第20話 空席に戻らない
王都から、二つの紙が届いた。
一つは、聖女リリアナ慈善基金からの実務報告。
もう一つは、王都報の新しい紙面だった。
同じ出来事が、別々の紙に載っている。
最近、そういうものが一番厄介だと分かってきた。
「先に、慈善基金の報告を」
私が言うと、ユリスが頷いた。
北雪の灰麦粥用粉は、王都東区救貧院、南区孤児院、教会施療院で試された。
丸印の細粉は、病人や小さな子供の粥に使われた。
斜線印の粗粉は、年長児や大人向けに使われた。
丸印に横線を加えた塩入りの細粉は、熱のある子にも飲み込みやすかったらしい。
絵入りの使用札も、役に立った。
字を読む余裕のない時、鍋の絵、椀の水線、袋の角を切る点が助けになった、とある。
よかった。
そう思った。
ただ、改善点も戻ってきている。
味が地味。
粗粉は煮方が悪いとざらつく。
袋の点が小さい。
丸印と、丸印に横線を入れた塩入り細粉を、急いでいる時に見間違えそうになった。
どれも大事な声だった。
「点は大きくします。袋の角には、切り込みを入れられないか袋職人に確認してください」
「かしこまりました」
「塩入り細粉は、袋の結び方も変えます。塩なしは一重、塩入りは二重に。印だけに頼らないように」
「薬草袋と同じ運用ですね」
「はい」
「味については、蜂蜜を増やしますか」
ユリスの問いに、私は少し黙った。
甘くすれば食べやすくなる。
けれど蜂蜜は高い。
慈善用に蜂蜜を増やしすぎれば、今度は菓子に近づく。
救貧院で求められているのは甘味なのか、腹に入る温かい食事なのか。
そこを間違えると、また見栄えの方へずれていく。
「蜂蜜は増やしません」
私は言った。
「ただし、豆粥や薄い野菜粥に混ぜる使い方を、使用札に追加します。味が足りない場合は、甘みではなく、粥そのものの具で補う形に」
「承知しました」
「粗粉のざらつきについては、煮る時間を少し長めに。燃料が少ない施設には丸印細粉を優先するように書き添えてください」
「はい」
実務としては、これで処理できる。
報告を受け、直す。
使い方を足す。
印を変える。
結び方を変える。
用途別表に反映する。
けれど、その日いちばん私の手を止めたのは、実務報告ではなかった。
「女伯様」
ユリスが、もう一枚の紙を手に取った。
「聖女リリアナ慈善基金より、女伯様への礼文が添えられております」
私は少しだけ姿勢を正した。
「読んで」
ユリスは文面を一度目で追い、それからゆっくり読み上げた。
「ヴァルツェン伯へ。北雪の灰麦粥用粉は、救貧院と孤児院で温かい食事となりました。華やかな品ではありません。けれど、今必要とされているのは、まさしくこうした地味で確かな支援でした」
華やかな品ではありません。
地味で確かな支援。
その言葉に、胸の奥が揺れた。
リリアナ妃殿下は、分かっている。
少なくともこの文面の中では、白百合の飾りではなく、温かい粥として受け取っている。
ユリスは続けた。
「絵入りの使用札、印を分けた袋、粥に混ぜられるよう整えられた配合。そうした配慮が、現場の助けになったと聞いております。ヴァルツェンよりの支援に、リリアナは深く感謝します」
リリアナは。
公式文書にしては、少しだけ近い言葉だった。
私は、しばらく何も言えなかった。
嬉しい。
そう思っていいはずだった。
灰麦粥用粉は、飾りではなく食べ物として届いた。
白百合の箱の中に、灰麦が入った。
リリアナ妃殿下本人が、それを地味で確かな支援だと認めてくれた。
なら、喜んでいいはずだ。
けれど、私の胸の奥には、喜びだけではないものが沈んでいた。
「原本を保管してください」
私は言った。
「領政記録へ」
「私的記録ではなく?」
ユリスが確認する。
「領政記録です。これは、ヴァルツェンの食料支援に対する正式な反応です」
そう言わなければ、私の感情が先に動いてしまいそうだった。
リリアナ妃殿下の手紙は、善意だった。
きっと、本当に善意だった。
だからこそ、怖い。
