第23話 乾いた薪を持って
ラッケ村へ向かう朝、城館の中庭には、冬道用の橇馬車が用意されていた。
車輪ではなく、幅の広い橇脚を履かせた箱馬車。
窓は小さく、扉には厚い毛織の覆いが掛けられている。
後ろには荷橇が一台つながれ、薬草を湿気から守るための木箱と、よく乾いた薪の束が積まれていた。
私は、その薪をしばらく見つめていた。
花ではなく、薪。
ラッケ村では、冬に子を亡くした家へ花は持っていかない。
花は春のもの。
冬に必要なのは、火。
エレノア様の言葉が、胸の奥に残っている。
「女伯様」
セリアが、木箱の蓋を確認しながら言った。
「湿った薪ではありませんね」
「確認済みです」
「念のため、一本割っても?」
「そこまで疑いますか」
「弔いに使うなら、当然です」
セリアは本気だった。
私はオルドを見る。
オルドは静かに頷いた。
「昨夜、炉の前で乾燥具合を確認しております。問題ございません」
「なら結構です」
セリアはそこでようやく引き下がった。
薬草庫の管理人は、薬草だけでなく薪にも厳しいらしい。
いや、今回に限っては正しい。
たぶん、私が何気なく持っていったもの一つで、村側の受け取り方は変わる。
湿った薪なら、形だけの弔いになる。
乾いた薪なら、少なくとも火になる。
「女伯様、ラッケ村までは今日中には着きません」
ガルドが橇馬車の前で言った。
「途中の番小屋で一泊します。雪が締まっていれば明日の昼前。緩めば、午後になります」
「それほど遠いのですね」
「距離だけなら、そこまでではありません。ただ、山道が悪い。冬は遠くなります」
冬は遠くなる。
その言葉に、私は少しだけ納得した。
地図の上では近くても、雪が積もれば届きにくくなる。
領内にあっても、すぐ見に行ける場所ばかりではない。
だからこそ、二年前に一度訪れたまま、戻りきれなかった話が残っている。
「旧猟師道は使いません。南の斜面も避けます。遠回りになりますが、それが一番安全です」
「分かりました」
「それと、村に着いてからですが」
ガルドは少し言葉を選んだ。
「出迎えは冷えると思います」
「雪が?」
「空気が、です」
私は小さく頷いた。
ラッケ村は、私を歓迎しない。
正確には、エレノア様を。
三年前にラッケ草の内服を禁じた領主。
二年前に村へ来て、禁令を撤回しなかった女伯。
そして今、薬草庫の在庫が減った頃に、また村へ向かう領主。
こちらがどれだけ「聞き取りのため」と言っても、都合よく薬草を求めに来たと思われても仕方がない。
「採取命令ではありません」
私は言った。
「今日は、話を聞きに行きます」
「はい」
ガルドは短く答えた。
けれど、その目は甘くなかった。
「ただ、聞くにも順番があります。村長より先にメルカ婆の家へ行くなら、村長の顔を潰します。村長だけ先に会えば、メルカ婆は城館がまた村の上から話を決めたと思うでしょう」
「難しいですね」
「難しいです」
ガルドは当然のように言った。
この領地、実務が全部難しい。
でも、それが領地を治めるということなのだろう。
机の上だけでは、人は動かない。
村にも、順番がある。
誇りがある。
顔がある。
「では、村長に挨拶した後、すぐにメルカ婆の家へ」
「それがよろしいかと」
「薬草の話は」
「最初から出さない方がよろしいでしょう」
横からセリアが言った。
「先にニナのことです」
ニナ。
五歳。
被害報告の紙に書かれた名前。
けれど、ラッケ村では紙の中の名前ではない。
誰かの孫。
誰かの子。
冬の中で、確かに生きていた子。
「分かっています」
私はそう答えた。
橇馬車が動き出す。
城館の門を抜ける時、私は振り返らなかった。
王都には戻らない。
そう決めた。
けれど、ヴァルツェンの中にある傷へは向かう。
逃げないために。
正しさを証明するためではなく、止めたままになった話を、もう一度聞くために。
山道は、白かった。
踏み固められた道の端には、まだ厚い雪が残っている。
木々の枝には氷がつき、時折、馬の足音に驚いた鳥が飛び立った。
セリアはほとんど喋らなかった。
