第28話 薬草伯
ラッケ村から最初のラッケ草が届いたのは、城館へ戻って五日後のことだった。
早すぎる。
そう思ったが、セリアは薬草庫で荷を見た瞬間、短く言った。
「山の判断としては、今日で正しいです」
木箱の中には、乾燥前のラッケ草が丁寧に束ねられていた。
根は残されている。
葉裏の白い毛も落ちていない。
赤くなりすぎた茎は混じっていない。
箱の蓋の内側には、修正された採取札が貼られていた。
足跡の沈みは太く描き直されている。
止まる手の絵も、大きい。
煙は三本。
根を残す絵には、若い採取人のものらしい少し歪んだ確認印が押されていた。
その横に、メルカ婆の印。
さらに、村長の印。
最後に、小さく一文が添えられていた。
山で見た。
たったそれだけ。
けれど、私はその四文字をしばらく見つめた。
城館で勝手に整えたものではない。
村で見て、山で確かめて、戻ってきた札。
それが薬草と一緒に届いた。
「使えそうですか」
私が聞くと、セリアはラッケ草を一本取り、葉の裏を確かめた。
指先で茎を折る。
匂いを嗅ぐ。
少しだけ眉を動かす。
「使えます」
その一言に、薬草庫の空気が少し緩んだ。
セリアが「使える」と言うなら、本当に使えるのだ。
「ただし、乾燥は城館で行います。初回は薬草庫で状態を見ます」
「村で乾燥させてはいけませんか」
「いけないのではなく、比較が必要です」
セリアはすでに作業台へ向かっている。
「今回の束は、採取状態は良い。乾燥を薬草庫で行い、次回、村での乾燥分と比較します。油練りはその後です」
「なるほど」
「それから、買い取り区分は上等でよいかと」
「上等」
私は少しだけ息を吐いた。
よかった。
上等。
つまり、村の採取人たちは初回からきちんと採ってきた。
札は山で破れなかった。
メルカ婆の知識は、若い者の手にも少し届いた。
「ユリスに伝えます」
「すでに呼んであります」
早い。
相変わらず、薬草のことになるとセリアは迷いがない。
間もなく、ユリスが帳簿を抱えてやって来た。
顔は真面目だが、目の下にうっすら疲れがある。
ラッケ草の買い取り、指導料、採取人組の臨時登録、共同備蓄返済との切り分け。
ここ数日、彼の机には表が増え続けていた。
「女伯様」
ユリスは薬草箱を見るなり、ほっとしたように言った。
「品質は」
「セリアが上等でよいと」
「では、上等区分で買い取り処理をします」
ユリスは帳簿を開いた。
「ラッケ村採取人組。初回納入、乾燥前束数十二。乾燥後重量で正式確定。仮評価上等。買い取り代金は薬草庫予算より支出。採取指導料は、メルカ殿および採取人組へ別記」
「共同備蓄返済とは」
「分けています」
ユリスは即答した。
「別表にしました。返済労役表には入れていません」
その声には、少しだけ誇らしさがあった。
たぶん、この数日で何度も表を組み直したのだろう。
そして、ようやく形になった。
「助かります」
私が言うと、ユリスは一瞬だけ目を瞬いた。
「いえ、当然のことです」
「当然を、面倒がらずに分けてくれました」
「……はい」
ユリスは少しだけ視線を落とした。
褒められ慣れていない顔だ。
こちらも褒め慣れていない。
でも、言っておくべきだと思った。
面倒なことを面倒なまま扱う人がいるから、領地は回る。
それは、ちゃんと見ておきたい。
薬草庫の隅では、下働きの者たちがラッケ草を吊るす準備をしていた。
セリアは煙の当たり方を確認している。
「そこは強すぎます。三本ではなく五本になります」
「煙の本数まで見るんですか」
「見ます」
「三本って、何の三本です?」
「山の言葉です」
セリアはそう答えた。
下働きの者が首を傾げる。
私は思わず小さく笑いそうになった。
山の言葉。
セリアの口からその言葉が出るとは思わなかった。
彼女も、少しずつ変わっている。
いや、変わっているというより、取り込んでいる。
薬草庫の言葉の中に、山の言葉を。
その日の午後、ラッケ村への支払い書が作られた。
買い取り代金。
採取指導料。
山入り危険手当。
採取人組への共同費。
名目が多い。
表も多い。
正直、読むだけで少し疲れる。
でも、その面倒な名目一つ一つが、草をただ奪わないための仕切りだった。
メルカ婆個人へ全てを渡せば、また村の目が彼女へ集まる。
採取人組へ一括で渡せば、実際に山へ入った者の手間が消える。
買い取り代金だけにすれば、教えた知識の価値が消える。
