第25話 二つの札
朝一番に作った草案は、見事に失敗だった。
いや、正確に言えば、薬草庫の帳簿としては悪くなかった。
セリアの確認項目は細かく、禁忌も明確で、使用量も整理されている。
ユリスの字は読みやすく、欄も分かれていた。
採取時期。
乾燥方法。
油練りの比率。
外用可能な症状。
使用禁止の状態。
内服禁止の理由。
薬草庫で扱う記録としては、かなり整っている。
ただ、それを村用の札としてメルカ婆に見せた瞬間、彼女はしばらく黙って眺め、それから短く言った。
「これは、山で使う札じゃない」
炉の火が、小さく鳴った。
私は、思わず姿勢を正した。
「どこが悪いでしょうか」
「山で読めない」
メルカ婆は草案を指先で叩いた。
「字が難しいって話じゃないよ。読めたところで、手が動かないんだ」
「手が」
「そうだよ。山で見る札なら、見た瞬間に、採るか、残すか、干すかが分からなきゃならない。これは読まないと分からない。読んで、考えて、城館の言葉に直して、それから山を見る。そんな札は山では使えない」
私は紙へ視線を落とした。
採取時期。
雪解け直前。朝に踏んだ雪が昼に親指幅ほど沈み、夜に再び締まる時期。
乾燥。
炉上不可。微煙環境で吊り干し。葉裏の白毛を保持。
油練り。
冬用、春先用で油脂比率を変更。
確かに、正しい。
けれど、山で草を採る人の手にはつながらない。
これは薬草庫の言葉だ。
山で使う札ではない。
「昨日、あなたが話してくれた言葉とは違いますね」
私が言うと、メルカ婆は鼻を鳴らした。
「違うね。山では『微煙環境』なんて言わない。煙が三本くらい流れる場所、と言う」
ユリスが小さく「煙三本」と呟いた。
「そうだよ。煙が五本なら多い。炉の真上なら乾きすぎる。煙が見えない場所なら弱い。山の者は、そういう見方をする」
メルカ婆は草案を私たちへ押し戻した。
「帳簿ならそれでいい。でも、村で使う札なら、見たら手が思い出す形にしな」
見れば、手が思い出す。
その言葉は、すとんと胸に落ちた。
灰麦粥用粉の札も、そうだった。
鍋の絵。
椀の水線。
袋の角を切る点。
読ませるのではなく、動かすための札。
ラッケ草にも、それが必要なのだ。
「絵を入れましょう」
私は言った。
「また絵ですか」
ユリスが、少し遠い目をした。
「また絵です」
もう諦めてほしい。
この領地の実務は、最終的に絵札へ向かう運命なのだ。
「メルカ殿、村で使うなら、どの項目が必要ですか」
「山へ持つ札なら、三つだ」
メルカ婆は指を三本立てた。
「いつ採るか。どれを採るか。どう干すか」
「使い方は」
「家に戻ってからでいい。山で見る札と、家で見る札は分ける」
セリアがすぐに頷いた。
「採取札と加工札を分けるべきです」
「さらに薬草庫用帳簿も別」
ユリスが書き込む。
「三種類になりますね」
「増やしすぎると迷います」
私は言った。
「でも、混ぜると使えない」
セリアが返す。
その通りだった。
印を増やせば迷う。
けれど、違う場面の手順を一枚にまとめても迷う。
大事なのは、数を減らすことではなく、使う場面を分けることだ。
「採取札は、山へ持つもの」
私は確認する。
「加工札は、村の作業小屋や家で見るもの」
「薬草庫帳簿は、城館で照合するもの」
ユリスが続けた。
メルカ婆は顎を引いた。
「それなら、まだましだね」
まだまし。
この人の評価としては、たぶんかなり上等なのだろう。
それから私たちは、村用の採取札を作り直した。
まず、文字を減らした。
雪解け直前、という言葉は消した。
代わりに、三つの絵を描く。
朝、雪の上に足跡が浅くつく絵。
昼、同じ足跡が少し沈む絵。
夜、足跡の縁が凍って固まる絵。
横に短く書く。
朝かたく、昼しずみ、夜しめる。
