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断罪後の悪役令嬢も、私は推している  作者: Manabit
第四章 雪解け前の名前

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第26話 札にできない声

 翌朝、村では二手に分かれた。


 山へ行く者たち。


 村に残る者たち。


 山へ向かうのは、メルカ婆、セリア、ガルド、それから村の若い採取人が二人。


 採取札の草案を持ち、実際の山道で使えるかを確かめる。


 私は村に残る。


 ニナの母親に会うために。


 それを聞いた時、正直に言えば、山へ行く方がまだ楽かもしれないと思った。


 もちろん、山道は危険だ。


 雪はまだ残っているし、ラッケ草の自生地は斜面にある。


 私は山を知らない。


 行けば足手まといになる。


 それは分かっている。


 けれど、山の危険は目に見える。


 滑る。


 落ちる。


 冷える。


 そういう危険なら、まだ身構えようがある。


 人の痛みは、見えない。


 どこで踏み抜くか分からない。


 何を言えば傷を広げるのか、何を黙ればまた見捨てたことになるのか、分からない。


 それが怖かった。


「女伯様」


 山へ出る前、セリアが私の前に立った。


 外套の裾をきっちり整え、薬草箱を肩にかけている。


「ニナの母親と会う時、内服禁止は撤回しないでください」


「分かっています」


「謝るなら、何に対して謝るのかを間違えないでください」


「はい」


「慰めようとしすぎないでください」


 私は少しだけ言葉に詰まった。


「……そんなに危なそうですか」


「女伯様は、最近、必要以上に人の痛みに寄り添おうとなさいます」


 セリアの目は冷静だった。


「それは以前より良い点です。ですが、薬と同じで、量を誤れば毒になります」


 人の痛みに寄り添うことも、量を誤れば毒になる。


 この人は、どこまで薬草基準で世界を見ているのだろう。


 でも、たぶん正しい。


「覚えておきます」


「覚えるだけではなく、黙ることも選んでください」


「はい」


 セリアは頷き、山の方へ歩いていった。


 その背を、メルカ婆が杖を突きながら追う。


「遅いよ、薬草庫の女」


「まだ約束の時刻前です」


「山は待たない」


「記録は待たせません」


「口の減らない女だね」


「薬草に関しては遠慮しませんので」


 二人の声が遠ざかっていく。


 相性が悪いのか、良いのか、やっぱり分からない。


 けれど、少なくとも山へ向かう背中は、昨日より少しだけ同じ方を向いていた。


 ガルドが最後に私へ一礼した。


「女伯様、昼過ぎには戻る予定です」


「無理はしないでください」


「承知しております」


 彼はそう言ったが、たぶん本当に危なければ、私の命令より山を優先する。


 それでいい。


 今日は、山のことは山を知る者たちに任せる。


 私は、村に残された声を聞く。


 村長宅の小さな部屋に戻ると、ユリスが書類を整えていた。


 今日の面会には、ユリスだけが同席する。


 記録係として。


 ただし、私は彼に言った。


「今日の記録は、全てを書かなくて構いません」


 ユリスは顔を上げた。


「よろしいのですか」


「必要な事実は記録します。でも、母親の言葉を全て業務記録に入れる必要はありません」


「では、どこまでを」


「本人が記録に残してよいと言ったこと。今後の制度に関わること。それから、私が忘れてはいけないこと」


 ユリスはしばらく考えた後、頷いた。


「承知しました」


「泣いた、怒鳴った、黙った。そういうことを細かく記録しすぎないでください」


「なぜですか」


「見世物にしたくありません」


 自分で言って、胸が少し痛んだ。


 これまで私は、記録が大事だと思ってきた。


 実際、大事だ。


 記録がなければ、人は簡単に消される。


 ニナも、被害報告の数行だけに閉じ込められていた。


 でも、何でも記録すればよいわけではない。


 人の痛みを、全部書類に移せば救いになるわけではない。


 札にできない痛みは、急いでまとめない。


 そう決めたはずだった。


 今日は、その言葉を自分で守らなければならない。


 ニナの母親は、昼前に来た。


 昨日、粥を運んできた女性だった。


 名は、リナ。


 メルカ婆の娘。


 ニナの母親。


 年は、私より少し上に見える。


 けれど、その目元には、年齢とは別の疲れがあった。


 彼女は部屋に入ると、礼をした。


 深く、正しく。


 でも、その手は硬く握られている。


「リナ殿」


 私は立ち上がった。


「来てくださったこと、感謝します」


「村長に言われましたので」