指導料だけにすれば、草そのものの価値が曖昧になる。
だから、分ける。
面倒でも、分ける。
混ぜれば、また誰かが見えなくなる。
「女伯様」
夕方、ユリスが執務室へ来た。
手には、もう一枚の紙がある。
「ラッケ村から、口上も届いています」
「口上?」
「はい。運んできた者が、薬草庫で伝えました」
ユリスは少しだけ言いにくそうな顔をした。
「何と」
「そのまま申し上げても?」
「はい」
ユリスは紙に目を落とした。
「メルカ殿より。札はまだ直す。金は受け取る。だが、山を買ったと思うな」
私は思わず黙った。
セリアなら、いかにも言いそうですね、と言うところだ。
いや、セリアはたぶんもう言っている。
「それから、リナ殿より」
ユリスが続ける。
「母を働かせすぎないように。働きすぎた場合、城館の薬草庫の責任でもある」
「それは、セリアに伝えましょう」
「すでに伝えました」
「反応は」
「薬草に関して無理をする老人ほど厄介なものはない、と」
「……でしょうね」
言いそうだ。
完全に言いそうだ。
「あと、採取人の一人から」
ユリスが少しだけ口元を引き結んだ。
笑いを堪えているように見えた。
「何ですか」
「王都じゃ冷血伯だそうですが、ラッケ村では最近、薬草伯ですな、と」
私は固まった。
「……何ですか」
「薬草伯、とのことです」
「聞こえました」
聞こえたから固まっている。
薬草伯。
薬草伯。
何だそれは。
いや、意味は分かる。
薬草に札を作り、買い取り区分を分け、指導料まで出し、煙三本で薬草庫を動かしている女伯。
確かに、薬草伯かもしれない。
でも、字面が強い。
そして地味だ。
あまりにも地味だ。
「悪口ですか」
私が聞くと、ユリスは少し考えた。
「半分は」
「半分」
「もう半分は、感心かと」
半分悪口、半分感心。
まさにヴァルツェンらしい。
王都なら、もっと飾るだろう。
白百合の慈愛。
救いの手。
尊き施し。
そういう白くて柔らかい言葉にするはずだ。
でも、この土地では薬草伯。
土の匂いがする。
煙三本の匂いがする。
乾いた葉を吊るす薬草庫の匂いがする。
正直、華やかさは一切ない。
けれど、私はその名前を嫌いになれなかった。
「その呼び名は、広がりそうですか」
「ラッケ村内では、多少」
「止めますか」
ユリスは少しだけ首を傾げた。
「止める理由はありますか」
「礼を欠く呼び名かもしれません」
「冷血伯よりは、実務に基づいております」
真顔で言われると、ものすごく困る。
確かにそう。
冷血伯より、仕事をしている感じはある。
薬草伯。
冷血伯よりは、ずっとまし。
たぶん。
「女伯様」
ユリスが言った。
「私は、止めなくてよいと思います」
「なぜ」
「王都から押しつけられた名ではありません。村の者が、自分たちの言葉で呼び始めた名です。多少の皮肉があっても、そこには出来事があります」
出来事がある。
その言葉に、私は目を伏せた。
そうだ。
冷血伯という名は、王都で作られた。
見えていないものを見ないまま、冷たい、厳しい、情がないとまとめた名。
でも、薬草伯は違う。
ラッケ村で、ラッケ草をめぐる出来事の後に出てきた名だ。
よい名かどうかは分からない。
けれど、そこには煙三本がある。
止まる手の絵がある。
乾いた薪がある。
ニナのことを話したリナ殿がいる。
メルカ婆の「山を買ったと思うな」がある。
私は、ゆっくり息を吐いた。
「では、止めません」
「承知しました」
「ただし、公式文書には書かないでください」
「もちろんです」
ユリスは深く頷いた。
当たり前だ。
公式文書に「薬草伯」と書かれたら、さすがに困る。
その夜、私は精神世界の扉の前に立っていた。
暖炉の火は、静かに燃えている。
扉の向こうへ、今日あったことを一つずつ話した。
ラッケ草が届いたこと。
採取札に村の確認印があったこと。
品質は上等だったこと。
買い取りと指導料を分けたこと。
共同備蓄返済には入れなかったこと。
それから、最後に。
「ラッケ村で、新しい呼び名が出たそうです」
扉の向こうは、しばらく静かだった。
「新しい呼び名」
「はい」
「悪名ですか」
「判断に迷います」
「では、かなり悪名に近いのですね」
冷静な分析をしないでほしい。
「薬草伯、だそうです」
沈黙。
長い沈黙。
私は扉を見つめた。
今、エレノア様はどんな顔をしているのだろう。
呆れているのか。
困っているのか。
それとも、傷ついたのか。
「……薬草伯」