メルカ婆はそれを見て、少しだけ目を細めた。
「悪くない」
ユリスが、ほっと息を吐く。
「ただ、昼しずみ、だけでは駄目だ」
「なぜですか」
「沈みすぎたら遅い。足首まで沈むなら、もう水を吸いすぎてる」
絵を直す。
足跡の沈み具合を、指一本分にする。
ユリスが慎重に線を引く。
「これは」
メルカ婆が覗き込む。
「指が細い」
ユリスの顔が固まった。
「成人の親指幅を想定しています」
「絵がそう見えない」
セリアが紙を受け取り、無言で線を太くした。
「これで」
「少しましだね」
ユリスが少しだけ遠くを見る。
がんばれ、ユリス。
表と札の道は険しい。
次に、どれを採るか。
葉の裏に白い毛が残っているもの。
茎が赤くなりすぎていないもの。
根を抜かないこと。
若すぎる葉を残すこと。
これも絵にする。
葉の裏をめくる手。
根を残して切る小刀。
赤くなりすぎた茎に斜線。
小さな芽には丸ではなく、手を止める印。
「小さな芽に丸をつけると、良いものだと思って採る」
メルカ婆が指摘した。
「では、手を開いて止める絵に」
「それなら分かる」
絵は難しい。
可愛く描けばいいわけではない。
むしろ、可愛さはいらない。
間違えないこと。
見た瞬間に、手が止まること。
それが大事だ。
最後に、どう干すか。
炉の真上に吊るした草束に大きな斜線。
煙が少し流れる壁際に吊るした草束に丸。
葉を強く揉んで白い毛が落ちる絵に斜線。
これも、メルカ婆が何度も直した。
「煙は少しだ。煙だらけに描くんじゃない」
「少しの煙を絵で表すのが難しいですね」
「なら、煙を三本にしな。五本は多い」
煙の本数まで指定が入った。
ユリスは真剣に三本の煙を描いている。
私はその横顔を見て、少しだけ胸が温かくなった。
王都でなら、きっとこれは笑われる。
煙の線が三本か五本か。
そんな細かいことを、と。
けれど、ここでは違う。
三本と五本で、乾き方が変わる。
効き方が変わる。
薬になるか、使えない草になるかが変わる。
地味な線一本の先に、人の手がある。
「加工札は、今日中には無理ですね」
ユリスが言った。
紙の束を見ながら、少し疲れている。
「今日は採取札までにしましょう」
私が言うと、セリアも頷いた。
「油練りは試作が必要です。メルカ殿の方法と薬草庫の方法を、同じ材料で比較します」
「比べるのかい」
メルカ婆がセリアを見る。
「当然です」
「わしのやり方が間違っているとでも」
「間違っているか、合っているかを確かめます。薬草庫のやり方も同じです」
メルカ婆は、しばらくセリアを見ていた。
そして、ふんと鼻を鳴らす。
「そこまで言うなら、見てやる」
これは、たぶん前進だ。
セリアも同じように感じたのか、わずかに顎を引いた。
昼前、採取札の最初の草案ができた。
紙は大きくない。
山へ持っていけるよう、木札に貼る前提だ。
上に大きく、ラッケ草、と書く。
その下に三つの区分。
採る時。
採る葉。
干す場所。
文字は少ない。
絵は太い。
煙は三本。
芽には止まる手。
根は残す。
葉裏の白毛は落とさない。
私はその札を見て、昨日の草案とはまるで違うと思った。
整ってはいない。
美しくもない。
けれど、使う人の手が見える。
「メルカ殿」
私は言った。
「この札を、村の採取人にも見てもらえますか」
「まだ早い」
「どこが」
「これは、わしとあんたらの札だ」
メルカ婆は言った。
「若い衆に見せるなら、明日、山へ持っていく」
「山へ?」
「紙の上で分かっても、山で分からなければ意味がない」
私は一瞬、返事に詰まった。
明日、山へ。
つまり、実地確認。
理屈としては正しい。
でも、私は反射的にガルドの顔を思い出した。
山道。
雪。
危険。
「女伯が行く必要はない」
メルカ婆が言った。
見透かされたようだった。