善意の言葉が、誰かを傷つけることもある。
そのことを、私はもう知っている。
「王都報は」
オルドが静かに言った。
「こちらでございます」
ユリスが王都報を開く。
読みたくなさそうな顔をしていた。
でも、私は頷いた。
「読んで」
「聖女リリアナ妃殿下、救貧院へ白百合の慈愛を届ける。北西辺境より献じられた保存食を、妃殿下の慈悲により貧しき子らへ配布」
来た。
やっぱり来た。
「聖女リリアナ妃殿下は、北西の厳寒地より届いた品を自ら救貧院へ振り向け、貧しき者へ温かな食を与える御心を示された。新王陛下の御代において、王都と辺境は慈愛により結ばれる」
私は目を閉じた。
嘘ではない。
完全な嘘ではない。
だから厄介だった。
救貧院へ届いた。
リリアナ妃殿下が受け取った。
温かな食事になった。
そこまでは、確かにそうだ。
でも、そこにハンナの手はない。
酒粕を減らし、蜂蜜を調整し、干し豆を細かくした試作の時間はない。
リタが袋の角に気づいたこともない。
ユリスが何度も描き直した鍋と椀の絵もない。
シスター・マルタが、塩入りなら熱のある子にも飲ませやすいと返してくれたこともない。
袋職人が線を濃くしたことも、薬草袋の印と混同しないように悩んだこともない。
全部、白百合の慈愛になっている。
「反論なさいますか」
ユリスが恐る恐る聞いた。
私は首を横に振った。
「しません」
反論しても、たぶん王都では燃料になる。
冷血伯、聖女王妃の慈善に異議。
ヴァルツェン伯、救貧院支援の美談に不満。
いくらでも書ける。
怒りは、王都ではよく燃える。
「ただし、記録します」
私は言った。
「慈善基金の実務報告と、王都報の記事は別々に保管してください。王都報は、実務が美談に変わる過程の記録として残します」
「かしこまりました」
「王都報を見て追加注文が来る可能性があります。北雪の灰麦粥用粉は、販売用の菓子ではありません。用途を分けてください。美談に乗って増産しないこと。領内備蓄を圧迫しない範囲で」
「承知しました」
オルドが静かに礼をした。
その表情は変わらない。
けれど、目だけが少し重かった。
オルドも分かっているのだ。
この構図を。
きっと、ずっと前から。
その夜、私は精神世界の扉の前に座った。
扉の隙間から漏れる暖炉の光は、以前よりずっと強くなっている。
でも、扉はまだ開かない。
「リリアナ妃殿下から、礼文が来ました」
私が言うと、扉の向こうは静かになった。
「内容は」
「灰麦粥用粉が、救貧院と孤児院で温かい食事になったと。華やかな品ではないけれど、今必要なのは、こうした地味で確かな支援だったと」
私は少し言葉を選んだ。
「絵入りの使用札や、印を分けた袋や、粥に混ぜられるようにした配合にも触れていました。現場の助けになったと」
返事はなかった。
私は続ける。
「リリアナ妃殿下は、ちゃんと受け取ってくれたんだと思います。飾りじゃなくて、食べ物として」
長い沈黙。
やがて、エレノア様の声がした。
「リリアナ様らしい言葉です」
静かな声だった。
けれど、私はすぐに違和感を覚えた。
怒っていない。
喜んでもいない。
ただ、遠い。
まるで、今届いた手紙ではなく、もっと昔の何かを見ているような声だった。
「エレノア様」
「何ですか」
「今、何を思い出しましたか」
扉の向こうで、紙が動く音が止まった。
少しだけ踏み込みすぎたかもしれない。
でも、聞かなければならない気がした。
「あの方は」
エレノア様は、ゆっくりと言った。
「良いものを、良いものとして見つけることができる方でした」
「それは、悪いことではないですよね」
「はい。悪いことではありません」
少しだけ間が空いた。
「王都の救貧院へ冬布を送った時も、そうでした」
「冬布?」
「厚手の布です。王太子殿下は、貧しい者が寒さに震えぬようにと仰った。リリアナ様も、とても喜ばれました。良い案だと」
私は黙って聞いた。
「でも、布はそのままでは小さな子には使えません。切る者が必要です。縫う者が必要です。誰にどの大きさを渡すか、先に調べる者も必要です」
