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断罪後の悪役令嬢も、私は推している  作者: Manabit
第三章 王都に残された空席

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第17話 読めない人にも届くように


 北雪の灰麦粥用粉は、思っていたより早く役に立った。


 王都へ送る前に、城館の厨房で試した時のことだ。


 鍋に水を入れる。


 火にかける。


 粉を入れる。


 混ぜる。


 少し煮る。


 それだけの手順なのに、作る人によって仕上がりが違った。


 ミーナが作ると、なめらかだった。


 厨房の年配女中が作ると、少し固めだった。


 若い下働きの娘が作ると、粉の塊が残った。


 味は同じはずなのに、口当たりが違う。


 私は三つの椀を前にして、しばらく黙った。


 食べ方まで届けなければ、食料支援ではなく荷である。


 昨夜、私的業務記録にそう書いた。


 その意味を、いきなり城館の厨房で突きつけられた気がした。


「同じ量を入れたのですよね」


 私が聞くと、若い下働きの娘が青ざめた。


「は、はい。女伯様。札に書かれていた通りに」


 彼女の手は震えている。


 責められると思っているのだろう。


 冷血伯に料理を失敗したと見なされたらどうなるか。


 そういう顔だった。


 私はすぐに首を横に振った。


「責めているのではありません」


 娘がさらに目を丸くする。


 しまった。


 これも驚かれるやつだ。


 でも、今はそれどころではない。


「同じ札を見て作っても、結果が違うなら、札が足りないということです」


「札が、でございますか」


「ええ」


 私は三つの椀を見比べた。


 粉の量。


 水の量。


 煮る時間。


 火加減。


 混ぜる回数。


 文字では書いた。


 絵も入れた。


 でも、まだ足りない。


 とくに火加減と混ぜ方は、経験がないと分からない。


 この世界の台所で働く人なら大丈夫だと思っていた。


 でも、誰もが同じように鍋を扱えるわけではない。


 まして、王都の救貧院や孤児院なら、忙しい人が短い時間で作る。


 新人が作ることもある。


 文字が読めない人もいる。


 疲れている人もいる。


 その人たちに「分かるはず」で渡したら、また現場へ手間を押しつけることになる。


「女伯様」


 ミーナが静かに言った。


「こちらの娘は、厨房に入ってまだ日が浅うございます」


「名前は?」


 娘はびくりとした。


「リ、リタでございます」


「リタ」


「はい」


「あなたが作ってくれて、助かりました」


 リタはぽかんとした。


 周りの使用人も、少し空気を止めた。


 いや、だから驚かないでほしい。


 失敗が見つかった時に、作った人を責めていたら、次から誰も試せなくなる。


 それでは困る。


「経験の浅い人が作ってこうなるなら、王都でも同じことが起きます。今分かってよかった」


 私はリタの椀を手に取った。


 粉の塊が残っている。


 食べられないほどではないが、小さな子や病人には向かない。


「どこで難しかった?」


 リタは困ったようにミーナを見た。


 ミーナが小さく頷く。


「……粉を入れるところでございます。一度に入れると固まって、慌てて混ぜました」


「一度に入れたのですね」


「はい。札には、粉を入れる、とございましたので」


 その通りだ。