ガルドは前方を見ている。
私は橇馬車の中で手を重ね、流れていく雪景色を見ていた。
時々、身体の奥から断片が浮かぶ。
二年前の記憶。
同じような山道。
冷たい風。
馬の息。
村の広場。
白い髪の老婆。
お前たちは山を知らない。
その声が、耳の奥に残っている。
私は小さく息を吐いた。
今の私は玲奈だ。
けれど、この身体はエレノア様のものだ。
村の人にとって、ここへ来るのはエレノア様だ。
玲奈としての言い訳は通じない。
知らなかった。
覚えていない。
私は私ではない。
そんなことは言えない。
だから、記録を見る。
証言を聞く。
エレノア様に問いかける。
そして、女伯として立つ。
それしかない。
その日は、山中の番小屋で夜を越した。
番小屋といっても、石壁と丸太を組み合わせただけの小さな建物で、寝台は硬く、炉は低く、隙間風は容赦がなかった。
けれど、外で夜を明かすよりはずっといい。
ガルドは馬と橇脚の状態を確かめ、セリアは薬草箱の湿り気を確認し、私は薄い灯りの下で先触れの写しをもう一度読んだ。
採取命令ではない。
ラッケ草の内服禁止命令の再確認。
外用利用の整理。
聞き取りのための訪問希望。
何度読んでも、言葉は硬い。
けれど、硬くしなければならない部分もある。
曖昧にしてはいけない。
内服禁止は撤回しない。
でも、聞く。
その両方を、明日、私は言わなければならない。
翌日、空は重かった。
雪は降っていないが、雲が低い。
山道の雪は夜の冷えで締まり、橇馬車は昨日よりいくらか滑らかに進んだ。
昼を少し過ぎた頃、ラッケ村が見えた。
山の斜面に寄り添うような、小さな村だった。
家々の屋根には雪が残り、煙突から細い煙が上がっている。
畑はまだ白い。
村の端には、低い石垣と、乾いた枝を束ねた柵があった。
橇馬車が近づくと、数人の村人がこちらを見た。
誰も声を上げない。
誰も頭を下げない。
ただ、見る。
冷たい視線。
警戒。
怒り。
それから、諦めに似たもの。
ガルドの言う通り、空気が冷えた。
村の中央に着くと、村長が出てきた。
灰色の髭を短く整えた、痩せた男だった。
「女伯様」
村長は深く頭を下げた。
礼は正しい。
けれど、歓迎ではない。
「急な訪問を受け入れてくれたこと、感謝します」
私は言った。
「本日は、採取命令のためではありません」
村長の肩が、わずかに動いた。
「承っております」
「ラッケ草の内服禁止命令と、外用利用について、改めて記録を整理したい。そのために話を聞きに来ました」
「……村としては、女伯様のご命令に従います」
それは、扉を閉じる言葉だった。
従います。
だから、それ以上は聞くな。
責めるな。
踏み込むな。
村長の背後にいる村人たちも、同じ顔をしていた。
私は、用意していた言葉を一度飲み込んだ。
先に言いすぎれば、また命令になる。
ここでは、急いではいけない。
「まず、メルカ殿に会いたい」
村長の顔がこわばった。
「メルカは、年を取っております」
「無理に呼び出すつもりはありません。こちらから伺います」
「女伯様が、あの者の家へ?」
「はい」
村長は明らかに困った顔をした。
けれど、拒むことはできない。
「……ご案内いたします」
「その前に」
私は荷橇を見た。
ガルドが黙って薪の束を下ろす。
よく乾いた薪。
軽い音を立てて、男の腕に渡る。
「ニナの家へ、持っていきたい」
その名を出した瞬間、村の空気が変わった。
誰かが息を呑んだ。
村長の目が、初めて私をまっすぐ見た。
「ニナの名を」
「記録で見ました」
私は言った。
「それだけでは足りないと思っています」
村長は黙った。
セリアも、何も言わない。
風が一つ、村の広場を抜けた。
「……こちらです」
村長は短く言った。
メルカ婆の家は、村の奥にあった。
低い屋根の、小さな家。
壁には乾いた草束が吊るされている。
入口のそばには、雪を払った石が置かれていた。
たぶん、腰掛けるためのものだ。
村長が戸を叩く。
「メルカ。女伯様が来られた」
しばらく返事はなかった。
やがて、中からしわがれた声がした。
「帰れ」