「それを、エレノア様が?」
「手配しました。配布日を遅らせ、縫製費を出し、教会ごとに必要数を確認するように」
「それで、どうなったんですか」
「王太子殿下の慈愛と、リリアナ様の祈りが、王都で称えられました」
胸の奥が、すっと冷えた。
それは、良いことだったのだろう。
冬布は届いた。
寒い子供が、布を受け取った。
王太子殿下も、リリアナ様も、本当に善意で動いた。
でも。
布を切る人を探したこと。
縫製費をつけたこと。
教会ごとの必要数を確認したこと。
配布を遅らせたせいで、冷たいと言われたこと。
そこは、きっと美談の外に置かれた。
「今回も、同じですか」
「同じではありません」
エレノア様は、すぐにそう言った。
「リリアナ様は、確かに灰麦粥用粉を食料として受け取られた。装飾ではなく、温かい食事として。その判断は、正しい」
「でも」
「でも、その粉がどう作られたかまでは、王都には届かないでしょう」
静かな声だった。
「灰麦を挽いた者。配合を変えた者。袋に印をつけた者。使い方の札を直した者。失敗して、そこから改善点を見つけた者。そういう手は、王都では一つの言葉にまとめられます」
「白百合の慈愛」
「はい」
私は膝の上で手を握った。
怒りがあった。
でも、それだけではなかった。
リリアナ妃殿下の手紙は、きっと本当に善意だ。
彼女は地味な支援を地味なまま評価してくれた。
そのことまで、私は否定したくない。
けれど、その善意がエレノア様の古い傷に触れてしまうことも、なかったことにはできない。
「リリアナ様の手紙は、善意だと思います」
「はい」
「でも、善意でも傷つくことはあります」
扉の向こうは、黙った。
「私は、そこを混ぜません。リリアナ様が善良なことと、エレノア様が傷ついたことを、どちらか片方にしません」
「……混ぜない」
「はい」
私はまっすぐ扉を見た。
「リリアナ様の善意も記録します。王都報が美談にしたことも記録します。ハンナさんが配合を直したことも、リタが袋の角に気づいたことも、ユリスが札を描いたことも、シスター・マルタが塩入りを提案したことも、全部別々に記録します」
扉の向こうで、かすかに息を呑む気配がした。
「善意だからといって、誰かの手間を消しません。傷ついたからといって、誰かの善意を悪意に変えません」
自分で言いながら、胸が痛かった。
これは簡単なことではない。
人は、どちらかにしたくなる。
良い人か、悪い人か。
被害者か、加害者か。
正しいか、間違っているか。
でも、この物語はそうではない。
少なくとも、エレノア様の人生は、そんなふうに分けられない。
「玲奈」
「はい」
「あなたは、本当に記録が好きですね」
「はい」
私は少しだけ笑った。
「地味なものが好きなので」
「知っています」
その言葉に、胸が少し温かくなる。
知っています。
エレノア様が、私のことを少しずつ知っている。
「私は」
扉の向こうで、エレノア様の声が小さくなった。
「また戻ればいいのかもしれないと、少しだけ思いました」
私は息を止めた。
「王都でまた同じことが起きるなら。誰かが表を作らなければならないなら。善意が、誰かの手間を消してしまうなら」
「戻らなくていいです」
私は即答した。
扉の向こうが静かになる。
「王都があなたの仕事を必要としていることと、あなたが王都に戻って傷つき直すべきことは、別です」
「……別」
「はい。別です」
「私は、混ぜていたのですね」
「たぶん」
「王都に穴があるなら、私が埋めるべきだと」
「もう、そうしなくていいです」
長い沈黙の後、エレノア様は静かに言った。
「王都の空席には、戻りません」
それは、誰かを責める言葉ではなかった。
勝ち誇る言葉でもなかった。
ただ、もう一度同じ場所で壊れないために、自分の足元へ引いた線だった。
私は、しばらく何も言えなかった。
言葉にしたら、泣いてしまいそうだった。
「はい」
ようやく、それだけ答える。