 声は平らだった。


 責めるでもなく、許すでもなく。


 ただ、距離を置く声。


「無理に話す必要はありません」


 私が言うと、リナは少しだけ目を上げた。


「話さなくてよいなら、なぜ来られたのですか」


 鋭い。


 私は一瞬、言葉を選んだ。


「話してほしいと思っています。ですが、命じに来たわけではありません」


「女伯様がそうおっしゃれば、命令と同じです」


 その通りだった。


 私は何も言えなかった。


 リナは椅子に座らない。


 立ったまま、私を見ている。


「座ってください」と言えば、それも命令になるのだろうか。


 そんなことまで考えて、私は自分の呼吸が浅くなっていることに気づいた。


 落ち着け。


 慰めようとしすぎない。


 黙ることも選ぶ。


 セリアの声を思い出す。


「分かりました」


 私は言った。


「では、私はここに座ります。あなたは、立っていても、座っても構いません」


 リナの眉がわずかに動いた。


 私は椅子に腰を下ろした。


 リナはしばらく立っていたが、やがて部屋の端の椅子に座った。


 ユリスは壁際に控え、紙を前に置いている。


 けれど、まだペンは動かしていない。


「ニナのことを聞きに来たのですか」


 リナが言った。


「はい」


「聞いてどうするのですか」


「同じことを繰り返さないために」


「もう繰り返しません」


 声が少しだけ強くなった。


「母は、もうラッケ草を飲ませません。村の者も、飲ませません。女伯様の命令は、よく効きました」


 よく効きました。


 その言葉は、刃物のようだった。


 命令は効いた。


 でも、それは薬のようにではない。


 罰のように。


 恐れのように。


「それでも、外に塗る使い方は残したいと思っています」


 私は言った。


「それはメルカ婆にも話しました」


「母は、山の草を捨てられませんから」


「あなたは」


 私は聞いた。


「あなたは、ラッケ草をどう思っていますか」


 リナはすぐには答えなかった。


 窓の外を見る。


 雪の残る村。


 煙突。


 山へ続く道。


「嫌いです」


 リナは言った。


「でも、なくなると困ります」


 私は黙って聞いた。


「ニナが小さい頃、冬になると指が割れました。血がにじんで、夜に泣くんです。母がラッケ草を油で練って塗ると、次の朝には少しましになっていました」


 リナの指が、膝の上で動く。


「だから、信じていました」


 その一言が重かった。


 信じていた。


 薬草を。


 母を。


 村の知識を。


 冬を越してきたやり方を。


「熱を出した時も、母は助けようとしました」


「はい」


「誰も、ニナを殺そうとしたわけではありません」


「はい」


「でも、紙にはそう書かれている気がしました」


 私は目を伏せた。


「飲ませるな。危険。罰金。納入権停止。そう書かれた紙を読まれた時、村の人たちは母を見ました」


 リナの声は震えていない。


 震えていないことが、かえって痛かった。


「誰も責めませんでした。でも、見ました。ああ、メルカ婆が間違えたのだと。山の知恵が、子を殺したのだと」


 私は唇を結んだ。


「母は、それからあまり眠らなくなりました。夜中に炉の前へ座って、草束を見ていました。捨てればよかったのか、残せばよかったのか、ずっと考えていました」


 メルカ婆の厳しい顔が浮かぶ。


 怒りの下にあったもの。


 孫を失った悲しみ。


 自分の知識が人を殺したかもしれない恐怖。


 そして、それを城館の命令で突きつけられた屈辱。


「リナ殿」


 私は静かに言った。


「内服を禁じたことは、撤回できません」


「分かっています」


「ラッケ草を煎じて飲ませることは、今後も禁じます」


「分かっています」


「ですが」


 私は、そこで一度言葉を切った。


 謝るなら、何に対して謝るのかを間違えない。


「その命令が、あなたの母上を、ただの過ちとして村の前に立たせたこと。正しい使い方まで危険なものとして扱ったこと。そこは、足りませんでした」


 リナは、私を見た。


「足りなかった」


「はい」


「それで済むのですか」


「済みません」


 私は答えた。


「済まないことを、今日聞きに来ました」


「謝れば、ニナは戻りますか」


「戻りません」


「母が眠れるようになりますか」


「分かりません」


「村の人が、母を見る目は変わりますか」


「すぐには変わりません」


 リナの目が細くなった。


「では、何が変わるのですか」


 何が変わる。


 私は答えを探した。


 でも、立派な答えは見つからなかった。


 ここで、未来は変わります、などと簡単に言えない。


 それはあまりにも軽い。


