないと、王都の実務が回りません。
そう言われているように聞こえた。
追い出したのに?
冷血伯と呼んだのに?
王太子殿下の隣から引きずり下ろして、白百合の物語の外へ追いやったのに?
今度は、慈善配布が回らないから戻ってきてください?
いや、落ち着け。
私は机の下で、そっと指を握った。
これは復讐の話ではない。
王妃殿下の手紙は悪意ではない。
報告書にある混乱も、本物だ。
孤児院も、救貧院も、施療院も、困っている。
そこにいる人たちに罪はない。
リリアナ妃殿下も、たぶん本気で何とかしたいと思っている。
分かる。
分かるけど。
虫がいい。
その言葉が、喉の奥まで出かかった。
けれど、エレノア様の声でそれを言うわけにはいかなかった。
私は手紙を折り直した。
「女伯様」
オルドが、静かに言った。
「急ぎ、お返事をなさる必要はございません」
「ええ」
私は頷いた。
「まず、報告書を精査します。王都で起きている混乱の内容、配布先、品目、責任者の有無、現場からの戻し先を確認してください。ユリス」
「承知しました」
「セリアには、薬草袋の取り扱いについて同封報告を見てもらいます。施療院用の薬草が教会倉庫へ回った件は、危険です」
「はい」
「オルド」
「はい」
「王妃宮への返書は、まだ保留します。まずは受領の礼のみ。内容への回答は、報告書確認後とします」
「かしこまりました」
指示を出す声は、落ち着いていたと思う。
少なくとも、外側は。
さすがエレノア様の身体。
こういう時の姿勢と声音が、異様に安定している。
内側の私は、全然安定していない。
何それ。
何なんですか、それ。
王都に来てください?
短期滞在?
助言?
いやいやいや。
それ、要するにエレノア様にまた王都の穴を埋めろって話では?
しかも、表向きは聖女慈善基金の整備で?
白百合の慈愛を、冷血伯が裏で整えるんですか?
やめてください。
推しを便利な実務補助具みたいに扱わないでください。
心の中でそこまで言って、私は自分で少し引いた。
落ち着け、玲奈。
かなり怒っている。
怒っていいのかもしれないけど、今すぐ表へ出していい怒りではない。
私は王都報と手紙と実務報告を、別々に重ねた。
混ぜない。
リリアナ妃殿下の善意。
王都の虫のよさ。
現場の混乱。
エレノア様の傷。
それらを混ぜた瞬間、判断を誤る。
そう思った時、胸の奥で、かすかな気配がした。
精神世界の扉。
私は目を伏せる。
執務室から人が下がった後、私はようやくその扉の前に立った。
精神世界の寝室は、いつもより少し暗く感じた。
扉の向こうに、エレノア様の気配がある。
「エレノア様」
返事は、すぐにはなかった。
「王妃殿下からの手紙、読みました」
「……はい」
短い声。
それだけで、胸が痛くなる。
「王都で混乱が起きているようです。慈善基金の配布先が増えて、物資の取り違えや責任者不明が出ています」
「婚礼に合わせて配布を広げたのでしょう」
エレノア様の声は静かだった。
静かすぎた。
「祝賀に合わせて慈善を行うこと自体は、悪いことではありません。寄付も集まりやすい。人々の関心も向く。正しく回れば、多くの者が助かります」
「……正しく回れば、ですよね」
「はい」
少しだけ沈黙があった。
「祝賀配布は、膨らみやすいのです」
「膨らみやすい?」
「はい。善意も、寄付品も、人の数も。普段なら確認するはずのものが、祝賀の名で通ってしまう。急ぎの配布、記念の配布、王家の慈愛、聖女の祈り。そうした言葉がつくと、止める者が嫌われます」
私は、息を止めた。
その言葉は、あまりにもエレノア様の経験そのものだった。
止める者が嫌われる。
必要数は。
責任者は。
配布先は。
次も同じことができるのか。
そう問う者が、冷たいと呼ばれる。
「……エレノア様は、昔からそういうものを止めていたんですね」
「止めきれないことも、多くありました」
「でも、止めようとしていた」
「必要でしたから」
必要でしたから。
その一言が、ずしりと重い。
エレノア様は、必要なら嫌われる席に座る人だった。
だから王都は、今になってその席を思い出したのかもしれない。
