第21話 春までの三案
雪は、まだ消えない。
窓の外は相変わらず白く、朝になるたび城館の石壁には薄い氷が張っている。
けれど、空気の硬さだけは少し変わっていた。
深く吸い込むと、喉の奥を刺すような冷たさの中に、ほんのわずかに湿り気がある。
雪解けには、まだ早い。
でも、冬が永遠に続くわけではない。
そのことを、ヴァルツェンの人たちはよく知っている。
だから、冬の終わりが見え始める頃、仕事はむしろ増える。
「第一区共同備蓄貸付分の、返済案です」
ユリスが、厚い束の書類を執務机の上に置いた。
私はそれを見て、思わず沈黙した。
厚い。
かなり厚い。
紙の束から、ユリスのやる気が圧を持って立ち上っている。
「……三案、ですよね?」
「はい。三案です」
ユリスは、なぜか少し誇らしそうだった。
「第一案が二十二枚、第二案が十八枚、第三案が二十六枚です」
「三案の意味を、少し考え直しましょうか」
「要約版もございます」
「最初からそれを出してください」
ユリスは慌てて別の紙を差し出した。
こちらは三枚だった。
よかった。
人間の読む量だ。
いや、領主としては二十二枚も読むべきなのかもしれないけれど、まず全体像を掴ませてほしい。
私は要約版に目を落とした。
第一区共同備蓄。
雪芋貯蔵庫の腐敗により、第三区、第六区、および街道沿いの一部集落へ貸し出した分。
本来なら冬明けの税とあわせ、麦、干し豆、乾燥野菜、薪、もしくは労役によって返済される。
ただし、今年は腐敗分の穴が大きい。
返済を通常通り求めれば、春先の畑起こしと家畜の回復が遅れる。
返済を免除すれば、共同備蓄制度の信用が揺らぐ。
返済を先送りしすぎれば、来冬の備蓄が薄くなる。
どれも正しい。
どれも困る。
私は紙の端を指で押さえた。
「第一案は、通常返済ですね」
「はい。貸付分の七割を春税と合わせて返済。残り三割を秋の収穫後に返済します」
「却下」
自分でも少し驚くくらい、すぐ言葉が出た。
ユリスが目を瞬かせる。
「理由をお聞きしても」
「春に七割は重すぎます。雪芋の穴を埋めるために借りた村ほど、春に返せなくなる。畑起こしに回す人手と食料を削ることになります」
「おっしゃる通りです」
「分かっていて出しましたね」
「比較のために」
ユリスは真面目な顔で言った。
この人、だいぶエレノア様の仕事の仕方に染まってきている気がする。
良いことなのか、少し心配すべきなのか。
私は第二案へ目を移した。
「第二案は、返済延期」
「はい。春返済を二割に抑え、残りを秋に回します。ただし、秋に不作が出た場合は再調整が必要になります」
「これだと第一区の備蓄が薄くなりますね」
「はい。来冬前に王都または南方商会から買い戻す必要が出る可能性があります」
「王都に頼りすぎるのは避けたいです」
王都。
その言葉だけで、胸の奥に少し力が入った。
王都の空席には戻らない。
それは決めた。
でも、決めたからといって、王都が消えるわけではない。
書状は届く。
商人は来る。
王都報も、こちらの事情など知らずに勝手な物語を作る。
だからこそ、こちらの足場を固めなければならない。
「第三案は」
「返済を物納と労役に分ける案です」
ユリスの声が少し明るくなった。
たぶん、本命なのだろう。
「春の返済は、一律で貸付分の二割。ただし、麦や豆ではなく、各村の状況に応じて薪割り、道普請、薬草採取、共有倉庫の修繕などの労役で一部代替できるようにします。秋に残りを物納。ただし、春の労役分を評価して減額します」
「薬草採取」
私はそこで目を止めた。
「はい。冬の間に薬草庫の在庫がかなり減っております。特に咳止め、熱冷まし、凍傷用です。薬草袋の印運用が始まったことで、持ち出し記録は改善しましたが、在庫そのものは回復しておりません」
制度は整った。
でも、薬草そのものは増えない。
当たり前だ。
袋に印をつけても、中身が空なら誰も救えない。
「採取時期は」
「雪解け直後から初夏にかけて。ただし、村ごとに採れるものが違います。山間部は凍傷用、湿地側は熱冷まし、森沿いは咳止めに使う葉が多いとのことです」
「とのこと?」
私は顔を上げた。
ユリスが、少し表情を引き締める。
「薬草庫のセリア殿からの聞き取りです。ただ、セリア殿によれば、古い採取人や村の薬草扱いに詳しい者の知識が、正式な帳簿には十分入っていないそうです」
「正式な帳簿に入っていない」
嫌な言葉だった。
この世界で、帳簿に入っていないものは見落とされやすい。
でも、何でも帳簿に入れればいいわけでもない。
誤った知識を正式に載せれば、今度はそれが人を傷つける。
