第24話 山の言葉を聞く
翌朝、ラッケ村は白い息の中にあった。
夜の冷えで雪は硬く締まり、村長宅の戸を開けると、外の空気が頬を刺した。
煙突から上がる煙は細く、真っ直ぐではない。
山から吹き下ろす風に押されて、少し斜めに流れている。
村の朝は、城館より早い。
井戸の周りにはもう人影があり、家畜小屋の前では若い男が凍った桶を割っていた。
私が外へ出ると、何人かがこちらを見た。
昨日と同じ視線。
警戒。
沈黙。
ただ、その中にほんの少しだけ違うものが混じっていた。
私たちが持ってきた薪は、昨夜メルカ婆の家で火になった。
それが弔いになったかは分からない。
でも、湿った薪ではなかった。
それだけは、村の中で伝わったのかもしれない。
「女伯様」
セリアが厚手の外套を着込み、薬草箱を抱えて現れた。
今日は、昨日よりもさらに顔が厳しい。
いや、いつも厳しいけれど、薬草の話を聞く日の厳しさは格が違う。
「用意は」
「できています」
セリアは短く答えた。
薬草箱の中には、薬草庫で使っているラッケ草の油練り、乾燥葉、記録用の紙、細い木札、そして小さな壺が入っている。
ユリスも同行している。
本来なら城館で記録を整理する側だが、今回は現地で聞いた言葉を逃さないために連れてきた。
彼は昨夜から少し緊張している。
山の薬草と村の怒りを同時に相手にするのだから、無理もない。
「記録は、私とセリア殿で分けます」
ユリスが言った。
「私は聞き取り内容と発言者を。セリア殿は薬草の扱いを」
「お願いします」
「ただ」
ユリスは少し言いにくそうに続けた。
「村の言葉を、どこまでそのまま残すべきか」
「意味を変えない範囲で、できるだけそのまま」
私は答えた。
「こちらの言葉に直しすぎると、また山の言葉が消えます」
ユリスは静かに頷いた。
「承知しました」
メルカ婆の家へ向かうと、戸は開いていた。
招かれている、というほど柔らかいものではない。
ただ、閉め出されてはいない。
それだけだった。
「遅い」
中から声がした。
まだ約束の時刻より前である。
けれど、そこを言い返すほど私は愚かではない。
「お待たせしました」
そう答えて入ると、メルカ婆は炉のそばに座っていた。
昨日と同じ椅子。
同じ白髪。
同じ鋭い目。
ただ、炉の火は昨日より少し強かった。
私たちが持ってきた薪の一部が、脇に置かれている。
割られた断面は乾いていた。
「乾いていた」
メルカ婆が言った。
「はい」
「そこだけは褒めてやる」
「ありがとうございます」
「勘違いするんじゃないよ」
「しません」
セリアが薬草箱を置いた。
メルカ婆の目が、すぐに箱へ向かう。
薬草を扱う者の目だ。
怒りだけでなく、知識を見る目。
それを見て、私は少しだけ息を整えた。
「今日は、ラッケ草の外用法について聞きに来ました」
「聞いてどうする」
「薬草庫の正式記録に入れます」
「紙の中に閉じ込めるんじゃないだろうね」
「使うために残します」
私が答えると、メルカ婆は鼻を鳴らした。
「なら、まず城館のやり方を見せな」
セリアが無言で壺を開けた。
中には、ラッケ草を油で練った軟膏が入っている。
濃い緑と灰色の間のような色で、少し苦い匂いがした。
メルカ婆はそれを指先にほんの少し取り、鼻先へ近づけた。
匂いを嗅ぐ。
指の腹で伸ばす。
爪の端に薄くつけて、光へ透かす。
その動きは、年老いた人のものではなかった。
迷いがない。
「悪くない」
メルカ婆は言った。
セリアの眉が、かすかに動いた。
「ただ、硬い」
「硬い?」
「冬の巡回兵にはよかろうよ。男の手は厚い。だが、子供のひび割れには強すぎる。産後の女の手にもね」
「産後の女には内服禁止ですが、外用は」
「手に塗るくらいなら使える。ただし薄く。火のそばで温めすぎた油は駄目だ」
セリアがすぐに書き始めた。
ユリスも手を動かす。
メルカ婆はそれを横目で見て、ふんと鼻を鳴らした。
「書くのが早いね」
「逃すと困りますので」
セリアが答える。
「間違えたら?」
「確認します」
「ならいい」
短いやり取りだった。
けれど、昨日より少しだけ会話になっている。
「ラッケ草は」
メルカ婆は、壁に吊るされた草束を一本取った。
乾いた葉は、細長く、裏側に白い毛がある。
「雪が緩み始める前に見る。早すぎれば痩せている。遅すぎれば水を吸いすぎる」
「採取時期は、雪解け直前」
セリアが言うと、メルカ婆が鋭く見た。
「直前、なんて言葉じゃ足りない。朝に踏んだ雪が昼に少しだけ沈む頃だ。夜にまた締まるうちは、まだいい。昼も夜も沈むようになったら遅い」
セリアの手が止まった。
私もユリスも、少し黙った。
雪解け直前。
それでは足りない。
