第22話 禁じた薬草
セリアは、薬草庫の匂いを連れてやって来た。
乾いた葉。
土。
煙で燻した棚板。
それから、少しだけ苦い匂い。
薬草庫の管理人であるセリアは、城館の者たちの中でも特に背が低い。けれど、執務室に入ってきた時の存在感は、たぶんユリスの書類束より重い。
小柄な身体に、暗い緑の上着。
髪は後ろで固く結ばれている。
目は細く、鋭い。
こちらが領主であることは理解しているが、薬草に関しては一歩も譲らない。
そういう顔だった。
「お呼びとのことで」
セリアは短く言った。
「ラッケ村の件です」
「でしょうね」
早い。
そして容赦がない。
私は机の上に、ユリスが集めた記録を広げていた。
薬草庫の古い持ち出し帳。
教会施療院の治療記録。
ラッケ村に出された命令書の写し。
それから、三年前の冬にまとめられた被害報告。
三年前。
紙に書かれた年数を見た時、私は少しだけ息を止めた。
断罪より、一年前。
エレノア様がまだ王太子殿下の婚約者として王都に立ち、けれどグランディール家の一員として、ヴァルツェンの実務にも手を伸ばしていた頃だ。
遠い領地の小さな村で起きたことが、王都の執務机に届き、そこで命令書になった。
その署名は、いつも通り美しい。
迷いなく、細く、冷たい。
けれど、私はもう知っている。
その冷たさの下に、何もなかったわけではないことを。
「まず確認します」
私は言った。
「ラッケ草は、凍傷やひび割れへの外用としては有効なのですね」
「はい」
セリアは即答した。
「乾燥させた葉を油で練り、薄く塗る。腫れと痛みを抑えるには効きます。猟師、木こり、冬の巡回兵には今でも必要です」
「今でも?」
「薬草庫では使っています」
私は目を瞬かせた。
「禁じたのでは」
「禁じたのは内服です」
セリアは机の上の命令書を指で叩いた。
紙がぱしりと鳴る。
「ただ、命令書の文面が強かった。ラッケ村の者には、ラッケ草そのものを城館が否定したように聞こえたでしょう」
ユリスが少し身じろぎした。
「命令書には、『当該薬草の内服使用を禁ずる』とあります。薬草そのものの使用禁止ではありません」
「字が読める者には、そうです」
セリアが言った。
ユリスが黙った。
セリアは続ける。
「ですが、村では口で伝わります。『城館がラッケ草を禁じた』。そうなれば、そこから先は変わります」
私は、胸の奥に重いものが落ちるのを感じた。
正確に書いたつもりでも、届く時には別の形になる。
文書は万能ではない。
書いたから伝わるわけではない。
王都報が実務を美談に変えたように、村の噂は命令を屈辱に変える。
「当時、村側への説明は」
私が聞くと、ユリスが記録をめくった。
「城館から代官補が派遣されています。命令書の読み上げ、罰則の説明、薬草納入権停止の警告」
「警告だけですか」
「記録上は」
ユリスの声が小さくなる。
私はセリアを見た。
「あなたは当時、薬草庫に?」
「いました。まだ副管理人でしたが」
「では、聞きます。説明は足りていましたか」
「足りていません」
即答だった。
容赦がない。
「ただし、止める必要はありました」
セリアは、そこもはっきり言った。
「ラッケ草は外に塗る薬です。煎じて飲めば、体の強い者なら多少腹を下す程度で済むこともあります。ですが、体力の落ちた者、産後の女、幼い子には危険です」
「被害は」
私は記録に目を落とした。
そこには、短い名前があった。
ニナ。
五歳。
高熱後、衰弱。
村内でラッケ草を煎じて服用。
翌朝、呼吸低下。
死亡。
たった数行だった。
たった数行で、一人の子供が紙の中に閉じ込められていた。
私は、指先が冷たくなるのを感じた。
「ニナ」
口に出すと、セリアの目が少しだけ動いた。
「覚えていますか」
「覚えています」
セリアの声は変わらなかった。
けれど、少し硬くなった。
「小さい子でした。冬でも裸足で走るような子で、ラッケ村の採取人の孫です」
「採取人の」
「メルカ婆の孫です」
メルカ。
その名を聞いた瞬間、また記憶の奥が揺れた。
白い髪の老婆。
枯れ枝のような手。