 札には粉を入れると書いた。


 少しずつ入れる、とは書いていない。


 私が悪い。


 いや、私だけではない。


 表を作ったユリスも、試作したハンナも、厨房で確認した全員が見落とした。


 分かっている人には、分かっていること。


 それが一番危ない。


「ユリスを呼んでください。それから、ハンナにも」


「かしこまりました」


 ミーナがすぐに動く。


 リタはまだ青い顔をしていた。


 私は彼女を見る。


「リタ」


「はい」


「もう一度作ってもらえますか」


「わ、私が、ですか」


「ええ。次は、粉を少しずつ入れる形で。ミーナ、横で見ていて。手伝わずに」


 ミーナは一瞬だけ迷い、それから頷いた。


「承知いたしました」


 リタは緊張したまま、再び鍋の前に立った。


 私は少し離れて見た。


 手を出したくなる。


 声をかけたくなる。


 でも、我慢した。


 実際に使う人がどこで迷うかを見なければならない。


 これは、命令書や用途別表と同じだ。


 机の上で整っていても、現場で使えなければ意味がない。


 リタは水を入れた。


 火にかけた。


 粉を少しつまみ、迷った。


「どのくらいずつ、でございましょうか」


「そこも、分からないのですね」


 私は頷いた。


「いい質問です」


 リタがさらに困った顔をする。


 いや、褒めている。


 本当に褒めている。


「小匙一杯ずつ、という表記は通じますか」


 私が聞くと、厨房の年配女中が首を傾げた。


「匙の大きさが家によって違います」


 そうだった。


 現代の計量スプーンは偉大だった。


 この世界の匙は、揃っていない。


「では、袋に小分けする量を一鍋分にできますか」


 年配女中が少し考える。


「一鍋の大きさが、施設で違います」


 それもそう。


 私は額に手を当てそうになった。


 だめだ。


 思ったより難しい。


 水何ミリリットル、粉何グラム、弱火で何分。


 そんな便利な単位と道具はない。


 現代知識、使えそうで使えない。


 万能ではない。


 この世界に合わせないと、ただの浮いた知識になる。


「鍋の大きさを基準にするのは駄目ですね」


 私はつぶやいた。


「では、椀を基準にします。食べる椀一杯分の水に対して、粉をこの小袋の半分。二杯分なら一袋」


 ミーナが頷いた。


「それなら、配布先でも分かりやすいかと」


「小袋をさらに半量線で分けましょう。袋に線を入れる。ここまでで椀一杯分」


「袋に線、でございますか」


「はい」


 文字ではなく、線。


 絵ではなく、目印。


 読めない人でも分かる。


「札の絵も変えます。粉を一度に入れる絵ではなく、少しずつ振り入れる絵に。鍋の横に、椀の絵を描いて、水の量を椀で測ると分かるように」


 自分で言いながら、どんどん説明札が複雑になっていくのを感じた。


 でも、複雑に見えても、使う時に迷わないならその方がいい。


 文字を増やすのではなく、行動を減らす。


 使う人が考えなくて済む形にする。


 それがたぶん大事だ。


 ユリスが駆けつけた時、厨房の卓には椀と袋と粉と札が並んでいた。


「女伯様、何か不備が」


「不備だらけでした」


 私は正直に言った。


 ユリスの顔が固まる。


「使い方の札が足りません。粉を少しずつ入れること。椀で水を測ること。小袋に半量線を入れること。火加減は、鍋の底が焦げない程度と書いても分かりづらいので、湯気が立ってから粉を入れる形に変えます」