そこに誰が座っていたのかを。
「王妃殿下は、悪意で書いたのではないと思います」
エレノア様が言った。
「はい。それは、私もそう思います」
「リリアナ様は、現場の混乱に気づかれたのでしょう。以前よりも、実務報告に目を通しておられる。でなければ、このような手紙は出ません」
「……そうですね」
「そして、王都の混乱は実際に危険です。施療院用の薬草が教会倉庫に置かれた件は、放置すれば事故になります。粥粉の取り違えも、幼児や病人には軽くありません」
「分かっています」
分かっている。
それが一番つらい。
完全に王都側が悪いなら、怒ればいい。
虫がいい、と切り捨てればいい。
でも、そこには本当に困っている人がいる。
だからエレノア様は揺れる。
そして私は、それを止めたい。
でも、困っている人を見捨てろとは言えない。
言いたくない。
扉の向こうで、衣擦れのような音がした。
「私が行けば、早いでしょう」
その言葉に、私は固まった。
来た。
来てしまった。
エレノア様なら、そう言うと思った。
思ったけれど、実際に聞くと、心臓に悪い。
「エレノア様」
「王都の施設の配置は、ある程度知っています。救貧院、施療院、教会倉庫、孤児院。婚礼に合わせた配布なら、式典局、王妃宮、教会、寄付商会が関わっているはずです。どこで混ざるかも、おおよそ見当がつきます」
「でしょうね」
「私が直接見れば、早いです」
「でしょうね」
「……怒っていますか」
「怒っています」
即答してしまった。
扉の向こうが、少しだけ静かになる。
私は慌てて言葉を足した。
「エレノア様に怒っているわけではありません。たぶん。いえ、少し怒っているかもしれませんが、それはあなたがまた自分を削る方向に最短で行こうとするからで」
「削る」
「削りますよ。王都へ行くって、そういうことですよ」
私は扉に手をついた。
「王都の空席には戻らないって、決めたじゃないですか」
「空席を埋めに戻るわけではありません」
「同じです」
少し強い声になった。
でも、ここは引けない。
「王都が困っている。事故が起きそう。だからエレノア様が行く。全部見て、全部直して、また誰にも見えないところで白百合の慈善を支える。それ、同じ席です」
「……ですが」
「困っている人は助けたいです。私もそう思います。でも、助けることと、戻ることは違います」
扉の向こうから、返事はなかった。
私はゆっくり息を吸った。
怒りで言葉をぶつけたくない。
でも、柔らかくしすぎると、この人はきっと戻ってしまう。
必要だから。
自分が行けば早いから。
自分が我慢すれば済むから。
そうやって、何度も傷ついてきたのだろうから。
「エレノア様」
「はい」
「王都を助ける方法は、王都へ戻ることだけじゃありません」
「……遠隔で指示を出す、ということですか」
「それも違います」
私は首を横に振った。
「手順だけ送っても、たぶん王都は真似できません。札の形だけ写して、白百合紋を大きくして、統一様式にして、また現場で混ざります」
「あり得ます」
「だから、王都の人に来てもらいましょう」
扉の向こうで、気配がわずかに動いた。
「ヴァルツェンへ、ですか」
「はい」
口にした瞬間、自分でも少し驚いた。
でも、それが一番しっくりきた。
王都へ戻らない。
でも、見捨てない。
なら、王都が来ればいい。
ここへ。
ヴァルツェンへ。
雪と灰麦と薬草の匂いがする場所へ。
「王都の実務官を、ヴァルツェンへ派遣してもらうんです。帳簿だけじゃなく、備蓄庫、薬草庫、厨房、袋印、村用札、支払い帳。全部見せる。ここで覚えてもらう」
「……王都の実務官が、ヴァルツェンへ」
「はい」
「辺境の女伯の元へ、教えを受けに」
「言い方はどうでもいいです。必要なんでしょう?」
私は、少しだけ意地悪な言い方をした。
エレノア様は黙った。
そして、ほんのかすかに息を吐いた。
「あなたは時々、私より冷たいことを言いますね」
「えっ」
それは、怒っている声ではなかった。
どちらかというと、少しだけ困ったような声。
いや、今のは冗談?
