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断罪後の悪役令嬢も、私は推している  作者: Manabit
第五章 白い手紙と灰色の帳簿

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第29話 白い手紙

 ラッケ草の備蓄は、少しずつ形になっていた。


 最初に届いた乾燥葉は薬草庫で保管され、二度目からは村で乾かしたものと、城館で乾かしたものを並べて、セリアが状態を比べた。


 煙三本。


 根を残すこと。


 昼に指一本分だけ沈む雪。


 そんな、王都の帳簿にはまず出てこない言葉が、今では薬草庫の札に残っている。


 メルカ殿からは、相変わらず短い伝言が届いた。


 山を買ったと思うな。


 ユリスはそれを、支払い帳の欄外に残していた。


「……これは、正式な記録ですか」


 私が尋ねると、ユリスは一瞬だけ視線を迷わせた。


「正式な記録ではありません。ですが、消すべきではない言葉だと判断しました」


「なるほど」


 私は支払い帳の余白を見つめた。


 山を買ったと思うな。


 うん。


 確かに、消すべきではない。


 薬草庫の奥には、ラッケ草の袋が三つ並んでいる。どの袋にも、採取日、乾燥場所、確認者の名が記されていた。


 王都の美しい贈答品に比べれば、何とも地味だ。


 灰色の袋。


 黒い文字。


 不揃いな確認印。


 けれど、その不揃いさが、少しだけ嬉しかった。


 メルカ殿の印。


 若い採取人たちの印。


 セリアの確認印。


 ユリスの記録。


 そこには、誰かの手が残っている。


「十分とは言えません」


 セリアは、いつも通り厳しかった。


 乾燥葉の一束を指先でほぐし、葉の裏の白い毛を確かめながら言う。


「冬の巡回兵全員に回すには足りません。木こり、猟師、子供のひび割れまで考えるなら、優先順位を決める必要があります」


「分かりました。まずは巡回兵と、凍傷の危険が高い仕事の者ですね」


「はい。それと、子供用には薄く調整します。強いものをそのまま塗らせないでください」


「札を分けますか」


「分けます」


 即答だった。


 セリアが即答する時は、だいたい議論の余地がない。


 私は素直に頷いた。


「では、子供用の油練り札を別に作りましょう。メルカ殿にも確認を」


「必要です。城館だけで整えると、また山の言葉が消えます」


 セリアの声には、少しだけ変化があった。


 以前なら、薬草庫の外の知識に対して、もっと慎重で、もっと硬かった気がする。


 今も慎重ではある。


 だが、閉じてはいない。


 ラッケ村での聞き取りは、セリアにとっても何かを変えたのかもしれない。


 薬草庫の下働きが、炉のそばで煙の流れを確認している。


「セリア様、これは三本ですか」


「二本半です」


「半分も数えるんですか」


「数えます」


 下働きの少女は、ひええ、という顔をした。


 私も内心で少し同じ顔をした。


 煙二本半。


 そこまで見るのか。


 でも、見るのだ。


 薬になるか、効きの薄い草になるか。


 それを分けるのは、そういう細いところなのだろう。


 ヴァルツェンの春は、まだ遠い。


 けれど、雪の下にあったものは、少しずつ地面の上へ出始めていた。


 そんな頃、王都では盛大な婚礼が開かれていた。


 新王アルベルト陛下と、聖女リリアナ妃殿下の御成婚。


 白百合の花で飾られた大聖堂。


 王都の広場へ張られた祝賀布。


 救貧院、孤児院、施療院、教会倉庫へ送られる記念配布品。


 王都報は、それを「新たな王国の春」と書いた。


 白百合の慈愛が、王都の隅々へ届いたのだと。


 執務室でその紙面を読んだ時、指先が少しだけ冷えた。


 婚礼は、祝われるべきものなのだろう。


 リリアナ妃殿下が民を助けたいと願っていることも、たぶん本当なのだろう。


 それでも、その白い紙面の奥に、私は別のものを探してしまう。


 祝福の言葉の下に隠れた、配布表の空欄を。


 誰かの手間と、誰かの見落としを。


 紙面の中央には、宮廷画家の下絵をもとにしたらしい精巧な挿絵が刷られていた。


 白百合を持ち、民へ微笑む聖女。


 隣には、アルベルト陛下。


 おそらく、婚礼の前から用意されていた絵なのだろう。


 そこには、祝福されるべき王と王妃の姿だけが、最初から過不足なく配置されていた。


 王都報は、いつも通り綺麗だった。


 綺麗すぎるくらいに。


 リリアナ妃殿下の祈り。


 アルベルト陛下の慈愛。


 民衆の歓声。