「でも、聞き取りのためには」
「山を知らない女伯が、山で足を取られたら邪魔だ」
正論だった。
かなり容赦のない正論だった。
セリアが小さく頷いている。
頷かないでほしい。
いや、頷くべきなのだろうけど。
「では、誰が」
「わしと、そこの薬草庫の女。それから、村の若い衆を二人。城館からは山道に慣れた者を一人つけな」
「ガルドですね」
「猟師道を知ってるなら、それでいい」
「ユリスは」
「転ぶだろう」
ユリスが何とも言えない顔をした。
「……否定はできません」
「私は」
言いかけると、メルカ婆が私を見た。
「あんたは村にいな」
「なぜですか」
「村で聞く話もある」
その言葉に、私は息を止めた。
「ニナの母親が、あんたに会うと言っている」
部屋の中が静かになった。
ニナの母親。
昨日は出てこなかった人。
メルカ婆の娘だろうか。
粥を運んできた女性の顔が浮かぶ。
硬い目。
何も言わずに椀を置いた手。
「会ってくれるのですか」
「会うと言っただけだ。許すとは言ってない」
「はい」
「それでも会うかい」
「会います」
メルカ婆は、私の顔をしばらく見ていた。
「なら、明日は二つに分かれる。山は薬草庫の女が見る。あんたは家で話を聞く」
「分かりました」
即答した。
正直、怖い。
メルカ婆の怒りは、山のように硬かった。
でも、母親の痛みは、たぶんもっと違う形をしている。
私はそれを受け止められるだろうか。
いや、受け止められるかどうかではない。
聞くと決めたのだ。
止めたままになっていた話の続きを。
「採取命令は」
メルカ婆が確認するように言った。
「まだ出しません」
「返済の話も」
「まだです」
「ふん」
メルカ婆は採取札を手に取り、炉の光にかざした。
「明日、山で破れるかどうか見る」
「破れる?」
「使えない札なら、山で破れる。紙も、言葉もね」
私は静かに頷いた。
「破れなければ」
「その時に考える」
それでも、十分だった。
その日の午後、村長宅へ戻ると、ユリスはぐったりしていた。
「煙三本の意味が、これほど重いとは思いませんでした」
「私もです」
「役所の文書では、微煙環境で済むのですが」
「山では使えないそうです」
「はい。痛感しました」
ユリスは深く息を吐いた。
けれど、その目はどこか明るい。
難しい仕事を前にして、疲れている。
でも、逃げようとしてはいない。
「女伯様」
「何ですか」
「村用の札と薬草庫用の帳簿を分ける考え方は、他にも使えますね」
「そうですね」
「税の説明にも使えるかもしれません。城館用の計算表と、村で読む札を分ける」
私は少し驚いた。
ユリスは、もう次の応用を考えている。
良い成長だ。
ただし、増えすぎる書類の未来が見える。
「まずはラッケ草を終えてからにしましょう」
「はい」
その夜、私は村長宅の一室で、私的業務記録を開いた。
今日決めたことを、いつも通り記録した。
村用の採取札と、薬草庫用の帳簿を分けること。
採取札は、山で手が思い出す形にすること。
明日、札を山で確かめること。
そして、私は村に残り、ニナの母親と会うこと。
そこまで書いて、ペンを止めた。
ラッケ草の札は、少しずつ形になっている。
でも、人の痛みは札にはできない。
私は最後に、一行だけ加えた。
まだ札にできない痛みは、急いでまとめないこと。
その一行を書いた瞬間、胸の奥が少し重くなった。
明日、私はニナの母親に会う。
どんな言葉が来ても、不思議ではない。
冷血伯。
人殺し。
紙の上で人を裁く女。
私は怖い。
正直に言えば、逃げたい。
でも、ここで逃げたら、また戻りきれないままになる。
窓の外で、村の夜が深くなっていく。
明日は、山の札が試される。
そして私は、紙に閉じ込められなかった声を聞く。




