第16話 食べ方まで届けなければ
北雪の灰麦菓子は、王都へ届いた。
ロイ・ベルナーからの報告では、販売用の第二便も悪くない動きをしているらしい。
劇場帰りの客が冬葡萄酒と一緒につまむ。
酒場の主人が「甘くないのがよい」と追加を求める。
硬いと文句を言いながら、もう一欠片取る客がいる。
そういう、小さな声が書き添えられていた。
私はその報告を読んで、少しだけほっとした。
王都にも、噛んでくれる人はいる。
噂だけではなく、味として受け取ってくれる人もいる。
そう思えたからだ。
だが、同じ日に届いた別の報告は、もう少し重かった。
聖女リリアナ慈善基金を通じて、救貧院と孤児院へ配布された灰麦菓子についての確認書。
封蝋は白百合ではなく、慈善基金の事務印だった。
中身は礼状ではない。
実務報告だった。
私はその時点で、少し姿勢を正した。
綺麗な礼状より、実務報告の方が重要なことは多い。
「読み上げます」
ユリスが文書を手に取った。
「王都東区救貧院より。北雪の灰麦菓子、保存性良好。成人および年長児にはそのまま配布可能。幼児および病人には、粥へ砕き入れる方法を試行」
よかった。
まずは、そこまで思った。
だが、ユリスの声は少しだけ硬くなった。
「ただし、粥へ用いるには、砕く手間と加熱時間が想定より多い。燃料の少ない施設では、通常の粥炊きに加えて扱うことが難しい場合あり」
私は息を止めた。
燃料。
また、そこへ戻る。
灰麦菓子を送った。
食べられるものを送った。
飾りではなく、食料として届いた。
それで終わりではなかった。
食べるためには、砕く手がいる。
粥に入れるなら、火がいる。
鍋がいる。
水がいる。
燃料がいる。
王都の救貧院にも、薪は無限にあるわけではない。
「南区孤児院からは?」
私が聞くと、ユリスは次の紙へ目を落とした。
「同様です。年長児には好評。ただし、小児には硬い。砕けば食べられるが、厨房人員が足りず、配布時に一人ずつ砕くことは難しい、と」
「施療院は」
「病人向けには、そのままでは不可。粉状にして粥へ混ぜるなら使用可。ただし、現在の形では砕く際に欠片が飛び、手間がかかるとのことです」
私は机の上に置かれた小袋を見る。
北雪の灰麦菓子。
配布用。
薄く、砕きやすくしたつもりだった。
酒粕も減らした。
蜂蜜も少し増やした。
干し豆も細かくした。
それでも、足りなかった。
私は唇を結んだ。
まただ。
こちらで良いと思ったものが、現場では別の手間になる。
善意は、形にしただけでは届かない。
使い方まで届かなければ、支援にならない。
「女伯様」
ユリスが、不安そうに私を見た。
「王都側からは、追加希望も来ております。ですが、同時に、幼児・病人向けには改良が必要とのことです」
「当然です」
私は言った。
ユリスが少し目を見開く。
「当然、でございますか」
「ええ。使いにくいものを送ったのなら、直します」
言いながら、胸の奥に小さな痛みがあった。
悔しい。
正直、悔しい。
食べ物として受け取ってもらえたことが嬉しかった分、実際には使いづらかったという報告は刺さる。
でも、そこで落ち込んで止まっている場合ではない。
聖マルタ教会の粥鍋もそうだった。
炊き出しを頼めば、教会の薪が減る。
子供を預かれば、寝床と薬草が減る。
祈りや善意の向こうには、必ず手間と燃料がある。
王都でも同じだ。
「ハンナを呼んでください」
「はい」
「それから厨房に、灰麦菓子を粉状にした場合の保存性を確認させて。袋詰めで湿気を吸うかどうか。冬葡萄酒粕を減らした配布用で、粉にしても香りが保てるか」
「かしこまりました」
「ユリスは用途別表に、新しい欄を追加してください。対象年齢、調理方法、必要燃料、必要人員」
「必要燃料、ですか」
「はい。食料は、調理できなければ食料になりません」
ユリスは一瞬黙り、それから強く頷いた。
「承知しました」
その顔に、少しだけ悔しさが見えた。