 白百合の香り。


 祝賀の鐘。


 そこに、エレノア様の名はない。


 当たり前だ。


 婚礼の記事なのだから。


 今さら、そのことに腹を立てるのは筋違いだ。


 分かっている。


 分かっているけれど、身体の奥に残るものは、理屈だけでは消えてくれない。


 胸の奥が、ほんの少しだけ重くなる。


 たぶん、それは私の感情だけではなかった。


 エレノア様の身体が、この文字を覚えている。


 祝福の裏側に、自分が立っていないことを。


 そこに立たないと決めた今でも、痛みが消えるわけではないことを。


「女伯様」


 ユリスの声で、私は顔を上げた。


「王都から、別便で封書が届いております。王妃宮の封蝋です」


 王妃宮。


 私は、思わず王都報の挿絵を見た。


 白百合の印が押された封書。


 王妃リリアナ妃殿下からの手紙。


 白い封筒は、王都報の紙面よりもずっと静かだった。


 けれど、机の上に置かれた瞬間、執務室の空気が少し変わった。


 オルドが控えめに眉を寄せる。


 ユリスは、いつも通り無表情を保とうとしているが、指先に力が入っている。


 王妃からの手紙。


 それは名誉なことなのだろう。


 普通なら。


 だが、この部屋では、少し違う。


 私は封蝋を見つめた。


 白百合。


 美しい印。


 それを割る指先が、わずかに強張った。


 手紙は、丁寧だった。


 あまりに丁寧で、だからこそ、痛かった。


 婚礼に際してヴァルツェンより寄せられた祝意への礼。


 灰麦粥用粉の支援が王都の救貧院で役立ったことへの感謝。


 袋印と使用札が現場の助けになったこと。


 薬草管理についての報告も、王妃宮で共有されたこと。


 そこまでは、よかった。


 リリアナ妃殿下の言葉は、以前よりも実務に近づいている。


 白くて柔らかいだけではない。


 そこに、現場の手間を見ようとする努力があった。


 でも、手紙はそこで終わらなかった。


 婚礼を記念した慈善配布が、王都各所で大きく広がったこと。


 救貧院、孤児院、施療院、教会倉庫、寡婦救済所、老齢者施し所。


 配布先が増え、寄付品も増えたこと。


 そして、現場で混乱が起き始めていること。


 同封の実務報告を開くと、そこには王都報には載らない行が並んでいた。


 孤児院へ送るはずだった薄味の粥粉が、救貧院の成人用配布に混ざりかけた。


 施療院で管理すべき薬草袋が、教会倉庫の一般配布品と同じ棚に置かれた。


 祝賀用の甘菓子が多く届いた一方で、防寒布は必要数に足りなかった。


 箱には白百合紋と祝福文が添えられていたが、用途札がないものが多かった。


 受け取りは記録されている。


 だが、その後、誰がどこへ配ったのかが薄い。


 私は一枚ずつ報告書をめくった。


 字は整っている。


 紙も上質だ。


 だが、整っているからこそ、欠けているものがよく分かった。


 綺麗な表なのに、戻し先がない。


 誰が間違えたかを責めるためではない。


 次にどこを直せばいいのか。


 それが見えない。


「……王都は、派手ですね」


 思わず、そんな言葉が漏れた。


 ユリスは反応に困ったように、眼鏡の位置を直した。


「婚礼ですので」


「ええ。婚礼ですものね」


 私の声は、自分で思ったよりも冷たかった。


 まずい。


 これは玲奈の感情がかなり出ている。


 エレノア様の顔で、あまり露骨に王都への不満を出すのはよろしくない。


 私は咳払いをして、報告書へ視線を戻した。


「王妃宮は、何を求めていますか」


 ユリスが静かに尋ねた。


 私は手紙の後半を読み直した。


 そこに書かれている言葉は、礼儀正しい。


 柔らかい。


 相手を傷つけないよう、何重にも布で包まれている。


 けれど、包みを解けば、中身は一つだった。


 王都へ来てほしい。


 聖女慈善基金の配布管理を見てほしい。


 各施設の運用を確認し、指導してほしい。


 私は、手紙を机の上に置いた。


「王妃殿下は、私に王都へ来てほしいそうです」


 言った瞬間、部屋が静まった。


 暖炉の薪が小さく鳴る。


 オルドの手が、ほんのわずかに動いた。


 ユリスは、視線を下げた。


「……王都へ、でございますか」


「短期滞在の上、慈善基金の配布管理について助言を、とあります」


 短期滞在。


 助言。


 配布管理。


 どれも柔らかい言葉だ。


 でも、私には違う言葉に聞こえた。


 戻ってきてください。


 あなたがいないと、王都の実務が回りません。


 そう言われているように聞こえた。


 追い出したのに?