「次に誰かがラッケ草を使う時、飲ませてはいけない理由が残ります」


 私は言った。


「外に塗る使い方も残ります。あなたの母上の知識を、危険なものとしてだけではなく、必要なものとして記録します」


「母のために?」


「いいえ」


 私は首を振った。


「村のために。薬草庫のために。次に冬を越す人のために」


 リナの表情は変わらない。


「そして、ニナのために、と言いたいところですが」


 私は息を吸った。


「それを私が言うのは、違うと思っています」


 部屋が静かになった。


 ユリスのペンは、まだ動かない。


 リナは、初めて少しだけ視線を落とした。


「女伯様は」


 彼女は小さく言った。


「二年前に村へ来られました」


「はい」


「私は、会いませんでした」


「そう聞いています」


「会いたくなかったからです」


「はい」


「母が怒鳴っているのを、家の中で聞いていました。孫を奪って、草まで奪うのか、と」


 私は黙る。


「その時、私は母を止めませんでした。もっと言えと思っていました」


 リナの指が、膝の布を掴む。


「でも、女伯様が帰った後、母は泣きました」


 胸が痛んだ。


「怒鳴っている時は泣かなかった。杖を振っている時も泣かなかった。でも、帰った後、草束を抱えて泣きました」


 メルカ婆が。


 あの強い老婆が。


 ラッケ草を抱えて。


「私は、その時に思いました。ニナを殺したのは、草なのか。母なのか。雪なのか。薬草師を呼べなかった道なのか。命令書なのか。誰を恨めばいいのか分からなかった」


 リナの声が、初めて少しだけ揺れた。


「だから、全部恨みました」


 私は、何も言えなかった。


「女伯様も。城館も。ラッケ草も。母も。ニナを助けられなかった自分も」


 彼女は顔を上げた。


「でも、一番恨みやすかったのは、女伯様でした」


「はい」


「だって、遠いから」


 その言葉に、私は息を止めた。


「王都にいて、紙を送ってきて、村へ来てもすぐ帰る。遠い人を恨むのは楽でした。顔を見なくていいから」


 リナは私をまっすぐ見た。


「でも、今、目の前にいる」


 私は静かに頷いた。


「はい」


「だから困っています」


「困る」


「恨みにくくなるからです」


 胸の奥が、きゅっと痛んだ。


 それは許しではない。


 好意でもない。


 ただ、恨みの形が少し変わっただけ。


 けれど、その言葉は、昨日まで閉じていた扉が少しだけ動いた音に似ていた。


「恨んでくださって構いません」


 私が言うと、リナは少しだけ眉を寄せた。


「それは、優しい言葉ですか」


「いいえ」


 私は首を振った。


「たぶん、私が言って楽になりたい言葉です」


 リナは黙った。


 私は続けた。


「恨んでいい、と私が許可するのはおかしい。あなたの怒りは、私が許すものではありません」


「では、なぜ言ったのですか」


「間違えました」


 口に出して、少し恥ずかしかった。


 でも、言い直すしかない。


「すみません。今の言葉は取り消します」


 ユリスが、壁際でほんの少し顔を上げた。


 リナも私を見ている。


「あなたが私をどう思うかは、あなたのものです。私はそれを命じたり、許したりできません」


 リナは長い間、黙っていた。


 やがて、小さく息を吐いた。


「女伯様は、変わりましたか」


 その問いは危険だった。


 エレノア様と玲奈。


 別人格。


 でも、ここでそれは言えない。


 外から見れば、私はエレノア・フォン・ヴァルツェンだ。


 なら、女伯として答えるしかない。


「変わろうとしています」


 私は言った。


「変わったと言い切れるほど、まだ何もできていません」


「そうですか」


「はい」


「では、一つ聞いてください」


 リナの声が、少し低くなった。


「はい」


「ニナは、ラッケ草の匂いが嫌いでした」


 予想していなかった言葉だった。


「塗るとよくなるのに、臭いと言って逃げました。母が追いかけて、私が押さえて、ニナが泣いて、最後には笑って」


 リナの目が、少しだけ遠くなる。


「その匂いが、家に残っています。今でも。草束を見ると、ニナが泣いて逃げる声が聞こえる気がします」


 私は黙って聞いた。


「だから、母が草を捨てられないことも分かる。でも、私は見るのがつらい。村に必要だと分かっていても、つらい」


 ラッケ草は、薬だ。


 毒でもある。


 誇りでもあり、傷でもある。


 そして、匂いでもある。


 記録には残りにくい、生活の中の記憶。


「それも、記録に残しますか」


 リナが尋ねた。


 私は少し考えた。


「業務記録には、残しません」


「なぜ」


「それは、制度のための記録ではないからです」


「では、忘れるのですか」