「セリアは何と」
「確認なしに採用するな、とのことです」
「でしょうね」
セリアらしい。
薬草庫の管理人であるセリアは、小柄で無口で、目つきが鋭い。
薬草に関しては、エレノア様の記憶の中ですら「逆らわない方がよい」と記されている人物だ。
「それから」
ユリスは一瞬、言いにくそうに視線を落とした。
「山間のラッケ村から、申し出が来ています」
「ラッケ村」
その名を聞いた瞬間、胸の奥が少しざわついた。
私のものではない。
身体のどこかが、その名前に反応した。
知っている。
たぶん、エレノア様が知っている。
記憶はいつも、親切な本のようには開いてくれない。
ただ、霧の向こうから、冷たい断片だけが浮かぶ。
薬草束。
雪の上の足跡。
泣き声。
怒鳴る老人。
そして、エレノア様の声。
その薬草を、飲ませてはなりません。
それ以上は、霧に沈んだ。
「女伯様?」
ユリスがこちらを見ている。
私は指先に力を入れ、現実へ戻った。
「続けて」
「はい。ラッケ村では、凍傷用の薬草を多く採れるそうです。ただ、以前、村で使われていた薬草の一部が城館命令で使用禁止となったため、採取人たちは城館へ出すことを嫌がっていると」
やっぱり。
私は息を吐いた。
領地で信頼されている。
それは、嘘ではない。
ヴァルツェンの人々は、エレノア様が冬を越させる領主であることを知っている。
でも、それは全員がエレノア様を好きだという意味ではない。
誰も傷つけなかったという意味でもない。
冷血伯。
王都の悪名。
それとは別に、この土地にはこの土地の傷がある。
「使用禁止になった理由は、記録にありますか」
「探しています。ただ、薬草庫の古い記録は分類がまだ不十分でして」
ユリスが悔しそうに言った。
「セリア殿は、禁じられた薬草そのものより、使い方が危険だったのではないかと」
「使い方」
「はい。量、使う相手、外に塗るのか、飲ませるのか。特に幼児と産婦への内服を強く禁じた形跡があるそうです」
幼児。
産婦。
内服。
その言葉で、また記憶が揺れた。
小さな寝台。
白い布。
薬草の強い匂い。
村の女が、こちらを睨む目。
エレノア様の手が、命令書に署名する。
その手は震えていない。
でも、紙の端を押さえる指だけが、ひどく白い。
私は思わず、自分の手を見た。
今は、震えていない。
「女伯様、大丈夫ですか」
「大丈夫です」
そう答えてから、私は少し考えた。
「いいえ。大丈夫かどうかは、まだ分かりません」
ユリスが黙る。
オルドが、部屋の隅で静かに目を伏せた。
私は要約版の第三案をもう一度見た。
薬草採取を返済の一部に入れる。
理屈としては良い。
春先、食料を出すより労役で返せるなら、村の負担は軽くなる。
薬草庫も助かる。
城館も助かる。
でも、そこに過去の傷があるなら、話は別だ。
こちらが必要だから薬草を出せ。
昔、禁じたけれど今は足りないから協力しろ。
そんなやり方をしたら、それは王都と同じになる。
必要な時だけ、都合よく手を伸ばす。
それは駄目だ。
「ラッケ村へ、すぐ採取命令は出しません」
私は言った。
「まず、過去の使用禁止命令を確認します。命令書、薬草庫記録、治療記録、可能なら教会側の記録も」
「はい」
「セリアを呼んでください。それから、ラッケ村に詳しい者を探します。採取人の代表がいるなら、こちらへ呼ぶのではなく、こちらから話を聞きに行く形を検討します」
「女伯様が、村へ?」
ユリスの声が少し上ずった。
たぶん危険や格式の問題を考えている。
「まだ検討です。雪道の状態も見なければなりません」
私は言った。
「ただ、城館へ来いと命じるだけでは、相手は昔と同じだと感じるでしょう」
オルドが静かに口を開いた。
「女伯様。ラッケ村は山道が細く、雪解け前は危険でございます」
「分かっています」
「また、過去の件で、村の一部は女伯様に強い感情を持っております」
「でしょうね」
私は頷いた。
怖くないと言えば嘘になる。
でも、避けて通る方がもっと怖い。
王都の空席には戻らない。
そう決めた。
なら、ヴァルツェンの席に座るということだ。
この土地で、エレノア様が積み残したものも、私が見なければならない。
もちろん、私一人で勝手に裁くつもりはない。
エレノア様を責めるためでもない。
正しかったと証明するためでもない。
何が起きたのか。
何を守ろうとしたのか。
何を傷つけたのか。
そこを、混ぜずに見たい。
「第三案を基礎にします」
私はユリスに言った。
「ただし、薬草採取を返済項目に入れるのは保留。過去の命令確認と、村側への聞き取りが済むまで、正式項目にはしません」