山の言葉は、もっと具体的だった。
朝に踏んだ雪。
昼に沈む雪。
夜に締まる雪。
その違いを知っている人だけが、採る時期を見極める。
「……記録します」
セリアが言った。
「採取時期。朝に踏んだ雪が、昼に指一本分沈む頃。夜に再び締まるうち」
「指一本とは誰の指だい」
メルカ婆が言う。
セリアは一瞬だけ黙った。
「……成人の親指幅で確認します」
「ならよし」
強い。
メルカ婆も、セリアも、薬草の前では妥協しない。
私はそのやり取りを見ながら、胸の奥に小さな痛みを感じていた。
これだ。
これが、二年前に記録へ戻せなかったものだ。
ただの迷信ではない。
数字だけでもない。
山の雪と、指の幅と、匂いと、油の硬さ。
そういうものが、ラッケ草の知識だった。
「乾燥は」
セリアが尋ねる。
「炉の上は駄目だ」
「早く乾きますが」
「早く乾くから駄目なんだよ。葉が割れる。裏の白い毛が落ちたら効きが落ちる」
「吊るす場所は」
「煙が少し当たるところ。だが燻しすぎるな。肉じゃない」
ユリスが、真面目な顔で「肉ではない」と書きかけた。
私は慌てて小さく首を横に振った。
そこは書かなくていい。
いや、意味としては大事なのかもしれないけれど、正式記録に「肉ではない」は少し強い。
ユリスは咳払いをして、書き直した。
こうして聞いていくと、ラッケ草の扱いは思ったより細かかった。
葉は摘む時に根を抜かない。
根を抜くと翌年減る。
乾いた葉は、油に入れる前に手で揉みすぎない。
粉にすると強く出すぎる。
油は獣脂だけでは重く、植物油だけでは弱い。
混ぜる。
冬用と春先用で、油の割合を変える。
傷が開いて血が出ているところには塗らない。
黒く変色した凍傷にも塗らない。
その場合は、薬草庫か施療院へ送る。
私は、途中から何度も息を呑んだ。
これは、単なる村の言い伝えではない。
長い冬の中で、失敗しながら残った技術だ。
もちろん、危険もある。
メルカ婆たちは、内服の危険を十分に分けられていなかった。
助かった例があるから、使ってしまった。
その結果、ニナは死んだ。
でも、だからといって、ラッケ村の知識すべてを危険物として扱うのは違う。
そこを、エレノア様は二年前に戻しきれなかった。
そして今、私たちは聞いている。
「内服について」
セリアが言った時、部屋の空気が変わった。
メルカ婆の顔から、わずかに表情が消える。
「飲ませるなと言いたいんだろう」
「はい」
セリアは逃げなかった。
「ラッケ草の内服は、今後も禁止です」
「分かっている」
メルカ婆の声が低くなった。
「耳にたこができるほど聞いた」
「記録に理由を残します」
セリアが言った。
「ただ禁じるのではなく、なぜ禁じるのかを」
メルカ婆は黙った。
「熱が下がったように見えることがあります。汗をかく。体が冷える。ですが、それは治ったのではありません。弱った者には危険です」
「……ニナは」
メルカ婆が小さく言った。
「汗をかいた」
誰も動かなかった。
「熱が下がったと思った。手も少し冷たくなって、息も静かになった。楽になったんだと思った」
メルカ婆の手が、膝の布を掴む。
「違った」
その声は、昨日よりも小さかった。
私は口を開きかけて、閉じた。
ここで、そうです、とは言えない。
違います、とも言えない。
慰めも、説明も、まだ早い。
セリアが静かに言った。
「その記録も、残します」
メルカ婆が顔を上げる。
「何を」
「汗をかき、手足が冷え、呼吸が静かになった時、それを回復と誤らないこと。危険な兆候として記録します」
メルカ婆は、しばらく何も言わなかった。
やがて、しわだらけの指で炉の縁を叩いた。
「……それなら、書け」
ユリスのペンが動く。
私はその音を聞いていた。
紙に閉じ込めるのではない。
次に同じ間違いをしないために書く。
その違いは、たぶん細い。
けれど、確かにある。
「女伯様」
それまで私にはほとんど目を向けていなかったメルカ婆が、不意に呼んだ。
「はい」
「あんたは、今もラッケ草を飲ませるなと言うんだね」
「はい」
「ニナが死んだからかい」
「ニナの死も、理由の一つです」
「他には」
「次に誰かを死なせないためです」
メルカ婆の目が鋭くなる。
私は続けた。
「でも、それだけでは足りませんでした。飲ませるな、とだけ言えば、あなた方の知識も誇りも、危険なものとして切り捨てたように聞こえる。実際、そう聞こえた」
「そうだよ」
「だから、外に塗る使い方を記録します。あなたの言葉で。薬草庫の確認と合わせて」
「わしの言葉で?」
「はい」
「城館の言葉に直すんじゃなく?」
私は少し考えた。
「両方残します」
メルカ婆が眉を上げた。
