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断罪後の悪役令嬢も、私は推している  作者: Manabit
第四章 雪解け前の名前

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第22話 禁じた薬草

 セリアは、薬草庫の匂いを連れてやって来た。


 乾いた葉。


 土。


 煙で燻した棚板。


 それから、少しだけ苦い匂い。


 薬草庫の管理人であるセリアは、城館の者たちの中でも特に背が低い。けれど、執務室に入ってきた時の存在感は、たぶんユリスの書類束より重い。


 小柄な身体に、暗い緑の上着。


 髪は後ろで固く結ばれている。


 目は細く、鋭い。


 こちらが領主であることは理解しているが、薬草に関しては一歩も譲らない。


 そういう顔だった。


「お呼びとのことで」


 セリアは短く言った。


「ラッケ村の件です」


「でしょうね」


 早い。


 そして容赦がない。


 私は机の上に、ユリスが集めた記録を広げていた。


 薬草庫の古い持ち出し帳。


 教会施療院の治療記録。


 ラッケ村に出された命令書の写し。


 それから、三年前の冬にまとめられた被害報告。


 三年前。


 紙に書かれた年数を見た時、私は少しだけ息を止めた。


 断罪より、一年前。


 エレノア様がまだ王太子殿下の婚約者として王都に立ち、けれどグランディール家の一員として、ヴァルツェンの実務にも手を伸ばしていた頃だ。


 遠い領地の小さな村で起きたことが、王都の執務机に届き、そこで命令書になった。


 その署名は、いつも通り美しい。


 迷いなく、細く、冷たい。


 けれど、私はもう知っている。


 その冷たさの下に、何もなかったわけではないことを。


「まず確認します」


 私は言った。


「ラッケ草は、凍傷やひび割れへの外用としては有効なのですね」


「はい」


 セリアは即答した。


「乾燥させた葉を油で練り、薄く塗る。腫れと痛みを抑えるには効きます。猟師、木こり、冬の巡回兵には今でも必要です」


「今でも?」


「薬草庫では使っています」


 私は目を瞬かせた。


「禁じたのでは」


「禁じたのは内服です」


 セリアは机の上の命令書を指で叩いた。


 紙がぱしりと鳴る。


「ただ、命令書の文面が強かった。ラッケ村の者には、ラッケ草そのものを城館が否定したように聞こえたでしょう」


 ユリスが少し身じろぎした。


「命令書には、『当該薬草の内服使用を禁ずる』とあります。薬草そのものの使用禁止ではありません」


「字が読める者には、そうです」


 セリアが言った。


 ユリスが黙った。


 セリアは続ける。


「ですが、村では口で伝わります。『城館がラッケ草を禁じた』。そうなれば、そこから先は変わります」


 私は、胸の奥に重いものが落ちるのを感じた。


 正確に書いたつもりでも、届く時には別の形になる。


 文書は万能ではない。


 書いたから伝わるわけではない。


 王都報が実務を美談に変えたように、村の噂は命令を屈辱に変える。


「当時、村側への説明は」


 私が聞くと、ユリスが記録をめくった。


「城館から代官補が派遣されています。命令書の読み上げ、罰則の説明、薬草納入権停止の警告」


「警告だけですか」


「記録上は」