エレノア様の冗談?
こんな深刻な場面で?
待ってください。
心の準備が。
「褒め言葉として受け取っていいですか」
「褒めてはいません」
「ですよね」
私は真顔で答えた。
内心はかなり危なかった。
推しの冷静な軽口は、心臓に悪い。
でも、今は喜んでいる場合ではない。
たぶん。
「王都へは戻らない」
エレノア様が、静かに言った。
「ですが、学ぶ者を拒みはしない」
「はい」
「必要なら、実務官をヴァルツェンへ寄越すよう返書に記します。帳簿、倉庫、薬草庫、配布札の運用を見せる。ただし、王都で用いるのであれば、王都の者が責任を持って覚えること」
「はい」
「短期で済むものではありません」
「そこも書きましょう。数日で分かった気になられたら困ります」
「最低でも、季節一つ分は必要です」
「実務ですねえ……」
思わず漏れた私の言葉に、扉の向こうでエレノア様が少しだけ黙った。
「嫌ですか」
「いいえ。好きです」
「……好き」
「あっ、いえ、実務が。実務が好きという意味で。もちろんエレノア様の実務も好きですが、それはその、尊敬というか、信仰に近いというか」
「信仰」
「忘れてください」
「難しいです」
私は額を扉につけたくなった。
なぜ私は精神世界でまで墓穴を掘るのか。
いや、違う。
話を戻そう。
「とにかく、返書の方向はそれで行きましょう。王都には戻らない。必要なら、王都の実務官が来る。ここで学ぶ。王都の慈善は、王都が責任を持って回す」
「はい」
エレノア様の返事は、先ほどよりも少しだけ確かだった。
「……玲奈」
名前を呼ばれて、私は息を止めた。
「はい」
「止めてくださって、ありがとうございます」
扉の向こうの声は、とても静かだった。
私はすぐに返事ができなかった。
感謝されたから、というだけではない。
その声に、ほんの少しだけ疲れが混じっていたからだ。
きっと、エレノア様は本当に行くつもりだった。
王都へ。
必要なら。
自分が行けば早いなら。
そうやって、また傷つく場所へ足を戻そうとしていた。
「……止めます」
私は、ようやく答えた。
「何度でも止めます」
「困りましたね」
「困ってください」
そう言うと、扉の向こうで、ほんのわずかに空気が和らいだ気がした。
現実に戻ると、執務室の窓の外はもう暗くなっていた。
王都報。
王妃の手紙。
実務報告。
私はそれらを、机の上に別々に置いた。
混ぜない。
王都の祝福。
王妃の善意。
慈善基金の混乱。
エレノア様の傷。
そして、ヴァルツェンの答え。
私は私的業務記録を開き、今日届いた文書について記した。
王都にて、新王アルベルト陛下と聖女リリアナ妃殿下の御成婚。
婚礼記念配布に伴い、聖女慈善基金の配布先拡大。
王妃宮より、慈善基金配布管理について助言要請。
王都短期滞在の依頼あり。
報告書精査後に正式返答。
そこまで書いて、ペンを止める。
最後に、一行だけ追記した。
王都へは戻らない。必要なら、王都がヴァルツェンへ来ること。
書いた瞬間、指が少し震えた。
それは拒絶ではない。
見捨てることでもない。
ただ、席を間違えないための線だった。
王都の空席を埋めるために、エレノア様が戻るのではない。
王都が、自分たちの慈善を回すために、ここへ学びに来る。
白い手紙は、机の左に。
王都報は、その隣に。
実務報告は、右側に。
そして私的業務記録は、中央に。
窓の外では、まだ雪が残っている。
薬草庫では、ラッケ草が静かに乾いている。
王都の白い婚礼とは違う。
祝福の鐘も、白百合の花もない。
けれど、ここには煙三本を数える者がいる。
乾いた葉に名札をつける者がいる。
支払い帳の欄外に、山の言葉を残す者がいる。
私はその場所で、手紙への返事を考える。
エレノア様。
あなたは、もう王都の白い紙面の余白ではありません。
この灰色の帳簿の中央に、確かに座っている。
だから、戻らなくていい。
必要なら、向こうが来ればいい。
ここが、あなたの執務室なのだから。