「村で使うための言葉と、薬草庫で照合するための言葉。片方だけでは、また伝わりません」
セリアがこちらを見た。
反対するかと思った。
けれど、セリアは静かに頷いた。
「必要です。村用の札と、薬草庫用の帳簿は分けるべきです」
「また札か」
私は内心で少しだけ笑いそうになった。
灰麦粥用粉でも、薬草袋でも、結局そこに戻る。
分かる形にする。
使う人に届く形にする。
文字を読める人だけで作らない。
今度は、山の言葉と城館の言葉を混ぜずに残す。
「メルカ殿」
私は言った。
「村用の札を作る時、あなたに確認してもらえますか」
「命令かい」
「お願いです」
「女伯がお願いねえ」
「命令にしたくありません」
メルカ婆は、しばらく私を見た。
「……見てやるだけだ」
「ありがとうございます」
「直すかどうかは、見てから決める」
「はい」
「気に入らなければ破る」
「できれば、破る前に理由を教えてください」
セリアが小さく咳をした。
笑いを堪えたのかもしれない。
いや、まさか。
セリアに限って。
でも、少しだけ部屋の空気が緩んだ。
完全な和解ではない。
許しでもない。
ただ、作業が始まった。
それだけで、昨日よりは進んでいる。
聞き取りは昼過ぎまで続いた。
途中、メルカ婆の娘らしい女性が薄い粥を運んできた。
私を見る目は硬かったが、椀は人数分あった。
セリアは粥の中身を一瞬確認し、メルカ婆に睨まれた。
「毒は入ってないよ」
「薬草が入っていないか見ただけです」
「同じことだ」
「違います」
この二人、相性が悪いのか良いのか分からない。
けれど、薬草の話になると噛み合う。
そこは確かだった。
午後になり、私たちは一度村長宅へ戻った。
ユリスの手はインクで少し汚れている。
セリアは薬草箱の中に、メルカ婆から預かった乾燥葉を慎重にしまっていた。
「どう見ますか」
私はセリアに聞いた。
「ラッケ草の外用法は、記録に入れる価値があります」
セリアはすぐ答えた。
「ただし、メルカ婆の言葉をそのまま運用するのは危険です。村で分かる言葉と、薬草庫で確認できる基準を照合する必要があります」
「内服禁止は」
「継続です」
「はい」
「ただし、理由の記載を改めます。汗をかくこと、手足が冷えること、呼吸が静かになることを、回復ではなく危険の兆候として明記します」
私は頷いた。
「ユリス」
「はい」
「村用の札と、薬草庫用の帳簿を分けましょう。村用は、メルカ婆の言葉を残す。薬草庫用は、セリアの確認基準を入れる」
「承知しました」
「それから、ラッケ草を返済労役に入れる話は、まだ出しません」
ユリスが顔を上げる。
「まだですか」
「まだです」
私は言った。
「今日、知識を聞いたばかりです。すぐに採取量の話をすれば、やっぱり取りに来ただけだと思われます」
「では、いつ」
「外用法の草案を作り、メルカ婆に確認してもらってからです。その上で、村側から納入可能な範囲を聞く」
「命令ではなく」
「協議として」
ユリスは少し考え込んだ。
「返済案全体の調整が必要になります」
「必要なら調整します」
「はい」
その返事には、以前ほどの戸惑いはなかった。
ユリスも分かってきている。
表は現実を押し込むためのものではない。
現実に合わせて、直すためのものだ。
その夜、村長宅の一室で、私は私的業務記録を開いた。
ラッケ草聞き取り一日目。
メルカより、外用法の詳細を聴取。
採取時期。
朝に踏んだ雪が昼に沈み、夜に再び締まる頃。
乾燥。
炉上不可。煙は少量。裏の白毛を落とさないこと。
油練り。
冬用、春先用で比率を変える必要あり。
禁忌。
開いた傷、黒変した凍傷、深い裂傷には使用不可。薬草庫または施療院へ送る。
内服。
禁止継続。
汗、手足の冷え、呼吸低下を回復と誤らないこと。
村用札と薬草庫用帳簿を分ける。
メルカ確認後、運用案作成。
返済労役への組み込みは保留。
そこまで書いて、私はペンを止めた。
そして、最後に一行を加えた。
山の言葉を、城館の言葉で潰さないこと。
書いた後、しばらくその一行を見つめた。
王都では、善意が白い言葉にまとめられた。
ここでは、山の知識が危険という言葉にまとめられかけていた。
まとめることは、時に便利だ。
でも、便利な言葉は、手触りを消す。
灰麦の粉も。
薪の乾きも。
ラッケ草の裏の白い毛も。
そこに残っている人の手を、消してしまう。
明日、草案を作る。
それをメルカ婆に見せる。
破られるかもしれない。
怒鳴られるかもしれない。
それでも、今日よりは少し進んだ。
許しではない。
和解でもない。
ただ、山の言葉を一つ、聞いた。
それだけでも、止まっていた話は動き始めている。