 ユリスの声が小さくなる。


 私はセリアを見た。


「あなたは当時、薬草庫に?」


「いました。まだ副管理人でしたが」


「では、聞きます。説明は足りていましたか」


「足りていません」


 即答だった。


 容赦がない。


「ただし、止める必要はありました」


 セリアは、そこもはっきり言った。


「ラッケ草は外に塗る薬です。煎じて飲めば、体の強い者なら多少腹を下す程度で済むこともあります。ですが、体力の落ちた者、産後の女、幼い子には危険です」


「被害は」


 私は記録に目を落とした。


 そこには、短い名前があった。


 ニナ。


 五歳。


 高熱後、衰弱。


 村内でラッケ草を煎じて服用。


 翌朝、呼吸低下。


 死亡。


 たった数行だった。


 たった数行で、一人の子供が紙の中に閉じ込められていた。


 私は、指先が冷たくなるのを感じた。


「ニナ」


 口に出すと、セリアの目が少しだけ動いた。


「覚えていますか」


「覚えています」


 セリアの声は変わらなかった。


 けれど、少し硬くなった。


「小さい子でした。冬でも裸足で走るような子で、ラッケ村の採取人の孫です」


「採取人の」


「メルカ婆の孫です」


 メルカ。


 その名を聞いた瞬間、また記憶の奥が揺れた。


 白い髪の老婆。


 枯れ枝のような手。


 雪の上に残る足跡。


 怒鳴り声。


 お前たちは山を知らない。


 紙の上で人を裁くな。


 その光景は、王都の執務机ではない。


 冷たい風。


 山の匂い。


 ラッケ村の広場。


 きっと、別の記憶だ。


 三年前の命令書ではなく、もっと後の。


「その後の巡察記録はありますか」


 私は尋ねた。


「私がラッケ村へ入った時のものです」


 セリアは一瞬だけ私を見た。


 その目が、少し細くなる。


 記憶を失っているのか、と疑われたのかもしれない。


 けれど、セリアは余計なことを聞かなかった。


「ございます。断罪後、女伯様がヴァルツェンへ入られてすぐの巡察です。ラッケ村にも立ち寄られました」


 二年前。


 エレノア様が王都から切り離され、ヴァルツェンへ正式に入った後。


 冷血伯として噂されながら、それでも領地の状態を自分の目で見ようとした頃だ。


 あの記憶は、その時のものなのだろう。


「その時、内服禁止は」


「撤回されませんでした。当然です。危険は変わっていませんでしたから」


「では、何を」


「外用分の納入は認める、と再確認されました。城館の薬草庫で油練りにする分については、ラッケ村からの納入を続けるようにと」


 私は少しだけ息を吐いた。


 何もしていなかったわけではない。


 けれど、セリアの表情は厳しいままだった。


「罰金も、初回違反は警告に改められました。産婦、幼児、衰弱者への内服は即罰。成人への内服は、初回に限り警告。再犯で罰金」


「そこまでは、直したんですね」


「はい」


「でも」


「村の者にとっては、十分ではありませんでした」


「なぜ」


「メルカ婆の知識を、薬草庫の正式な記録へ戻さなかったからです」


 セリアは、淡々と言った。


「ラッケ草を外用薬として使うなら、あの村の採取人の知識は必要でした。どの斜面に生えるものがよいか。いつ摘むか。乾かしすぎるとどうなるか。油に練る時、どの匂いになればよいか。そういうものは、薬草庫の帳簿だけでは足りません」