村長が顔をしかめる。
「メルカ」
「聞こえなかったのかい。帰れと言った」
その声に、私は二年前の記憶を思い出した。
白い髪。
杖。
怒り。
でも今、私は扉の前にいる。
戻りきれなかった話の続きを聞きに。
「メルカ殿」
私は扉の外で声をかけた。
「エレノア・フォン・ヴァルツェンです」
「知ってるよ」
中から返る声は鋭かった。
「その声も、その名も、忘れたことはない」
胸が痛んだ。
それでも、私は続けた。
「ニナのために、薪を持ってきました」
長い沈黙。
「花じゃなくてかい」
「はい」
「誰に聞いた」
「私の記録と、記憶に残っていました」
嘘ではない。
でも、全部ではない。
扉の向こうで、床がきしむ音がした。
ゆっくりと戸が開く。
白い髪の老婆が、そこに立っていた。
背は低い。
けれど、目はまっすぐだった。
年老いてなお、折れていない目。
この人が、メルカ婆。
ラッケ草の採取人。
ニナの祖母。
エレノア様を恨む人。
そして、ラッケ草を誰より知っている人。
「乾いてるんだろうね」
メルカ婆は薪を見て言った。
「確認済みです」
「湿った薪なら、叩き返すところだった」
「そのつもりで持ってきました」
セリアが後ろでわずかに眉を動かした。
言い方が少し挑発的だったかもしれない。
けれど、メルカ婆は鼻を鳴らしただけだった。
「入りな」
村長が驚いた顔をする。
メルカ婆は振り返らずに言った。
「薪だけ置いて帰られたら、余計腹が立つ」
私は小さく頭を下げた。
「失礼します」
家の中は、薬草の匂いがした。
乾いた草。
油。
煙。
壁には束ねた草が吊るされ、棚には小さな壺が並んでいる。
その中のいくつかを見て、セリアの目が細くなった。
たぶん、ラッケ草だ。
メルカ婆は炉のそばに座った。
私には向かいの椅子を示す。
その椅子は、低かった。
領主を座らせるための椅子ではない。
客を招くための椅子でもない。
たぶん、家族が使っていた椅子だ。
私はそこに座った。
視線が、メルカ婆より少し低くなる。
意図的かもしれない。
それでいいと思った。
今日は、上から命じるために来たのではない。
「それで」
メルカ婆が言った。
「今度は何を奪いに来た」
セリアが口を開きかけた。
私は手で制した。
「今日は、採取命令ではありません」
「なら、何だい」
「三年前の内服禁止命令と、二年前の巡察で残したままになったことについて、話を聞きに来ました」
「残したまま?」
メルカ婆の目が鋭くなる。
「お前さんが残したのは、禁令と、罰と、ニナの名前が書かれた紙だけだ」
「はい」
私は頷いた。
メルカ婆が少し眉を動かす。
「認めるのかい」
「内服を禁じたことは、撤回しません」
家の中の空気が張り詰めた。
私は続ける。
「ラッケ草を煎じて飲ませることは、危険です。特に幼児、産婦、衰弱した者には。そこは変えません」
「だったら何を聞きに来た」
「外に塗る使い方です」
メルカ婆の指が、膝の上で止まった。
「ラッケ草は、凍傷やひび割れには効く。薬草庫でも使っています。でも、薬草庫の帳簿には足りないものがある」
「何が」
「あなたの知識です」
メルカ婆は笑わなかった。
怒鳴りもしなかった。
ただ、じっと私を見た。
「二年前、私は外用分の納入を認めました。罰金も一部緩めました。でも、あなたの知っている採取時期、乾燥の具合、油に練る時の見極めを、正式な記録へ戻さなかった」
私は言葉を切った。
謝るなら、そこだ。
内服禁止ではない。
命を守るために止めたことではない。
止めた後に、正しい使い方を村へ返しきれなかったこと。
「その点について、私は足りませんでした」
メルカ婆の顔は変わらない。
でも、炉の火が小さく鳴った。
「謝りに来たのかい」
「謝罪だけで済ませに来たのではありません」
「便利な言い方だね」
「そう聞こえると思います」
私は頷いた。
「それでも、聞きに来ました。ラッケ草の外用法を、薬草庫の正式な記録に入れるために。あなたが話してくれるなら」
メルカ婆は、しばらく黙っていた。
長い沈黙だった。
家の外で、誰かが雪を踏む音がした。