「忘れません」


 私は言った。


「私が覚えておきます」


「女伯様が?」


「はい」


「信用できるのですか」


「今は、できないと思います」


 リナは少しだけ目を伏せた。


「正直ですね」


「取り繕うには、遅すぎます」


 その言葉に、リナは初めて、ほんのわずかに口元を動かした。


 笑ったのではない。


 でも、怒りだけではなかった。


「では、覚えておいてください」


 リナは言った。


「ニナは、ラッケ草の匂いが嫌いでした」


「はい」


「でも、塗った後、手が痛くなくなると、母に抱きつきました」


 私は、息を吸った。


 その光景が、見えた気がした。


 小さな子供。


 ひび割れた手。


 苦い匂い。


 泣きながら逃げて、最後には祖母に抱きつく。


 それは、被害報告には残らないニナだった。


「覚えておきます」


 私は言った。


 リナは頷かなかった。


 ただ、立ち上がった。


「今日は、これだけです」


「話してくださって、ありがとうございます」


「礼は要りません」


「はい」


「母の知識を使うなら、母に聞いてください。城館で勝手に直さないでください」


「約束します」


「約束は、紙より軽いです」


「では、札にします」


 リナは一瞬、目を丸くした。


 私も、自分で言って少し驚いた。


 でも、続けた。


「村用の札は、メルカ殿と採取人に確認してもらいます。薬草庫用の帳簿とは分けます。城館で勝手に直したものは、村用にはしません」


 リナはしばらく私を見た。


「それなら、少しはましです」


 少しはまし。


 この村の評価は、基本的に辛い。


 でも、十分だった。


 リナが部屋を出ていくと、私はしばらく動けなかった。


 ユリスも、すぐにはペンを取らなかった。


「女伯様」


「はい」


「どこまで記録しますか」


 私は目を閉じた。


 ラッケ草の匂いが嫌いだったニナ。


 塗った後、痛くなくなるとメルカ婆に抱きついたニナ。


 それは業務記録に書くべきではない。


 でも、忘れてはいけない。


「制度に関わる部分だけを」


 私は言った。


「メルカ殿の知識を村用の札に反映する時、村側確認なしに城館で改変しないこと。薬草が生活の記憶と結びついているため、扱いには配慮が必要であること」


「承知しました」


「ニナの話は」


 言いかけて、止める。


「私が覚えます」


 ユリスは静かに頷いた。


 その日の夕方、山へ行った者たちが戻ってきた。


 先に見えたのはガルドだった。


 次に、セリア。


 外套の裾に雪をつけ、頬を赤くしている。


 その後ろに、メルカ婆と若い採取人たち。


 メルカ婆は疲れているように見えたが、目は鋭かった。


「札は」


 私が尋ねると、セリアが木札を差し出した。


 端が少し濡れ、角が折れている。


「破れませんでした」


 セリアは言った。


「ただし、直しは必要です」


 メルカ婆が鼻を鳴らした。


「煙三本はよかった。足跡の絵はまだ甘い。昼の沈みをもう少し太くしな」


「若い採取人にも通じましたか」


「一人は通じた。一人は小さな芽を採ろうとした」


「止まる手の絵が弱かったのですね」


 セリアが言う。


「もっと大きくします」


 メルカ婆は頷いた。


「それと、根を残す絵はよかった。あれは若い衆にも分かった」


 私は少しだけ息を吐いた。


 山で破れなかった。


 完全ではない。


 でも、使える形に近づいている。


「採取量は」


 ユリスが聞きかけ、私が視線で止めた。


 まだだ。


 今はまだ、量の話をする段階ではない。


 メルカ婆はそれに気づいたのか、ちらりと私を見た。


 何も言わなかった。


 けれど、昨日ほど冷たくはなかった。


 その夜、私は村長宅の一室で、私的業務記録を開いた。


 山で札を確かめたこと。


 採取量の協議は、まだ行わないこと。


 リナ殿と会い、ラッケ草の扱いについて話を聞いたこと。


 今日あったことを、いつも通り記録した。


 けれど、ニナの思い出だけは書かなかった。


 ラッケ草の匂いが嫌いだったこと。


 塗られるのを嫌がって逃げたこと。


 それでも、手の痛みが引くとメルカ婆に抱きついたこと。


 それは、業務記録に入れるものではないと思った。


 制度のためではなく、リナ殿が私に預けた記憶だったから。


 私は最後に、一行だけ追記した。


 記録しないことで、守るべきものもある。


 書いた後、しばらくその一文を見つめた。


 紙に残すもの。


 札にするもの。


 胸に置くもの。


 その違いを、私はこの村で学び始めている。


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