 冷血伯と呼んだのに?


 王太子殿下の隣から引きずり下ろして、白百合の物語の外へ追いやったのに?


 今度は、慈善配布が回らないから戻ってきてください?


 いや、落ち着け。


 私は机の下で、そっと指を握った。


 これは復讐の話ではない。


 王妃殿下の手紙は悪意ではない。


 報告書にある混乱も、本物だ。


 孤児院も、救貧院も、施療院も、困っている。


 そこにいる人たちに罪はない。


 リリアナ妃殿下も、たぶん本気で何とかしたいと思っている。


 分かる。


 分かるけど。


 虫がいい。


 その言葉が、喉の奥まで出かかった。


 けれど、エレノア様の声でそれを言うわけにはいかなかった。


 私は手紙を折り直した。


「女伯様」


 オルドが、静かに言った。


「急ぎ、お返事をなさる必要はございません」


「ええ」


 私は頷いた。


「まず、報告書を精査します。王都で起きている混乱の内容、配布先、品目、責任者の有無、現場からの戻し先を確認してください。ユリス」


「承知しました」


「セリアには、薬草袋の取り扱いについて同封報告を見てもらいます。施療院用の薬草が教会倉庫へ回った件は、危険です」


「はい」


「オルド」


「はい」


「王妃宮への返書は、まだ保留します。まずは受領の礼のみ。内容への回答は、報告書確認後とします」


「かしこまりました」


 指示を出す声は、落ち着いていたと思う。


 少なくとも、外側は。


 さすがエレノア様の身体。


 こういう時の姿勢と声音が、異様に安定している。


 内側の私は、全然安定していない。


 何それ。


 何なんですか、それ。


 王都に来てください?


 短期滞在?


 助言?


 いやいやいや。


 それ、要するにエレノア様にまた王都の穴を埋めろって話では?


 しかも、表向きは聖女慈善基金の整備で?


 白百合の慈愛を、冷血伯が裏で整えるんですか?


 やめてください。


 推しを便利な実務補助具みたいに扱わないでください。


 心の中でそこまで言って、私は自分で少し引いた。


 落ち着け、玲奈。


 かなり怒っている。


 怒っていいのかもしれないけど、今すぐ表へ出していい怒りではない。


 私は王都報と手紙と実務報告を、別々に重ねた。


 混ぜない。


 リリアナ妃殿下の善意。


 王都の虫のよさ。


 現場の混乱。


 エレノア様の傷。


 それらを混ぜた瞬間、判断を誤る。


 そう思った時、胸の奥で、かすかな気配がした。


 精神世界の扉。


 私は目を伏せる。


 執務室から人が下がった後、私はようやくその扉の前に立った。


 精神世界の寝室は、いつもより少し暗く感じた。


 扉の向こうに、エレノア様の気配がある。


「エレノア様」


 返事は、すぐにはなかった。


「王妃殿下からの手紙、読みました」


「……はい」


 短い声。


 それだけで、胸が痛くなる。


「王都で混乱が起きているようです。慈善基金の配布先が増えて、物資の取り違えや責任者不明が出ています」


「婚礼に合わせて配布を広げたのでしょう」


 エレノア様の声は静かだった。


 静かすぎた。


「祝賀に合わせて慈善を行うこと自体は、悪いことではありません。寄付も集まりやすい。人々の関心も向く。正しく回れば、多くの者が助かります」


「……正しく回れば、ですよね」


「はい」


 少しだけ沈黙があった。


「祝賀配布は、膨らみやすいのです」


「膨らみやすい?」


「はい。善意も、寄付品も、人の数も。普段なら確認するはずのものが、祝賀の名で通ってしまう。急ぎの配布、記念の配布、王家の慈愛、聖女の祈り。そうした言葉がつくと、止める者が嫌われます」