私と同じだ。
たぶんユリスも、送れば終わると思いたかったのだ。
でも違った。
届いた先で使われて、初めて意味がある。
午後、ハンナは粉まみれの前掛けのまま城館へ来た。
「女伯様、王都から文句が来たんですって?」
「文句ではありません。実務報告です」
「似たようなもんですよ」
ハンナは遠慮がない。
だが、この遠慮のなさが助かる。
彼女は配布用の灰麦菓子を手に取り、指で割った。
ぱき、と乾いた音がする。
「年長の子ならいいです。けど小さい子や病人には、まだ硬い」
「粉にできますか」
「できます。ただ、最初から粉にするなら菓子というより、灰麦粥の素ですね」
「灰麦粥の素」
現代日本人的には、かなり分かりやすい。
インスタント粥、とはいかないけれど、砕く手間をこちらで済ませておくわけだ。
「焼いてから砕くのと、粉のまま乾かすのでは違いますか」
「違います。焼いてから砕いた方が香りはいい。ただ、粉が荒いと小さい子には残る。細かくしすぎると湿気やすい」
「湿気対策は」
「袋を二重にする。あるいは小分け」
「費用が増えますね」
「増えます」
ハンナはきっぱり言った。
「でも、使う側は楽になります。鍋に入れて少し煮ればいい。硬い欠片を砕く手間はなくなる」
「燃料は」
「普通の灰麦を煮るより短くて済むはずです。先に焼いてありますから」
それは大きい。
王都の救貧院で燃料が足りないなら、煮る時間を減らせるだけでも意味がある。
「試作をお願いします。名前は」
「またそのままにします?」
「はい。北雪の灰麦粥用粉」
ハンナが吹き出した。
「女伯様、名前を飾る気がないですね」
「ありません」
「王都の人は嫌がりませんか」
「嫌がる人には、白い菓子を食べてもらいましょう」
言ってから、少しだけ我ながら雑だと思った。
でも本音だった。
これは見栄えのための品ではない。
食べるための品だ。
名前は、使い方が分かる方がいい。
「添え文は必要ですね」
ハンナが言った。
「鍋一つに、この粉をどれだけ入れるか。何分煮るか。水が少ない時はどうするか。豆や塩を足すならどのくらいか」
「作れますか」
「女伯様、あたしは字がうまくありません」
「内容を教えてください。ユリスが書きます」
ユリスが少し背筋を伸ばした。
「分かりやすく書きます」
「絵も必要かもしれません」
私が言うと、二人がこちらを見た。
「絵、ですか」
「鍋の絵。粉袋の絵。水の線。煮る時間」
現代の説明書の感覚だ。
文字が読めない人でも、ある程度分かるようにする。
この世界でどこまで通用するかは分からない。
でも、救貧院や孤児院の厨房で、忙しい人が使うなら、文字だけより絵があった方がいい。
「王都の厨房係が読めないとは限りませんが、忙しい時は絵がある方が早いです」
私は言った。
「間違えると、薄すぎたり濃すぎたりします。子供や病人向けなら、扱い方を揃えたい」
ユリスの目が少し輝いた。
「それは、領内配布にも使えます」
「ええ」
私も頷く。
「聖マルタ教会や山間村向けにも応用できます。食材だけではなく、使い方を一緒に配る」
食べ方まで届ける。
これは、たぶん大事だ。
現代日本なら、食品の裏に調理方法が書いてある。
袋の開け方、温め方、保存方法、アレルギー表示。
当たり前すぎて、意識したこともなかった。
でも、この世界では、その当たり前が抜け落ちることがある。
品物を送る。
あとは現場で何とかして。
それでは、現場の手間が増える。
善意が、忙しい人の負担になる。
私はそれを、もう何度も見ている。
「女伯様」
ユリスが言った。
「用途別表に、使用方法欄を追加します。配布先ごとの調理条件も記録します」
「お願いします」
「それと、絵入りの使用札ですが、領内用と王都用で分けますか」
「分けましょう。王都用は丁寧な言葉で。領内用は、短く分かりやすく」
「はい」
ハンナが腕を組んだまま、じっと私を見ていた。
「何か?」