村人たちが、遠巻きに見ているのだろう。
「ニナは」
メルカ婆がぽつりと言った。
「熱を出した」
私は何も言わなかった。
「息が熱くて、目も開けられなくて。あの子の母親は泣いていた。薬草師を呼ぶには、雪が深すぎた。だから、わしはラッケ草を煎じた」
しわだらけの手が、膝の上で握られる。
「昔は、それで助かった者もいた」
「はい」
「助かった者もいたんだ」
「はい」
「でも、ニナは死んだ」
その声は、怒鳴り声ではなかった。
乾いていた。
薪よりも、ずっと乾いていた。
「お前さんは、その後に紙を寄こした。飲ませるな。罰金。納入権を止める。まるで、わしらが毒を飲ませたみたいに」
私は唇を結んだ。
違う、と言いたくなった。
でも、それは今言うことではない。
「私は」
言葉を選ぶ。
「毒だと伝えたかったのではありません。危険な使い方を止めたかった」
「同じことだよ」
メルカ婆は低く言った。
「こっちには、同じに聞こえた」
その一言が、重かった。
文書の正しさ。
命令の必要性。
薬草学の理屈。
全部あっても、届いた言葉が違えば、傷は残る。
「今日、すぐに許してほしいとは思っていません」
私は言った。
「ラッケ草を、すぐに出してほしいとも言いません」
「じゃあ何をしろと」
「話してください」
私はメルカ婆を見た。
「ラッケ草のことを。ニナのことを。二年前、私が聞かなかったことを」
メルカ婆は、長い間、私を見ていた。
やがて、視線をセリアへ移す。
「そこの薬草庫の女」
「セリアです」
「お前は、聞いて書けるのかい」
「書けます。間違っていれば、確認します」
「生意気だね」
「薬草に関しては、遠慮しません」
メルカ婆は初めて、ほんの少し口元を歪めた。
笑った、というには硬すぎる。
でも、怒りだけではない表情だった。
「なら、明日だ」
メルカ婆は言った。
「今日はニナの火を入れる。持ってきた薪が本当に乾いてるか、見てからだ」
「はい」
「話すかどうかは、その後で決める」
「分かりました」
「許したわけじゃないよ」
「はい」
「ニナは戻らない」
「はい」
「草を紙の中に閉じ込めたら、今度こそ許さない」
その言葉に、私は深く頷いた。
「紙の中に閉じ込めるためではなく、使える形で残すために記録します」
「口では何とでも言える」
「はい」
メルカ婆は鼻を鳴らした。
「明日、山の話をする。聞ける耳があるならね」
その日、ラッケ村での最初の聞き取りは、そこで終わった。
許されたわけではない。
受け入れられたわけでもない。
ただ、扉は閉じられなかった。
それだけだった。
村長宅に戻る前、メルカ婆の家の煙突から、細い煙が上がるのを見た。
私たちが持ってきた薪が、火になっている。
弔いになったのかは分からない。
でも、少なくとも湿ってはいなかった。
その夜、宿として借りた村長宅の一室で、私は私的業務記録を開いた。
ラッケ村到着。
村長、礼は正しいが警戒強し。
メルカ、面会。
ニナのための乾いた薪を受領。
内服禁止は撤回せず。
外用法を正式記録へ入れるため、明日聞き取り予定。
許しは得ていない。
採取命令も出していない。
扉は、閉じられなかった。
そこまで書いて、私はペンを止めた。
薬草は、まだ手に入っていない。
村の信頼も、まだ戻っていない。
エレノア様の傷も、メルカ婆の怒りも、何一つ消えていない。
それでも、明日、山の話を聞けるかもしれない。
止めたままになっていた話は、ほんの少しだけ、先へ進んだ。
私は窓の外を見た。
ラッケ村の夜は暗い。
王都の灯りも、城館の灯りもない。
ただ、家々の煙突から、細く煙が上がっている。
花ではなく、薪。
祈りではなく、火。
この土地には、この土地の弔いがある。
なら、この土地の薬草にも、この土地の言葉があるはずだ。
私は明日の頁を一枚、空けておいた。
そこに何を書くことになるのか、まだ分からない。
でも、今度は空白のままにしない。
ニナの名前も。
メルカ婆の声も。
ラッケ草の匂いも。
紙の中に閉じ込めるのではなく。
誰かの手に戻せる形で、残すために。