雪の上に残る足跡。
怒鳴り声。
お前たちは山を知らない。
紙の上で人を裁くな。
その光景は、王都の執務机ではない。
冷たい風。
山の匂い。
ラッケ村の広場。
きっと、別の記憶だ。
三年前の命令書ではなく、もっと後の。
「その後の巡察記録はありますか」
私は尋ねた。
「私がラッケ村へ入った時のものです」
セリアは一瞬だけ私を見た。
その目が、少し細くなる。
記憶を失っているのか、と疑われたのかもしれない。
けれど、セリアは余計なことを聞かなかった。
「ございます。断罪後、女伯様がヴァルツェンへ入られてすぐの巡察です。ラッケ村にも立ち寄られました」
二年前。
エレノア様が王都から切り離され、ヴァルツェンへ正式に入った後。
冷血伯として噂されながら、それでも領地の状態を自分の目で見ようとした頃だ。
あの記憶は、その時のものなのだろう。
「その時、内服禁止は」
「撤回されませんでした。当然です。危険は変わっていませんでしたから」
「では、何を」
「外用分の納入は認める、と再確認されました。城館の薬草庫で油練りにする分については、ラッケ村からの納入を続けるようにと」
私は少しだけ息を吐いた。
何もしていなかったわけではない。
けれど、セリアの表情は厳しいままだった。
「罰金も、初回違反は警告に改められました。産婦、幼児、衰弱者への内服は即罰。成人への内服は、初回に限り警告。再犯で罰金」
「そこまでは、直したんですね」
「はい」
「でも」
「村の者にとっては、十分ではありませんでした」
「なぜ」
「メルカ婆の知識を、薬草庫の正式な記録へ戻さなかったからです」
セリアは、淡々と言った。
「ラッケ草を外用薬として使うなら、あの村の採取人の知識は必要でした。どの斜面に生えるものがよいか。いつ摘むか。乾かしすぎるとどうなるか。油に練る時、どの匂いになればよいか。そういうものは、薬草庫の帳簿だけでは足りません」
「それを、私は」
「取り上げませんでした」
セリアの声は厳しい。
「いいえ、正確には、取り上げる前に終わりました」
「終わった」
「巡察では、確認すべきものが多すぎました。雪芋倉庫、橋、税、兵の配置、教会倉庫、孤児の名簿。ラッケ村だけに日を使うことはできなかった」
私は何も言えなかった。
それは、言い訳ではない。
領主の現実だ。
でも、村の傷にとっては、そんな事情は関係ない。
「メルカ婆には、会ったのですね」
「会われました」
セリアは言った。
「村の広場で」
記憶がまた、少しだけ浮かぶ。
白い髪。
杖。
険しい目。
お前は、わしらの草を知らない。
孫の名を、紙の中に押し込めた。
そういう怒りが、雪の上に立っている。
「その時、メルカ婆は何と」
セリアは少しだけ目を伏せた。
「孫を奪って、草まで奪うのか、と」
執務室が静かになった。
孫を奪って。
草まで奪う。
理屈としては違う。
ニナを奪ったのは、ラッケ草の誤った内服だ。
城館は、それを止めようとした。
でも、メルカ婆にとっては違う。
孫は死んだ。
そして、その後に城館から命令が来た。
危険だ。
禁じる。
従わなければ罰金。
納入権停止。
その後、女伯本人が村へ来た。
内服禁止は撤回されなかった。
外に塗る分は認められた。
罰金も一部緩められた。
それでも、メルカ婆の知識が薬草庫の正式な記録に載ることはなかった。
彼女の知る山は、彼女のまま残された。
城館の外に。
傷の側に。
分かる。
分かってしまう。
でも、だからといって、危険な使い方を認めるわけにはいかない。
嫌な話だ。
正しさが、誰かの痛みを消してくれない。
「女伯様」
ユリスが小さく言った。
「ラッケ村へ行くのは、危険では」
「危険ですね」
私は答えた。
「ですが、行かないまま採取を命じる方が危険です」
「それは」
「薬草庫の在庫が足りない。村には薬草がある。だから出せ。昔のことは終わったことだ。そう言えば、村はもっと閉じます」
ユリスは反論しなかった。
セリアも黙っている。
「ただし、私が行けばよいという話でもありません」
私は記録を見た。
ニナ。
五歳。