「いや。女伯様が、粉の袋の絵まで気にするとは思わなかったもので」
「変ですか」
「変です」
即答。
最近、本当にみんな遠慮が減ってきた。
「でも、悪くありません」
ハンナはそう付け足した。
「食べ物は、作って終わりじゃないです。食べる人の口に入るまでが仕事ですから」
その言葉が、胸に残った。
食べる人の口に入るまでが仕事。
きっと、統治も同じだ。
命令書を書いて終わりではない。
物資を出して終わりではない。
配った先で使われるまで、仕事は終わらない。
夕方までに、試作品ができた。
北雪の灰麦粥用粉。
焼いた灰麦菓子を細かく砕き、粗い粉にしたもの。
香りは販売用より弱いが、湯に入れるとふわりと甘い匂いが立つ。
蜂蜜は控えめ。
干し豆の粉が少し混ざっている。
厨房で試すと、通常の灰麦粥より早くとろみが出た。
味は、かなり素朴だ。
美味しいかと言われると、すごく美味しいわけではない。
でも、温かい。
胃に落ちる。
病人や小さな子にとっては、たぶんそれが大事だ。
「これで、王都へ確認を出しましょう」
私は言った。
「試供分は少量。使い方の札を同封。救貧院、孤児院、施療院それぞれから使用後の報告をもらう」
「報告を求めるのですか」
ユリスが聞く。
「はい。食べられたか。煮る時間は長すぎないか。子供が嫌がらないか。病人に重くないか。次を作るなら、直すところを知りたい」
「王都側が、細かすぎると感じるかもしれません」
「感じるでしょうね」
私は少し笑った。
「でも、食べ物は口に入るまでが仕事です」
ハンナが少しだけ得意そうな顔をした。
言葉を採用されたからだろう。
こういう顔を見るのは、悪くない。
その夜、精神世界の扉の前で、私は灰麦粥用粉の話をした。
「王都から、灰麦菓子が使いづらいという報告が来ました」
「使いづらい?」
「小さな子や病人にはまだ硬いそうです。粥に入れるにも、砕く手間と燃料がかかると」
扉の向こうは、しばらく静かだった。
「妥当な報告です」
「はい」
「落ち込みましたか」
「少し」
「でしょうね」
「そこまで読まれていますか」
「あなたは、善意が空回りすると落ち込みます」
私は言葉に詰まった。
エレノア様が、私のことをまた少し分かっている。
嬉しい。
でも、少し悔しい。
「落ち込んで終わりにはしませんでした」
「それは良いことです」
「灰麦菓子を粉にして、粥用にしました。煮る時間を短くして、砕く手間を減らします。使い方の札も作ります。文字だけでなく、絵も入れます」
「絵?」
扉の向こうの声が、少しだけ怪訝になった。
「鍋の絵とか、水の線とか、粉袋とかです。忙しい厨房で、ぱっと見て分かるように」
「……変わった発想ですね」
「私のいた世界では、よくありました」
言ってから、少しだけ息を止めた。
私のいた世界。
最近、こういう言い方をしても、エレノア様は前ほど驚かなくなった。
扉の向こうで、紙が動く音がした。
「文字が読めぬ者にも伝わりやすい」
「はい。それに、読める人でも忙しいと間違えます」
「領内でも使えますね」
「ユリスもそう言っていました」
「聖マルタ教会、山間村、騎士団の温食にも応用可能です」
「はい」
「悪くありません」
私は少しだけ胸を押さえた。
悪くありません。
いつもの言葉。
でも、今日は違う響きに聞こえた。
「エレノア様」
「何ですか」
「使い方まで届けるのって、大事ですね」
「当然です」
「当然なんですね」
「品物を送るだけでは、支援とは言えません。届いた先で扱えなければ、ただの荷です」
ただの荷。
その言い方は冷たい。
でも正しい。
「昔、王都でもそういうことがありましたか」
私が聞くと、扉の向こうが少し静かになった。
「冬布の配布で」
エレノア様は、ゆっくりと言った。
「冬布?」
「貧民区へ厚手の布を配る計画がありました。王太子殿下は良い案だと仰り、リリアナ様も賛同なさった」
「いい案に聞こえます」