 ユリスは一瞬黙ったが、すぐに書き始めた。


 さすがだ。


 反省は後。


 今は記録。


「使用者の経験差も記録してください。厨房経験者、経験の浅い者、文字が読める者、読めない者。それぞれで試す必要があります」


「文字が読めない者にも、ですか」


「はい。救貧院や孤児院で、必ず読める人だけが調理するとは限りません」


 ユリスのペンが少し止まった。


「私たちは、文書を読むことを前提にしすぎていたのですね」


「私もです」


 そこは、はっきり言った。


 現代にいた頃の私は、読めば分かる説明を当然だと思っていた。


 でも、読めない人もいる。


 読めても忙しくて見落とす人もいる。


 見えていても、経験がなくて分からない人もいる。


 支援を受け取る人たちは、完璧な状態で待っているわけではない。


 疲れている。


 寒い。


 人手が足りない。


 だからこそ支援が必要なのだ。


 その前提を忘れてはいけない。


 ハンナが到着したのは、それから少し後だった。


 彼女は話を聞いて、頭をかいた。


「そりゃ、そうですね。あたしらは粉を少しずつ入れるもんだと思ってました」


「私も、途中までそう思っていました」


「小袋に線か。面白いですね」


「できますか」


「できます。袋職人に頼めば。ただ、手間賃は増えます」


「増える手間と、現場で砕いたり失敗したりする手間を比べます」


「女伯様、最近そういうこと言うようになりましたね」


「以前は?」


「以前の女伯様なら、どちらが総量で少ないかだけ聞いたと思います」


「今も聞きます」


「でも、現場で泣く人の顔まで見ようとしてます」


 ハンナは、なんでもないことのように言った。


 私は一瞬、返事に困った。


 現場で泣く人の顔。


 それは、エレノア様の記憶にもあるものだ。


 冬税の時。


 薪配分の時。


 聖マルタ教会の時。


 泣く人がいる。


 怒る人がいる。


 黙って受け取る人がいる。


 帳簿には数字で載るけれど、その向こうには顔がある。


「見すぎると、判断が鈍るでしょうか」


 私は聞いた。


 ハンナは少し考えた。


「見ないよりは、いいんじゃありませんか」


「そうでしょうか」


「見たうえで決めるなら。見て泣いて何もしないなら困りますけど」


 かなり率直だ。


 でも、正しい。


「見たうえで決めます」


「なら、いいと思いますよ」


 ハンナは粉を手に取り、指先で擦った。


「粥用粉は、もう少し粗さを揃えた方がいいですね。細かい粉と荒い欠片が混ざると、煮え方が違う」


「できますか」


「ふるいを使います。細かすぎる粉は病人用。少し粗い方は年長児用。分けましょう」


「また用途が増える」


「増えますね」


 ハンナはにやりと笑った。


「でも、食べる人が違うなら、分けるしかないでしょう」


 用途別表がまた増える。


 ユリスが遠い目をした。


 気持ちは分かる。


 でも、やるしかない。


「ユリス」


「はい」


「粥用粉を二種類に分けます。細粉、病人・幼児向け。粗粉、年長児・成人向け。袋の印を変えましょう」


「文字ではなく?」


「印で。細粉は丸。粗粉は斜線」


「丸と斜線」


「王都用には文字も入れます。領内用にも、読める人向けに文字を。ただ、印だけでも分かるように」


「かしこまりました」


 その日の厨房は、執務室よりもよほど領政の場だった。


 鍋。


 粉。


 袋。


 椀。


 札。


 火加減。


 ふるい。


 印。


 すべてが、誰かの食事につながっている。


 私はふと、王都の大理石の会議室を思い浮かべた。


 白百合。


 王冠。


 礼拝堂。


 祝宴。


 華やかな言葉。


 そこでは、灰麦粉の粗さなど話題にもならないかもしれない。


 でも本当は、そういうことこそが支援の形を決める。


 誰かが粉をふるい、袋に線を入れ、札に絵を描く。


 それで、ようやく小さな子の椀に粥が入る。


 夜、私は精神世界の扉の前で、今日の失敗を報告した。


「使い方の札が、まだ足りませんでした」


「どのように」


「粉を少しずつ入れる、と書いていなかったんです。経験の浅い下働きの子が一度に入れて、塊が残りました」


「よくある失敗です」


「よくあるんですか」


「はい。手順を知っている者は、知らない者がどこで迷うかを忘れます」


 エレノア様の声は静かだった。


 責める響きはない。


 むしろ、どこか懐かしむような響きがあった。


「王都でも?」


「礼法書で、似たことがありました」


「礼法書?」


「地方貴族の令嬢向けに、王宮礼法の簡易冊子を作ったことがあります。王太子殿下の婚約者として、茶会での混乱を減らすために」


「そんなことまでしていたんですか」


「必要でした」


 いつもの言葉。


 必要でした。


 それだけで片づけるには、あまりにも広い仕事だ。


「最初の冊子は失敗しました」


 エレノア様が言った。


 私は少し驚いた。


 エレノア様が自分から失敗を話すのは、珍しい。


「なぜですか」


「私にとって当然のことを書き落としました。入室前に手袋を整えること。扇を開く角度。席次を確認する前に挨拶へ向かわないこと」


「それは、かなり細かいですね」


「細かいことが、王宮では失点になります」


「厳しい」


「厳しい場所です」


 その声は、少し冷えていた。