たった数行。
でも、村に行けば、その数行には家があり、寝台があり、祖母がいる。
そこへ私は行く。
エレノア様の身体で。
エレノア様の顔で。
三年前に命令書へ署名し、二年前に村へ立った本人として。
それは、簡単なことではない。
「まず、ラッケ草の正しい外用方法を薬草庫で整理してください」
私はセリアに言った。
「採取時期、乾燥方法、油練りの比率、塗ってよい相手、塗ってはいけない傷。内服禁止の理由も、できるだけ簡潔に」
「村へ見せるためですか」
「はい。こちらが聞くだけではなく、こちらも何を認め、何を禁じるのか、明確に持っていきます」
「よろしいかと」
セリアは短く頷いた。
「ただし、比率は村の採取人にも確認が必要です。薬草庫のやり方が全て正しいとは限りません」
「あなたがそれを言いますか」
「薬草に関しては、事実が一番です」
強い。
この人、やっぱり強い。
「ユリス」
「はい」
「命令書の写しと、当時の代官補の報告を整理してください。誰が、どこで、誰に読み上げたのか。それから、二年前の巡察記録も」
「巡察記録も、ですか」
「はい。私がラッケ村で何を見て、何を命じ、何を残したのか。三年前の命令と、二年前の巡察を分けて整理してください」
「承知しました」
「メルカ婆がその場にいたのか。村長はどう反応したのか。外用分の納入を認める再確認が、どこまで村に伝わったのか」
「調べます」
「それから、ラッケ村へ先触れを出します。ただし、採取命令ではありません。聞き取りのための訪問希望です。こちらの用件は、ラッケ草の内服禁止命令の再確認と、外用利用の整理。返済労役の話は、まだ出さないでください」
「薬草採取の話は伏せるのですか」
「伏せるのではなく、まだ決めていないことは言わない」
私は言った。
「ここを混ぜると、また都合よく薬草を求めに来たと思われます」
ユリスは少し考え、それから深く頷いた。
「分かりました」
セリアが机の上の使用禁止命令を見下ろした。
「女伯様」
「何ですか」
「ラッケ村へ行かれるなら、私も同行します」
「もちろん、そのつもりでした」
「それから、謝罪を先にしてはいけません」
私は顔を上げた。
ユリスも驚いたようにセリアを見る。
「謝ってはいけないのですか」
「先に謝れば、何を誤ったのか曖昧になります」
セリアは言った。
「内服を禁じたことは、誤りではありません。そこを謝れば、また飲ませる者が出ます」
私は息を呑んだ。
確かに。
謝ればよいわけではない。
玲奈としては、傷つけたなら謝りたいと思ってしまう。
でも、何に謝るのかを間違えれば、危険な使い方まで許したことになる。
「謝るなら、命令の後に戻りきれなかったことです」
セリアの声は静かだった。
「正しい使い方を村へ返しきれなかったこと。メルカ婆の知識をただ危険なものとして扱ったこと。二年前に外用分の納入を認めながら、その知識を正式な記録に載せなかったこと。そこです」
私は、ゆっくり頷いた。
「覚えておきます」
「覚えるだけでは足りません。言葉を用意してください」
「……はい」
領主として、薬草庫管理人に叱られている。
でも、不思議と腹は立たなかった。
むしろ、ありがたい。
ここで間違えれば、また誰かを傷つける。
下手をすれば、また誰かを死なせる。
それなら、叱ってくれる人がいた方がいい。
「セリア」
「はい」
「あなたは、私の命令をどう思っていましたか」
問いは、思ったより自然に出た。
セリアはすぐには答えなかった。
少しだけ、視線を命令書の署名へ落とす。
「必要な命令でした」
「それだけですか」
「いいえ」
セリアは、淡々と言った。
「厳しすぎる命令でした」
胸の奥が痛んだ。
「ですが、あの時、厳しくない命令で止まったかは分かりません」
私は黙った。
「メルカ婆は強い人です。村の者も、山の薬草には誇りがある。曖昧に言えば、聞かなかったでしょう」
「では」
「必要でした」
セリアは繰り返した。
「けれど、足りませんでした」
その言葉は、エレノア様が言ったことと同じだった。
必要だった。
でも、足りなかった。