扉の向こうで、エレノア様がゆっくり繰り返した。
「はい」
「ずいぶん、土の匂いがする名ですね」
「ですよね」
「王都の者は、まず思いつかないでしょう」
「たぶん」
「冷血伯よりは」
そこで少しだけ、声が止まった。
「ずっと仕事をしています」
私は胸を押さえた。
今のは。
今のは、冗談だ。
エレノア様が、自分の悪名を引き合いに出して、少しだけ冗談を言った。
これは事件だ。
領地運営どころではない。
いや、領地運営の結果か。
どちらにしても、私の内心は大変なことになっている。
「玲奈」
「はい」
「表情が緩んでいませんか」
「精神世界でも分かりますか」
「声で分かります」
「失礼しました」
「謝るほどではありません」
扉の向こうで、かすかに衣擦れの音がした。
「薬草伯」
エレノア様はもう一度、その名を言った。
「不思議ですね」
「何がですか」
「冷血伯と呼ばれた時は、否定する気力もありませんでした。そう見えるのなら、そうなのでしょう、と」
胸が静かに痛んだ。
「ですが、薬草伯は」
「はい」
「少し、困ります」
「困る」
「ええ。あまりにも具体的で」
私は思わず笑いそうになった。
具体的で困る。
確かに。
薬草伯は、逃げ場がない。
煙三本。
買い取り表。
乾燥葉中袋十。
薬草庫の軟膏。
全部がついてくる。
「嫌ですか」
私は聞いた。
扉の向こうは、少しだけ静かになった。
「嫌では、ありません」
その声は、とても小さかった。
でも、確かに聞こえた。
「ただ、慣れません」
「それは、私もです」
「あなたは慣れるのが早そうです」
「推しの新しい二つ名ですからね」
「二つ名」
「失礼しました」
「いえ」
ほんの少し、エレノア様の声が柔らかくなる。
「二つ名、ですか」
まずい。
気に入ってはいないが、興味を持ってしまった気配がある。
いや、これは良いことなのか。
エレノア様が、自分につけられた名を、ただ傷として受け取るのではなく、少し距離を置いて眺めている。
冷血伯ではなく。
薬草伯。
不格好で、土と煙と乾いた葉の匂いがする名前。
でも、それは王都の悪意から生まれた名ではない。
ヴァルツェンの誰かの口から出た名だ。
半分皮肉でも。
半分感心でも。
そこには、エレノア様がここで何をしたかが残っている。
「エレノア様」
「何ですか」
「この名前、私は悪くないと思います」
「あなたは、私に関することだと判断が甘い」
「それは否定しません」
「否定しないのですか」
「はい。推しなので」
「……推し」
扉の向こうで、困ったような沈黙があった。
でも、その沈黙も、以前より冷たくない。
「けれど」
私は続けた。
「冷血伯は、あなたを見ない名前でした。薬草伯は、少なくともあなたがした仕事を見ています」
扉の向こうで、暖炉が小さく鳴った。
「仕事を」
「はい」
「なら」
エレノア様の声は静かだった。
「今は、それで十分です」
私は目を閉じた。
今は、それで十分。
その言葉が、この章の終わりなのだと思った。
完全な救いではない。
名誉回復でもない。
王都からの謝罪でもない。
ラッケ村の全員に許されたわけでもない。
でも、王都から押しつけられた悪名の横に、別の名が生まれた。
雪解け前の、まだ泥にまみれた名前。
薬草伯。
その不格好な名を、エレノア様は嫌ではないと言った。
それだけで、今は十分だった。
現実に戻った私は、私的業務記録を開いた。
ラッケ草初回納入。
品質、上等。
買い取り、上等区分。
採取指導料、採取人組へ支払い。
共同備蓄返済とは分離。
村用札は、村側確認印あり。
城館での乾燥後、薬草庫帳簿へ反映。
いつも通り、必要なことを記録した。
そして最後に、一行だけ追記した。
薬草伯。
書いた後、私はしばらくその三文字を見つめた。
冷血伯ではなく。
聖女でもなく。
王都の空席を埋める人でもなく。
薬草伯。
少し不格好で、土と乾いた葉の匂いがする名前。
けれど、その名は確かに、ヴァルツェンの誰かの口から生まれたものだった。
窓の外では、雪がまだ残っている。
春には少し早い。
けれど、雪の下では、次の草がもう眠っている。
この土地で生まれた名も、きっと同じだ。
まだ小さく、頼りなく、少し苦い。
でも、確かに芽のようにそこにある。
エレノア様。
あなたの名前は、まだ終わっていません。
王都がつけた名だけが、あなたではない。
この土地が、少しずつ別の名を呼び始めている。
雪解け前の名前を。