「はい。ですが、切り分けと縫製の人手が足りませんでした。厚手の布は、そのまま渡されても小さな子には使いづらい。結局、教会の女たちが夜まで縫うことになった」
「その人たちの負担は」
「最初の計画には入っていませんでした」
胸が重くなった。
また同じだ。
良いこと。
優しい案。
でも、使える形にする人の手間が抜けている。
「エレノア様は、止めたんですか」
「修正を求めました。布と一緒に縫製費を出すこと。孤児院ごとに必要寸法を確認すること。配布日を遅らせること」
「それで?」
「冷たいと言われました」
その一言は、とても静かだった。
「急いで配れば寒い者が助かるのに、手続きを理由に遅らせるのか、と」
私は何も言えなかった。
エレノア様は、手続きのために止めたのではない。
ちゃんと使えるようにするために止めた。
でも、王都にはそう見えなかった。
理想を遅らせる冷たい婚約者。
きっと、そう見えた。
「結果は?」
「一部は予定通り配られました。縫製が追いつかず、布のまま積まれたものもありました。後日、追加費用が出ました」
「……それは」
「失敗ではありません。完全な成功でもありません」
エレノア様は淡々と言った。
「王都では、よくあることです」
よくあること。
その言葉が重い。
「私は」
エレノア様の声が、少しだけ低くなった。
「いつも、遅らせる側でした」
「使える形にしようとしていた側です」
「同じように見えるのです。外からは」
「でも、同じじゃありません」
「あなたはそう言うでしょうね」
「言います」
扉の向こうで、小さく息を吐く音がした。
困っているのか。
呆れているのか。
少しだけ、安心しているのか。
まだ分からない。
「玲奈」
「はい」
「今回の灰麦粥用粉は、良い修正です」
私は息を止めた。
「ただし、報告を集めるなら、質問項目を絞りなさい。多すぎると返ってきません」
「確かに」
「食べられたか。煮る時間。子供や病人の反応。追加希望の有無。まずはその四つで十分です」
「はい。そうします」
「燃料についても聞きたいでしょうが、最初から細かく聞くと嫌がられます」
「聞きたいです」
「でしょうね」
「読まれている」
「分かりやすいので」
少し傷つく。
でも、今のやり取りは嫌ではなかった。
「では、燃料は自由記入欄にします」
「よろしい」
よろしい。
今日はそれで満足だ。
現実に戻った私は、私的業務記録を開いた。
王都慈善基金配布品、使用報告。
北雪の灰麦菓子、成人・年長児にはそのまま配布可。
幼児・病人には硬い。
粥に砕くには手間あり。
燃料・厨房人員の少ない施設では扱いに難あり。
対応。
北雪の灰麦粥用粉を試作。
焼成後に粗粉化。
冬葡萄酒粕控えめ。
蜂蜜わずかに増。
干し豆粉砕。
小分け袋。
使用札を同封予定。
絵入り。
鍋、水量、粉量、煮る時間。
王都向け報告項目。
食べられたか。
煮る時間。
子供・病人の反応。
追加希望の有無。
燃料については自由記入。
領内配布にも応用検討。
そこまで書いて、私はペンを止めた。
そして、一行加える。
食べ方まで届けなければ、食料支援ではなく荷である。
少し硬い。
エレノア様っぽい。
でも、今日の実感だった。
荷物を送るだけなら、誰でもできる。
いや、誰でもはできないけれど。
でも、届いた先で使える形にするのは、もう一段階違う仕事だ。
王都の救貧院で、厨房の誰かが袋を開ける。
絵入りの札を見る。
鍋に水を入れる。
粉を入れる。
短い時間で粥にする。
子供が、それを食べる。
そこまで想像して、ようやく支援になる。
私は窓の外を見た。
雪はまだ降っている。
ヴァルツェンの冬は、王都の紙面よりずっと重い。
でも、王都にも寒い部屋はある。
なら、こちらで学んだことを、少しだけ返せるかもしれない。
エレノア様。
あなたが昔、冷たいと言われながら見ていたものを。
今度は、私も一緒に見ます。
品物の向こうにある、手間と火と、人の口に入るまでの道を。