この章の痛みは、たぶんそこにある。
悪人がいて、善人がいて、悪人を倒せば終わる話ではない。
必要な判断があり。
救われた命があり。
傷ついた誇りがあり。
一度戻ったのに、戻りきれなかった領主がいる。
そして今、もう一度戻ろうとしている。
王都ではなく。
この土地の傷へ。
その日の夜、私は精神世界の扉の前で、セリアとの話を伝えた。
扉の向こうは、しばらく静かだった。
暖炉の火は、低く燃えている。
「セリアは、そう言いましたか」
エレノア様の声は、思ったより穏やかだった。
「はい。必要な命令だった。でも、足りなかったと」
「正しい評価です」
「怒らないんですか」
「なぜ」
「厳しいことを言われたので」
「セリアは、薬草に関して嘘を言いません」
信頼が厚い。
いや、エレノア様の記憶に「逆らわない方がよい」と刻まれるだけはある。
「メルカ婆のことも聞きました」
私は言った。
「ニナの祖母で、ラッケ草の採取人だったと」
扉の向こうで、火が小さく爆ぜた。
「はい」
「三年前に内服禁止命令を出した後、二年前にラッケ村へ行ったんですね」
「行きました」
声は静かだった。
「ヴァルツェンへ入って、最初の巡察で。ラッケ村は避けて通るべきではないと思いました」
「そこで、メルカ婆に会った」
「はい」
「孫を奪って、草まで奪うのか、と」
長い沈黙があった。
「そう言われました」
エレノア様は認めた。
「私は、内服禁止を撤回しませんでした」
「それは必要だったから」
「はい」
「でも、外用分の納入は認めた。罰金も一部緩めた」
「はい」
「それでも、足りなかった」
扉の向こうの声が、少しだけ低くなった。
「メルカの知識を、薬草庫へ戻すべきでした」
「戻す」
「あの人は、ラッケ草を知っていました。危険な使い方をしていた。けれど、正しい使い方も知っていた。私は危険だけを見て、知識を分けて返すところまでできなかった」
私は黙って聞いた。
「二年前、私はヴァルツェンへ来たばかりでした。王都からは監視の目があり、領内には空いた穴が多く、冬支度も遅れていた。言い訳なら、いくつもあります」
「はい」
「ですが、メルカには関係ありません」
その声が、胸に刺さった。
「彼女には、孫が死んだ。草を禁じられた。女伯が来て、禁令を撤回しなかった。それだけです」
「エレノア様」
「分かっていたつもりでした」
「はい」
「でも、戻りきれませんでした」
戻りきれない。
その言葉が、この話の芯なのだと思った。
王都へは戻らない。
でも、ここには戻らなければならない。
同じ「戻る」でも、意味が違う。
傷つき直すために戻るのではない。
放置した痛みを、もう一度見るために戻る。
「セリアは、謝罪を先にしてはいけないと言いました」
「セリアらしいですね」
「内服禁止を謝れば、危険な使い方を認めたことになる。謝るなら、命令の後に戻りきれなかったこと。正しい使い方を村へ返しきれなかったこと」
扉の向こうから、長い息の音が聞こえた。
「その通りです」
「エレノア様」
「何ですか」
「難しいですね」
「はい」
即答だった。
少しだけ、私は笑った。
「こういう時、エレノア様なら全部分かるのかと思っていました」
「分かりません」
扉の向こうの声は、静かだった。
「分かっていたなら、二年前に戻りきれていました」
その言葉には、後悔があった。
でも、以前のように自分を閉じ込めるための後悔ではない。
記録に向き合うための後悔だった。
「では、一緒に考えましょう」
「あなたは、すぐそう言います」
「一人で考えるより、二人の方がましです」
「二人で間違える可能性もあります」
「その時は、セリアさんに叱ってもらいます」
扉の向こうで、ほんの少しだけ沈黙があった。
「それは、確かに有効かもしれません」
笑った。
たぶん、今のは笑った。
声にはほとんど出ていない。
でも、分かる。
エレノア様が、少し笑った。
私は内心で小さく拳を握った。
よし。
推しの微笑み、いただきました。
いや、今はそれどころではない。
でも、それどころではない時にこそ、こういう小さな変化は大事なのだ。