「戻らなくていいです」
扉の向こうで、かすかに布が擦れる音がした。
「玲奈」
「はい」
「……あなたが、そう言い続けたからです」
息が止まった。
「私一人では、たぶん、また同じように考えました。王都で穴が空いたなら、私が戻って埋めるべきだと。そうするのが、私の責任だと」
エレノア様の声は、少しだけ低かった。
けれど、いつものように硬く閉じてはいなかった。
「ですが、あなたは何度も言いました。戻らなくていいと。王都の穴を埋めることと、私が傷つき直すことは別だと」
「はい」
「……助けられました」
最後の一言は、本当に小さかった。
扉越しでなければ、聞き逃していたかもしれない。
助けられました。
エレノア様が。
あのエレノア様が。
私に。
まずい。
心臓が、明らかに領地運営に向いていない動きをした。
推しからの感謝。
しかも、少し恥ずかしそうなやつ。
これは駄目だ。
いや、駄目ではない。
最高だ。
でも駄目だ。
ここで叫んではいけない。
扉の前で床を転げ回ってはいけない。
今の私は、ヴァルツェン女伯の身体を預かっている身である。
精神世界だからといって、推しからの感謝に限界化してよい理由にはならない。
ならない。
たぶん。
「……玲奈?」
「はい。生きています」
「なぜ生存確認を?」
「少し、心臓が」
「心臓?」
「いえ。問題ありません。大変問題ありません」
「問題がある時の言い方です」
扉の向こうの声に、ほんのわずかな戸惑いが混じった。
それすら、今の私には危険だった。
可愛い。
いや違う。
尊い。
いや、それも違わないけど今は違う。
私は両手で頬を押さえ、深く息を吸った。
「エレノア様」
「何ですか」
「私の方こそ、ありがとうございます」
「なぜ、あなたが」
「あなたが、戻らないと決めてくれたからです」
扉の向こうが静かになる。
「私は、あなたに王都へ戻ってほしくありません。あなたが必要だから便利に使われる場所ではなく、あなたがあなたとして座れる場所にいてほしいです」
言いながら、胸が熱くなった。
「だから、今の言葉を聞けて、嬉しいです」
長い沈黙の後、エレノア様が小さく言った。
「……そうですか」
その声は、少しだけ照れているように聞こえた。
私はもう一度、心の中で床を転がった。
現実に戻った私は、私的業務記録を開いた。
王都から届いた報告と、こちらで決めた対応を、いつも通り記録した。
できるだけ淡々と。
感情で記録を濁さないように。
リリアナ妃殿下の善意も。
王都報が作った美談も。
灰麦粥用粉をめぐって動いた人たちの手間も。
混ぜずに、別々のものとして残すために。
けれど最後に、一行だけ追記した。
王都の空席には、戻らない。
書いた瞬間、指が少し震えた。
これは私の言葉でもあり、エレノア様の言葉でもある。
王都には、確かに空席がある。
エレノア様が座っていた席。
理想と実務の間で、誰にも感謝されず、むしろ冷たいと呼ばれながら埋めていた席。
その席が空いたから、照会状が届く。
用途別表が抜ける。
慈善が飾りになる。
でも、だからといって、エレノア様が戻る必要はない。
王都の穴は、王都が見つめるべきだ。
こちらはこちらで、ヴァルツェンを回す。
雪の中で。
薪を数えて。
粥を煮て。
薬草袋に印をつけて。
灰麦の粉を、食べられる形にして。
私は窓の外を見た。
雪は、まだ降っている。
王都の白百合は、きっと今日も美しく飾られている。
けれど、こちらには灰麦がある。
硬い黒パンがある。
丸印と斜線印がある。
泣きそうになりながらも、失敗を報告してくれる下働きがいる。
表を増やして目を輝かせる文官がいる。
厳しい薬草庫の管理人がいる。
そして、扉の向こうにエレノア様がいる。
私はペンを置いた。
王都に戻らない。
それは逃げではない。
ここに残るという、選択だ。
エレノア様。
あなたの居場所を、ここに作りましょう。
空席を埋めに戻るのではなく。
あなたが、あなたの名前で座れる場所を。
このヴァルツェンに。