 私は、息を止めた。


 その言葉は、あまりにもエレノア様の経験そのものだった。


 止める者が嫌われる。


 必要数は。


 責任者は。


 配布先は。


 次も同じことができるのか。


 そう問う者が、冷たいと呼ばれる。


「……エレノア様は、昔からそういうものを止めていたんですね」


「止めきれないことも、多くありました」


「でも、止めようとしていた」


「必要でしたから」


 必要でしたから。


 その一言が、ずしりと重い。


 エレノア様は、必要なら嫌われる席に座る人だった。


 だから王都は、今になってその席を思い出したのかもしれない。


 そこに誰が座っていたのかを。


「王妃殿下は、悪意で書いたのではないと思います」


 エレノア様が言った。


「はい。それは、私もそう思います」


「リリアナ様は、現場の混乱に気づかれたのでしょう。以前よりも、実務報告に目を通しておられる。でなければ、このような手紙は出ません」


「……そうですね」


「そして、王都の混乱は実際に危険です。施療院用の薬草が教会倉庫に置かれた件は、放置すれば事故になります。粥粉の取り違えも、幼児や病人には軽くありません」


「分かっています」


 分かっている。


 それが一番つらい。


 完全に王都側が悪いなら、怒ればいい。


 虫がいい、と切り捨てればいい。


 でも、そこには本当に困っている人がいる。


 だからエレノア様は揺れる。


 そして私は、それを止めたい。


 でも、困っている人を見捨てろとは言えない。


 言いたくない。


 扉の向こうで、衣擦れのような音がした。


「私が行けば、早いでしょう」


 その言葉に、私は固まった。


 来た。


 来てしまった。


 エレノア様なら、そう言うと思った。


 思ったけれど、実際に聞くと、心臓に悪い。


「エレノア様」


「王都の施設の配置は、ある程度知っています。救貧院、施療院、教会倉庫、孤児院。婚礼に合わせた配布なら、式典局、王妃宮、教会、寄付商会が関わっているはずです。どこで混ざるかも、おおよそ見当がつきます」


「でしょうね」


「私が直接見れば、早いです」


「でしょうね」


「……怒っていますか」


「怒っています」


 即答してしまった。


 扉の向こうが、少しだけ静かになる。


 私は慌てて言葉を足した。


「エレノア様に怒っているわけではありません。たぶん。いえ、少し怒っているかもしれませんが、それはあなたがまた自分を削る方向に最短で行こうとするからで」


「削る」


「削りますよ。王都へ行くって、そういうことですよ」


 私は扉に手をついた。


「王都の空席には戻らないって、決めたじゃないですか」


「空席を埋めに戻るわけではありません」


「同じです」


 少し強い声になった。


 でも、ここは引けない。


「王都が困っている。事故が起きそう。だからエレノア様が行く。全部見て、全部直して、また誰にも見えないところで白百合の慈善を支える。それ、同じ席です」


「……ですが」


「困っている人は助けたいです。私もそう思います。でも、助けることと、戻ることは違います」


 扉の向こうから、返事はなかった。


 私はゆっくり息を吸った。


 怒りで言葉をぶつけたくない。


 でも、柔らかくしすぎると、この人はきっと戻ってしまう。


 必要だから。


 自分が行けば早いから。


 自分が我慢すれば済むから。


 そうやって、何度も傷ついてきたのだろうから。


「エレノア様」


「はい」


「王都を助ける方法は、王都へ戻ることだけじゃありません」


「……遠隔で指示を出す、ということですか」


「それも違います」


 私は首を横に振った。


「手順だけ送っても、たぶん王都は真似できません。札の形だけ写して、白百合紋を大きくして、統一様式にして、また現場で混ざります」


「あり得ます」


「だから、王都の人に来てもらいましょう」


 扉の向こうで、気配がわずかに動いた。


「ヴァルツェンへ、ですか」


「はい」


 口にした瞬間、自分でも少し驚いた。


 でも、それが一番しっくりきた。


 王都へ戻らない。


 でも、見捨てない。


 なら、王都が来ればいい。


 ここへ。


 ヴァルツェンへ。


 雪と灰麦と薬草の匂いがする場所へ。


「王都の実務官を、ヴァルツェンへ派遣してもらうんです。帳簿だけじゃなく、備蓄庫、薬草庫、厨房、袋印、村用札、支払い帳。全部見せる。ここで覚えてもらう」


「……王都の実務官が、ヴァルツェンへ」


「はい」


「辺境の女伯の元へ、教えを受けに」


「言い方はどうでもいいです。必要なんでしょう?」


 私は、少しだけ意地悪な言い方をした。


 エレノア様は黙った。


 そして、ほんのかすかに息を吐いた。


「あなたは時々、私より冷たいことを言いますね」


「えっ」


 それは、怒っている声ではなかった。


 どちらかというと、少しだけ困ったような声。


 いや、今のは冗談?