「ラッケ村へは、先触れを出します」
私は話を戻した。
「採取命令ではなく、聞き取りの訪問希望として。ラッケ草の内服禁止命令を再確認し、外用利用を整理するため、と」
「メルカは拒むかもしれません」
「でしょうね」
「村長は受けるでしょう。城館命令を正面から拒むほど愚かではありません。ただ、村の空気は重くなる」
「分かりました」
「ニナの家へ行くなら、花ではなく薪を持っていきなさい」
「薪?」
「ラッケ村では、冬に子を亡くした家へ花は持っていきません。花は春のものです。冬に必要なのは、火です」
私は、胸が詰まった。
名前を覚えているだけではない。
その村で、どう悼むのかまで覚えている。
エレノア様は、冷たいのではない。
冷たい顔で、そういうことを全部覚えている人なのだ。
「薪ですね」
「はい。よく乾いたものを。湿った薪は失礼です」
「分かりました」
「それから、子供用の甘い菓子は不要です」
「持っていこうとしてません」
「あなたなら考えかねません」
「信用が微妙に低い」
「感情が先に走る時があります」
「否定できない」
扉の向こうの空気が、少し柔らかくなった。
重い話の中で、ほんの少しだけ息ができる。
「エレノア様」
「何ですか」
「ニナのことを、明日の記録に書いてもいいですか」
扉の向こうが静かになった。
「私的業務記録に?」
「はい。名前を。被害報告の一行としてではなく」
長い沈黙。
「書いてください」
エレノア様は言った。
「私の記録には、書けませんでした」
その声は、とても小さかった。
「当時は、書けば揺らぐと思いました。命令の正しさが。だから、被害報告の写しだけを残した」
「今は」
「揺らぐべきだったのかもしれません」
私は扉を見つめた。
エレノア様は、少しずつ変わっている。
正しさを捨てるのではなく。
正しさの中に、揺らぎを許し始めている。
「書きます」
私は言った。
「ニナの名前も。メルカ婆の名前も。ラッケ草のことも」
「玲奈」
「はい」
「記録に名前を残すことは、救いではありません」
「はい」
「死んだ子は戻りません」
「分かっています」
「恨みも、消えません」
「はい」
「それでも」
扉の向こうで、声が少しだけ詰まった。
「なかったことにしないためには、必要です」
私は頷いた。
「はい」
現実に戻った私は、私的業務記録を開いた。
ラッケ草。
外用として有効。
凍傷による腫れ、ひび割れ、冬季労働者の皮膚損傷に用いる。
内服は危険。
特に幼児、産婦、衰弱者には禁忌。
三年前、ラッケ村にてニナ、五歳、死亡。
祖母メルカ、採取人。
三年前の命令書。
当該薬草の内服使用を禁ずる。
罰金および薬草納入権停止。
二年前の巡察。
内服禁止は継続。
外用分の納入は再確認。
罰金運用は一部緩和。
ただし、メルカの知識を薬草庫の正式記録へ戻せていない。
必要な命令。
ただし、命令後に正しい外用法を村へ返しきれていない。
村の知識と誇りを危険物としてのみ扱った可能性。
ラッケ村訪問前に用意するもの。
命令書写し。
二年前の巡察記録。
薬草庫整理案。
外用法草案。
内服禁止理由。
乾いた薪。
そこまで書いて、私はペンを止めた。
乾いた薪。
その文字が、やけに胸に残る。
花ではなく、薪。
春ではなく、火。
ヴァルツェンの弔いは、この土地の冬の中にある。
王都の白百合では届かないものが、ここにもある。
私は、最後に一行を追記した。
名前を、記録する。
ニナ。
メルカ。
ラッケ草。
そして、エレノア・フォン・ヴァルツェン。
必要だった。
でも、足りなかった。
その言葉を、私は今日の記録の端に残した。
雪解け前の土の下で、薬草はまだ眠っている。
薬になるか、毒になるかは、草だけでは決まらない。
誰が、どう使い、誰に渡し、何を説明し、何を記録するかで変わる。
人の判断も、きっと同じだ。
エレノア様の判断は、薬だったのか。
毒だったのか。
まだ、簡単には決められない。
だから、聞きに行く。
雪の下に残った名前を。
止めたままになっていた話の続きを。