「それを、私は」


「取り上げませんでした」


 セリアの声は厳しい。


「いいえ、正確には、取り上げる前に終わりました」


「終わった」


「巡察では、確認すべきものが多すぎました。雪芋倉庫、橋、税、兵の配置、教会倉庫、孤児の名簿。ラッケ村だけに日を使うことはできなかった」


 私は何も言えなかった。


 それは、言い訳ではない。


 領主の現実だ。


 でも、村の傷にとっては、そんな事情は関係ない。


「メルカ婆には、会ったのですね」


「会われました」


 セリアは言った。


「村の広場で」


 記憶がまた、少しだけ浮かぶ。


 白い髪。


 杖。


 険しい目。


 お前は、わしらの草を知らない。


 孫の名を、紙の中に押し込めた。


 そういう怒りが、雪の上に立っている。


「その時、メルカ婆は何と」


 セリアは少しだけ目を伏せた。


「孫を奪って、草まで奪うのか、と」


 執務室が静かになった。


 孫を奪って。


 草まで奪う。


 理屈としては違う。


 ニナを奪ったのは、ラッケ草の誤った内服だ。


 城館は、それを止めようとした。


 でも、メルカ婆にとっては違う。


 孫は死んだ。


 そして、その後に城館から命令が来た。


 危険だ。


 禁じる。


 従わなければ罰金。


 納入権停止。


 その後、女伯本人が村へ来た。


 内服禁止は撤回されなかった。


 外に塗る分は認められた。


 罰金も一部緩められた。


 それでも、メルカ婆の知識が薬草庫の正式な記録に載ることはなかった。


 彼女の知る山は、彼女のまま残された。


 城館の外に。


 傷の側に。


 分かる。


 分かってしまう。


 でも、だからといって、危険な使い方を認めるわけにはいかない。


 嫌な話だ。


 正しさが、誰かの痛みを消してくれない。


「女伯様」


 ユリスが小さく言った。


「ラッケ村へ行くのは、危険では」


「危険ですね」


 私は答えた。


「ですが、行かないまま採取を命じる方が危険です」


「それは」


「薬草庫の在庫が足りない。村には薬草がある。だから出せ。昔のことは終わったことだ。そう言えば、村はもっと閉じます」


 ユリスは反論しなかった。


 セリアも黙っている。


「ただし、私が行けばよいという話でもありません」


 私は記録を見た。


 ニナ。


 五歳。


 たった数行。


 でも、村に行けば、その数行には家があり、寝台があり、祖母がいる。


 そこへ私は行く。


 エレノア様の身体で。


 エレノア様の顔で。


 三年前に命令書へ署名し、二年前に村へ立った本人として。


 それは、簡単なことではない。


「まず、ラッケ草の正しい外用方法を薬草庫で整理してください」


 私はセリアに言った。


「採取時期、乾燥方法、油練りの比率、塗ってよい相手、塗ってはいけない傷。内服禁止の理由も、できるだけ簡潔に」


「村へ見せるためですか」


「はい。こちらが聞くだけではなく、こちらも何を認め、何を禁じるのか、明確に持っていきます」


「よろしいかと」


 セリアは短く頷いた。


「ただし、比率は村の採取人にも確認が必要です。薬草庫のやり方が全て正しいとは限りません」


「あなたがそれを言いますか」


「薬草に関しては、事実が一番です」


 強い。


 この人、やっぱり強い。


「ユリス」


「はい」


「命令書の写しと、当時の代官補の報告を整理してください。誰が、どこで、誰に読み上げたのか。それから、二年前の巡察記録も」


「巡察記録も、ですか」


「はい。私がラッケ村で何を見て、何を命じ、何を残したのか。三年前の命令と、二年前の巡察を分けて整理してください」


「承知しました」


「メルカ婆がその場にいたのか。村長はどう反応したのか。外用分の納入を認める再確認が、どこまで村に伝わったのか」


「調べます」


「それから、ラッケ村へ先触れを出します。ただし、採取命令ではありません。聞き取りのための訪問希望です。こちらの用件は、ラッケ草の内服禁止命令の再確認と、外用利用の整理。返済労役の話は、まだ出さないでください」


「薬草採取の話は伏せるのですか」


「伏せるのではなく、まだ決めていないことは言わない」


 私は言った。


「ここを混ぜると、また都合よく薬草を求めに来たと思われます」


 ユリスは少し考え、それから深く頷いた。


「分かりました」


 セリアが机の上の使用禁止命令を見下ろした。


「女伯様」


「何ですか」


「ラッケ村へ行かれるなら、私も同行します」


「もちろん、そのつもりでした」


「それから、謝罪を先にしてはいけません」


 私は顔を上げた。


 ユリスも驚いたようにセリアを見る。


「謝ってはいけないのですか」


「先に謝れば、何を誤ったのか曖昧になります」


 セリアは言った。


「内服を禁じたことは、誤りではありません。そこを謝れば、また飲ませる者が出ます」


 私は息を呑んだ。


 確かに。


 謝ればよいわけではない。


 玲奈としては、傷つけたなら謝りたいと思ってしまう。


 でも、何に謝るのかを間違えれば、危険な使い方まで許したことになる。


「謝るなら、命令の後に戻りきれなかったことです」


 セリアの声は静かだった。


「正しい使い方を村へ返しきれなかったこと。メルカ婆の知識をただ危険なものとして扱ったこと。二年前に外用分の納入を認めながら、その知識を正式な記録に載せなかったこと。そこです」