 エレノア様の冗談?


 こんな深刻な場面で?


 待ってください。


 心の準備が。


「褒め言葉として受け取っていいですか」


「褒めてはいません」


「ですよね」


 私は真顔で答えた。


 内心はかなり危なかった。


 推しの冷静な軽口は、心臓に悪い。


 でも、今は喜んでいる場合ではない。


 たぶん。


「王都へは戻らない」


 エレノア様が、静かに言った。


「ですが、学ぶ者を拒みはしない」


「はい」


「必要なら、実務官をヴァルツェンへ寄越すよう返書に記します。帳簿、倉庫、薬草庫、配布札の運用を見せる。ただし、王都で用いるのであれば、王都の者が責任を持って覚えること」


「はい」


「短期で済むものではありません」


「そこも書きましょう。数日で分かった気になられたら困ります」


「最低でも、季節一つ分は必要です」


「実務ですねえ……」


 思わず漏れた私の言葉に、扉の向こうでエレノア様が少しだけ黙った。


「嫌ですか」


「いいえ。好きです」


「……好き」


「あっ、いえ、実務が。実務が好きという意味で。もちろんエレノア様の実務も好きですが、それはその、尊敬というか、信仰に近いというか」


「信仰」


「忘れてください」


「難しいです」


 私は額を扉につけたくなった。


 なぜ私は精神世界でまで墓穴を掘るのか。


 いや、違う。


 話を戻そう。


「とにかく、返書の方向はそれで行きましょう。王都には戻らない。必要なら、王都の実務官が来る。ここで学ぶ。王都の慈善は、王都が責任を持って回す」


「はい」


 エレノア様の返事は、先ほどよりも少しだけ確かだった。


「……玲奈」


 名前を呼ばれて、私は息を止めた。


「はい」


「止めてくださって、ありがとうございます」


 扉の向こうの声は、とても静かだった。


 私はすぐに返事ができなかった。


 感謝されたから、というだけではない。


 その声に、ほんの少しだけ疲れが混じっていたからだ。


 きっと、エレノア様は本当に行くつもりだった。


 王都へ。


 必要なら。


 自分が行けば早いなら。


 そうやって、また傷つく場所へ足を戻そうとしていた。


「……止めます」


 私は、ようやく答えた。


「何度でも止めます」


「困りましたね」


「困ってください」


 そう言うと、扉の向こうで、ほんのわずかに空気が和らいだ気がした。


 現実に戻ると、執務室の窓の外はもう暗くなっていた。


 王都報。


 王妃の手紙。


 実務報告。


 私はそれらを、机の上に別々に置いた。


 混ぜない。


 王都の祝福。


 王妃の善意。


 慈善基金の混乱。


 エレノア様の傷。


 そして、ヴァルツェンの答え。


 私は私的業務記録を開き、今日届いた文書について記した。


 王都にて、新王アルベルト陛下と聖女リリアナ妃殿下の御成婚。


 婚礼記念配布に伴い、聖女慈善基金の配布先拡大。


 王妃宮より、慈善基金配布管理について助言要請。


 王都短期滞在の依頼あり。


 報告書精査後に正式返答。


 そこまで書いて、ペンを止める。


 最後に、一行だけ追記した。


 王都へは戻らない。必要なら、王都がヴァルツェンへ来ること。


 書いた瞬間、指が少し震えた。


 それは拒絶ではない。


 見捨てることでもない。


 ただ、席を間違えないための線だった。


 王都の空席を埋めるために、エレノア様が戻るのではない。


 王都が、自分たちの慈善を回すために、ここへ学びに来る。


 白い手紙は、机の左に。


 王都報は、その隣に。


 実務報告は、右側に。


 そして私的業務記録は、中央に。


 窓の外では、まだ雪が残っている。


 薬草庫では、ラッケ草が静かに乾いている。


 王都の白い婚礼とは違う。


 祝福の鐘も、白百合の花もない。


 けれど、ここには煙三本を数える者がいる。


 乾いた葉に名札をつける者がいる。


 支払い帳の欄外に、山の言葉を残す者がいる。


 私はその場所で、手紙への返事を考える。


 エレノア様。


 あなたは、もう王都の白い紙面の余白ではありません。


 この灰色の帳簿の中央に、確かに座っている。


 だから、戻らなくていい。


 必要なら、向こうが来ればいい。


 ここが、あなたの執務室なのだから。

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