「では、春返済の労役項目は、道普請と倉庫修繕を先に?」
「はい。薪割りも含めてください。ただし、働ける人数が少ない家には一律で割り当てないように。家ごとの人員確認も必要です」
「承知しました」
ユリスが書き留める。
その手つきは以前より速い。
けれど、速いだけではない。
時々、彼は自分で線を引き、欄を分け、余白に確認項目を書き込むようになった。
表は、人を押し込めるためだけにあるのではない。
見落とさないためにもある。
彼はそれを、少しずつ掴み始めている。
「女伯様」
ユリスがペンを止めた。
「ラッケ村の件は、私が先に記録を探します。ですが、その……」
「何ですか」
「女伯様ご自身が、無理に思い出そうとなさる必要はないかと」
意外な言葉だった。
私は顔を上げる。
ユリスは少し気まずそうに視線を落とした。
「最近、古い件に触れるたび、顔色が悪くなられることがあります。もちろん、政務に必要なことであれば確認は必要ですが」
私は返事に詰まった。
玲奈としては、驚いた。
エレノア様の身体は、思ったより見られている。
いや、当たり前だ。
ここは城館で、私は女伯で、近くには家臣がいる。
私が隠しているつもりでも、全部隠せるわけではない。
「……助言として受け取ります」
私は言った。
「ですが、必要な時は思い出します」
「はい」
「ただ、思い出したことだけで判断はしません。記録と証言を合わせます」
ユリスは、ほっとしたように頷いた。
「その方がよろしいかと」
少し前なら、こういう言葉はなかったかもしれない。
女伯様に意見する。
女伯様の顔色を気にする。
女伯様が無理をしないように言う。
それは、領政の手順ではない。
でも、今の私にはありがたかった。
たぶん、エレノア様にとっても。
その夜。
私は精神世界の扉の前に座り、ラッケ村の名を口にした。
暖炉の光が、扉の隙間から漏れている。
いつものように、すぐ返事はなかった。
私は無理に急かさず、膝の上で手を重ねた。
「今日、春までの返済案を見ました」
まず、そこから話す。
「共同備蓄の貸付分です。通常返済は重すぎるので却下しました。返済延期だけだと第一区の備蓄が薄くなる。なので、労役と物納を組み合わせる第三案を基礎にします」
扉の向こうで、かすかに紙が動いた。
反応あり。
領地と備蓄の話には、やっぱり反応が早い。
「ただ、薬草採取を労役に入れる案が出ました」
紙の音が止まる。
「ラッケ村の名前が出ました」
扉の向こうが、静まり返った。
沈黙の質が変わる。
これは、触れた。
深いところに。
「エレノア様」
私は静かに言った。
「無理に話さなくていいです。でも、必要なら聞きます」
長い沈黙。
暖炉の薪が、ぱちりと鳴った。
「ラッケ村の薬草は」
やがて、エレノア様の声がした。
「効きました」
私は黙って聞いた。
「ラッケ草は、凍傷で腫れた指や、ひび割れた皮膚に塗る分には、確かに効いたのです。猟師や木こりには、なくてはならないものでした」
「それを、禁じたんですか」
「一部を」
声は硬かった。
「外に塗る分にはよかった。ですが、村では煎じて飲ませていました。熱冷ましにも、産婦にも、幼児にも。量を誤れば、体力の落ちた者には毒になります」
記憶の霧が、少し晴れた。
泣き声。
白い布。
薬草の強い匂い。
エレノア様の若い声。
その薬草を、飲ませてはなりません。
「誰かが亡くなったんですね」
返事はすぐにはなかった。
「はい」
短い返事だった。
それ以上は語られない。
でも、それだけで十分だった。
「女伯様が禁じたのは、ラッケ草そのものではなく、飲ませることだった」
「そのつもりでした」
「そのつもり」
「命令書には、もっと強い言葉を使いました。当該薬草の内服使用を禁ずる。違反した場合、罰金および薬草納入権の停止」
うわ。
それは強い。
今の私でも、かなり強いと思う。
「村の人たちは」
「誇りを傷つけられたと感じたでしょう」
エレノア様は淡々と言った。
「彼らは長く、その薬草で冬を越してきた。城館の薬草師より、山を知っているという自負もあった。それを、危険だと断じたのです」
「必要だったんですよね」
「必要でした」
即答だった。
けれど、その後に小さく続いた。
「ですが、正しくはなかったのかもしれません」
私は息を止めた。
エレノア様が、自分の判断をそう言うのは珍しい。
間違っていた、ではない。
必要だった。
でも、正しくはなかったのかもしれない。
その言葉の重さを、私はしばらく抱えた。
「どうすればよかったと、思いますか」