 私は、ゆっくり頷いた。


「覚えておきます」


「覚えるだけでは足りません。言葉を用意してください」


「……はい」


 領主として、薬草庫管理人に叱られている。


 でも、不思議と腹は立たなかった。


 むしろ、ありがたい。


 ここで間違えれば、また誰かを傷つける。


 下手をすれば、また誰かを死なせる。


 それなら、叱ってくれる人がいた方がいい。


「セリア」


「はい」


「あなたは、私の命令をどう思っていましたか」


 問いは、思ったより自然に出た。


 セリアはすぐには答えなかった。


 少しだけ、視線を命令書の署名へ落とす。


「必要な命令でした」


「それだけですか」


「いいえ」


 セリアは、淡々と言った。


「厳しすぎる命令でした」


 胸の奥が痛んだ。


「ですが、あの時、厳しくない命令で止まったかは分かりません」


 私は黙った。


「メルカ婆は強い人です。村の者も、山の薬草には誇りがある。曖昧に言えば、聞かなかったでしょう」


「では」


「必要でした」


 セリアは繰り返した。


「けれど、足りませんでした」


 その言葉は、エレノア様が言ったことと同じだった。


 必要だった。


 でも、足りなかった。


 この章の痛みは、たぶんそこにある。


 悪人がいて、善人がいて、悪人を倒せば終わる話ではない。


 必要な判断があり。


 救われた命があり。


 傷ついた誇りがあり。


 一度戻ったのに、戻りきれなかった領主がいる。


 そして今、もう一度戻ろうとしている。


 王都ではなく。


 この土地の傷へ。


 その日の夜、私は精神世界の扉の前で、セリアとの話を伝えた。


 扉の向こうは、しばらく静かだった。


 暖炉の火は、低く燃えている。


「セリアは、そう言いましたか」


 エレノア様の声は、思ったより穏やかだった。


「はい。必要な命令だった。でも、足りなかったと」


「正しい評価です」


「怒らないんですか」


「なぜ」


「厳しいことを言われたので」


「セリアは、薬草に関して嘘を言いません」


 信頼が厚い。


 いや、エレノア様の記憶に「逆らわない方がよい」と刻まれるだけはある。


「メルカ婆のことも聞きました」


 私は言った。


「ニナの祖母で、ラッケ草の採取人だったと」


 扉の向こうで、火が小さく爆ぜた。


「はい」


「三年前に内服禁止命令を出した後、二年前にラッケ村へ行ったんですね」


「行きました」


 声は静かだった。


「ヴァルツェンへ入って、最初の巡察で。ラッケ村は避けて通るべきではないと思いました」


「そこで、メルカ婆に会った」


「はい」


「孫を奪って、草まで奪うのか、と」


 長い沈黙があった。


「そう言われました」


 エレノア様は認めた。


「私は、内服禁止を撤回しませんでした」


「それは必要だったから」


「はい」


「でも、外用分の納入は認めた。罰金も一部緩めた」


「はい」


「それでも、足りなかった」


 扉の向こうの声が、少しだけ低くなった。


「メルカの知識を、薬草庫へ戻すべきでした」


「戻す」


「あの人は、ラッケ草を知っていました。危険な使い方をしていた。けれど、正しい使い方も知っていた。私は危険だけを見て、知識を分けて返すところまでできなかった」


 私は黙って聞いた。


「二年前、私はヴァルツェンへ来たばかりでした。王都からは監視の目があり、領内には空いた穴が多く、冬支度も遅れていた。言い訳なら、いくつもあります」


「はい」


「ですが、メルカには関係ありません」


 その声が、胸に刺さった。


「彼女には、孫が死んだ。草を禁じられた。女伯が来て、禁令を撤回しなかった。それだけです」


「エレノア様」


「分かっていたつもりでした」


「はい」


「でも、戻りきれませんでした」


 戻りきれない。


 その言葉が、この話の芯なのだと思った。


 王都へは戻らない。


 でも、ここには戻らなければならない。


 同じ「戻る」でも、意味が違う。


 傷つき直すために戻るのではない。


 放置した痛みを、もう一度見るために戻る。


「セリアは、謝罪を先にしてはいけないと言いました」


「セリアらしいですね」


「内服禁止を謝れば、危険な使い方を認めたことになる。謝るなら、命令の後に戻りきれなかったこと。正しい使い方を村へ返しきれなかったこと」


 扉の向こうから、長い息の音が聞こえた。


「その通りです」


「エレノア様」


「何ですか」


「難しいですね」


「はい」


 即答だった。


 少しだけ、私は笑った。


「こういう時、エレノア様なら全部分かるのかと思っていました」


「分かりません」


 扉の向こうの声は、静かだった。


「分かっていたなら、二年前に戻りきれていました」


 その言葉には、後悔があった。


 でも、以前のように自分を閉じ込めるための後悔ではない。


 記録に向き合うための後悔だった。


「では、一緒に考えましょう」


「あなたは、すぐそう言います」


「一人で考えるより、二人の方がましです」


「二人で間違える可能性もあります」