 王宮。


 エレノア様が育ち、努力し、疲弊し、断罪された場所。


 そこでは手袋の整え方ひとつも、失点になる。


「どう直したんですか」


「侍女に読ませました」


「侍女に?」


「王宮に不慣れな者へ。どこが分からないかを聞きました。すると、私が書いた冊子は、知っている者にしか分からないと分かった」


 私は、厨房のリタを思い出した。


 粉を一度に入れた下働きの娘。


 彼女がいたから、不備が分かった。


「同じですね」


「はい」


「知っている人だけで作ると、知らない人に届かない」


「その通りです」


 私は扉の前に座った。


「今日、リタという下働きの子に作ってもらいました。失敗して青ざめていました」


「責めましたか」


「責めません」


「なら、よろしい」


 少しだけ、ほっとした声だった。


「失敗してくれて助かったと言いました」


「それは、少し言い方が変です」


「やっぱりですか」


「はい」


 扉の向こうで、空気が少しだけ柔らかくなる。


「でも、意味は分かります。試作の失敗は、配布先の失敗を減らします」


「はい」


「そのリタには、次も試させなさい」


「え?」


「一度目の失敗で外すと、彼女は失敗したまま終わります。二度目に改善できれば、彼女自身が使い方を理解します」


 私は目を見開いた。


 エレノア様。


 それ、すごく教育的です。


 いや、言ったらまた困らせる。


「分かりました。次もリタに試してもらいます」


「記録も取りなさい。経験の浅い者がどこで迷うかは、貴重です」


「はい」


 やっぱり教育的だ。


 そして実務的だ。


「エレノア様は、地方令嬢向けの礼法冊子を直したんですよね」


「はい」


「それで、評価されましたか」


 少し踏み込んで聞いた。


 扉の向こうは静かになった。


「冊子は使われました」


「評価は?」


「王太子殿下が、地方令嬢にも優しい茶会を開いたと評価されました」


 私は息を止めた。


 エレノア様の冊子が使われた。


 混乱が減った。


 でも評価されたのは王太子殿下。


 きっとエレノア様は、その裏にいた。


 手袋の整え方を書き、扇の角度を書き、不慣れな令嬢が恥をかかないように冊子を直した人は、表には出なかった。


「……それ、あなたの仕事ですよね」


「王太子殿下の茶会です」


「でも、冊子を作ったのはあなたです」


「儀礼補佐です」


「便利な言葉ですね、儀礼補佐」


 つい言ってしまった。


 扉の向こうで、沈黙。


 しまった。


 少し刺が出た。


「ごめんなさい」


「いいえ」


 エレノア様の声は静かだった。


「便利な言葉です。本当に」


 その言葉が、胸に沈んだ。


 便利な言葉。


 儀礼補佐。


 政務補助。


 婚約者の務め。


 その言葉の中に、どれだけの仕事が押し込められていたのだろう。


「玲奈」


「はい」


「怒っていますか」


「少し」


「少し?」


「かなり」


「でしょうね」


 もう読まれている。


「でも、怒りを判断の代わりにはしません」


「覚えていますね」


「はい」


「では、今回の札を完成させなさい。怒るのは、その後でもできます」


「はい」


 私は少し笑った。


 怒るのは後でもできる。


 エレノア様らしい。


 すごく実務的な怒りの扱い方だ。


 現実に戻った私は、私的業務記録を開いた。


 北雪の灰麦粥用粉、使用札再検討。


 厨房にて試作。


 経験者、問題少。


 経験浅い者、一度に粉を入れ、塊が残る。


 原因。


 粉を少しずつ入れる記載なし。


 水量基準不明確。


 匙の大きさに差あり。


 鍋の大きさに差あり。


 対応。


 椀を基準とする。


 小袋に半量線を入れる。


 粉は少しずつ振り入れる。


 絵入り札修正。


 鍋、椀、水、粉袋、湯気、混ぜる手順。


 細粉、病人・幼児向け。丸印。


 粗粉、年長児・成人向け。斜線印。


 リタに再試作を依頼予定。


 失敗箇所の記録を続ける。


 そこまで書いて、私は少し迷い、もう一行加えた。


 知っている者だけで作ると、知らない者に届かない。


 これは、灰麦粥用粉の話だ。


 でも、それだけではない。


 礼法冊子も。


 用途別表も。


 命令書も。


 支援も。


 全部、同じなのだ。


 分かっている人だけで作った仕組みは、分からない人の前で崩れる。


 そして、崩れた時に責められるのは、たいてい一番弱い人だ。


 下働きのリタ。


 救貧院の厨房係。


 地方令嬢。


 孤児院の子供。


 そういう人たちが、最後に困る。


 私はペンを置いた。


 窓の外では、雪が降っている。


 王都にも、ヴァルツェンにも、読めない人がいる。


 忙しすぎて読めない人がいる。


 読めても分からない人がいる。


 なら、そこまで考える。


 それが、たぶん統治だ。


 エレノア様。


 あなたがかつて、王宮の茶会で誰かに恥をかかせないように冊子を直したように。


 私は今、灰麦粥の札を直します。


 地味で、細かくて、誰にも褒められないかもしれない仕事を。


 でも、それで誰かが失敗しなくて済むなら。


 それは、きっと必要な仕事です。


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