聞くと、扉の向こうで小さな気配が動いた。
「分かりません」
エレノア様は言った。
「当時は、早く止める必要がありました。次にまた同じ使い方をされれば、別の子供が死ぬかもしれなかった。説明に時間をかける余裕はないと判断しました」
「はい」
「でも、その後に戻るべきでした」
「戻る」
「なぜ禁じたのか。どの使い方が危険なのか。凍傷やひび割れにはどう使えるのか。誰が確認すればよいのか。そこまで整理して、村へ返すべきでした」
扉の向こうの声が、少し低くなる。
「私は、止めるところで終えました」
ああ。
これは、痛い。
王都とは違う。
王都では、エレノア様の手間が消された。
でもここでは、エレノア様自身が、誰かの誇りを削った。
どちらかだけではない。
善意と傷を混ぜない。
そう言ったばかりなのに、また難しいものが目の前に来た。
でも、だからこそ、見なければならない。
「じゃあ、今度は戻りましょう」
「玲奈」
「王都には戻りません。でも、ラッケ村には戻ってもいいと思います」
言ってから、自分で少し笑いそうになった。
ややこしい。
でも、たぶん大事だ。
「空席を埋めに戻るんじゃありません。止めたところで終わってしまった話の続きをしに行くんです」
扉の向こうは黙っていた。
「薬草を全部認めるわけじゃない。危険な使い方は止める。記録も取る。セリアさんにも確認してもらう。でも、村の人たちが何を知っていて、何を誇りにしていて、どこを傷つけられたのかも聞く」
「聞けば、責められます」
「でしょうね」
「冷血伯と呼ばれるかもしれません」
「王都で散々呼ばれてます」
「村で言われる方が、痛いこともあります」
その言葉は、とても静かだった。
私は何も言えなくなった。
たぶん、そうなのだろう。
王都の悪意より、近くの人の痛みの方が深く刺さることがある。
守ろうとした相手に恨まれる方が、ずっと。
「それでも」
私は言った。
「一緒に聞きます」
扉の向こうで、息を呑む気配がした。
「私だけじゃ分かりません。エレノア様だけでも、たぶん苦しいです。だから、一緒に」
長い沈黙の後、エレノア様が小さく言った。
「あなたは、時々ひどく強引です」
「推しのためなので」
「理由になっていません」
「便利な言葉です」
「便利にしないでください」
そのやり取りに、少しだけ空気が緩んだ。
よかった。
いや、問題は何も解決していない。
ラッケ村の過去は重い。
ラッケ草の扱いは危険かもしれない。
村人は怒っているかもしれない。
でも、扉の向こうの声は、完全に閉じてはいなかった。
「玲奈」
「はい」
「ラッケ村へ行くなら、雪道の状態を必ず確認してください。旧猟師道は使えません。南側の斜面は雪崩の危険があります。ガルドに先触れを」
「分かりました」
「セリアを同行させるなら、馬車ではなく橇の方がよいでしょう。薬草を持ち帰る可能性があります。湿気を避ける箱も必要です」
「はい」
「それから、村に着いても、すぐ薬草の話をしてはなりません」
「なぜですか」
「先に、亡くなった子の家へ行くべきです」
私は言葉を失った。
扉の向こうで、エレノア様は静かに続けた。
「名前を、覚えています」
その声は、震えていなかった。
けれど、私は分かった。
震えないようにしている声だった。
「では」
私はゆっくり頷いた。
「その子の名前から、始めましょう」
現実に戻ってから、私は私的業務記録を開いた。
春までの返済案。
第一案、通常返済。却下。
第二案、返済延期。備蓄薄化の懸念。
第三案、物納と労役の組み合わせ。基礎案として採用。
ただし、薬草採取は保留。
ラッケ村の過去命令、要確認。
ラッケ草の内服使用禁止に関する命令書、被害記録、教会側記録、薬草庫記録を照合すること。
村側聞き取り前に、採取命令を出さないこと。
そこまで書いて、私はペンを止めた。
そして、最後に小さく追記した。
止めた話の続きを、聞きに行く。
雪はまだ、窓の外に残っている。
でも、その下には薬草が眠っている。
外に塗れば薬になり。
飲ませ方を誤れば毒にもなる。
誇りにも、傷にもなるものが。
春は、ただ暖かいだけではない。
雪の下に隠れていたものを、地面の上へ押し出す季節でもある。
私は窓の向こうの白を見つめた。
王都には戻らない。
けれど、この土地の中に残したものからは、逃げない。
エレノア様。
次は、ヴァルツェンの中にある傷を見に行きましょう。
あなたを責めるためではなく。
あなたを正しい人にするためでもなく。
あなたが守ったものと、傷つけたものを。
どちらも、あなたの名前で受け止めるために。