「その時は、セリアさんに叱ってもらいます」


 扉の向こうで、ほんの少しだけ沈黙があった。


「それは、確かに有効かもしれません」


 笑った。


 たぶん、今のは笑った。


 声にはほとんど出ていない。


 でも、分かる。


 エレノア様が、少し笑った。


 私は内心で小さく拳を握った。


 よし。


 推しの微笑み、いただきました。


 いや、今はそれどころではない。


 でも、それどころではない時にこそ、こういう小さな変化は大事なのだ。


「ラッケ村へは、先触れを出します」


 私は話を戻した。


「採取命令ではなく、聞き取りの訪問希望として。ラッケ草の内服禁止命令を再確認し、外用利用を整理するため、と」


「メルカは拒むかもしれません」


「でしょうね」


「村長は受けるでしょう。城館命令を正面から拒むほど愚かではありません。ただ、村の空気は重くなる」


「分かりました」


「ニナの家へ行くなら、花ではなく薪を持っていきなさい」


「薪?」


「ラッケ村では、冬に子を亡くした家へ花は持っていきません。花は春のものです。冬に必要なのは、火です」


 私は、胸が詰まった。


 名前を覚えているだけではない。


 その村で、どう悼むのかまで覚えている。


 エレノア様は、冷たいのではない。


 冷たい顔で、そういうことを全部覚えている人なのだ。


「薪ですね」


「はい。よく乾いたものを。湿った薪は失礼です」


「分かりました」


「それから、子供用の甘い菓子は不要です」


「持っていこうとしてません」


「あなたなら考えかねません」


「信用が微妙に低い」


「感情が先に走る時があります」


「否定できない」


 扉の向こうの空気が、少し柔らかくなった。


 重い話の中で、ほんの少しだけ息ができる。


「エレノア様」


「何ですか」


「ニナのことを、明日の記録に書いてもいいですか」


 扉の向こうが静かになった。


「私的業務記録に?」


「はい。名前を。被害報告の一行としてではなく」


 長い沈黙。


「書いてください」


 エレノア様は言った。


「私の記録には、書けませんでした」


 その声は、とても小さかった。


「当時は、書けば揺らぐと思いました。命令の正しさが。だから、被害報告の写しだけを残した」


「今は」


「揺らぐべきだったのかもしれません」


 私は扉を見つめた。


 エレノア様は、少しずつ変わっている。


 正しさを捨てるのではなく。


 正しさの中に、揺らぎを許し始めている。


「書きます」


 私は言った。


「ニナの名前も。メルカ婆の名前も。ラッケ草のことも」


「玲奈」


「はい」


「記録に名前を残すことは、救いではありません」


「はい」


「死んだ子は戻りません」


「分かっています」


「恨みも、消えません」


「はい」


「それでも」


 扉の向こうで、声が少しだけ詰まった。


「なかったことにしないためには、必要です」


 私は頷いた。


「はい」


 現実に戻った私は、私的業務記録を開いた。


 ラッケ草。


 外用として有効。


 凍傷による腫れ、ひび割れ、冬季労働者の皮膚損傷に用いる。


 内服は危険。


 特に幼児、産婦、衰弱者には禁忌。


 三年前、ラッケ村にてニナ、五歳、死亡。


 祖母メルカ、採取人。


 三年前の命令書。


 当該薬草の内服使用を禁ずる。


 罰金および薬草納入権停止。


 二年前の巡察。


 内服禁止は継続。


 外用分の納入は再確認。


 罰金運用は一部緩和。


 ただし、メルカの知識を薬草庫の正式記録へ戻せていない。


 必要な命令。


 ただし、命令後に正しい外用法を村へ返しきれていない。


 村の知識と誇りを危険物としてのみ扱った可能性。


 ラッケ村訪問前に用意するもの。


 命令書写し。


 二年前の巡察記録。


 薬草庫整理案。


 外用法草案。


 内服禁止理由。


 乾いた薪。


 そこまで書いて、私はペンを止めた。


 乾いた薪。


 その文字が、やけに胸に残る。


 花ではなく、薪。


 春ではなく、火。


 ヴァルツェンの弔いは、この土地の冬の中にある。


 王都の白百合では届かないものが、ここにもある。


 私は、最後に一行を追記した。


 名前を、記録する。


 ニナ。


 メルカ。


 ラッケ草。


 そして、エレノア・フォン・ヴァルツェン。


 必要だった。


 でも、足りなかった。


 その言葉を、私は今日の記録の端に残した。


 雪解け前の土の下で、薬草はまだ眠っている。


 薬になるか、毒になるかは、草だけでは決まらない。


 誰が、どう使い、誰に渡し、何を説明し、何を記録するかで変わる。


 人の判断も、きっと同じだ。


 エレノア様の判断は、薬だったのか。


 毒だったのか。


 まだ、簡単には決められない。


 だから、聞きに行く。


 雪の下に残った名前を。


 止めたままになっていた話の続きを。


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