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断罪後の悪役令嬢も、私は推している  作者: Manabit
第二章 ヴァルツェンの冬

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幕間 老家令は沈黙する

 私がエレノア様を初めてお見かけした時、あの方はまだ、グランディール侯爵家のエレノアお嬢様であられた。


 銀の髪をきっちり結い、背筋を伸ばし、大人たちの話を黙って聞いておられる少女であった。


 幼い方であった。


 けれど、幼さを許されぬ方でもあった。


 グランディール侯爵家の令嬢。


 いずれ王太子殿下の婚約者となり、王家を支えることを求められた方。


 その肩書きは、まだ細い肩には重すぎるように見えた。


 だが、エレノアお嬢様は泣き言を仰らなかった。


 夜更けまで書物を読み、朝には礼法の稽古に立ち、昼には語学と政務の基礎を学び、夕には王宮での立ち居振る舞いを繰り返された。


 食事が冷めても、手を止められなかった。


 眠気で一度だけペン先を落とされたことがある。


 その時も、お嬢様は私に言った。


「問題ありません」


 あの言葉を、私は長く聞き続けることになった。


 先代王妃陛下は、お嬢様を高く評価しておられた。


 今は亡きあの方の声を、私は今でも覚えている。


 あの子は、王太子の隣に飾る花ではない。


 王太子を支える柱になる。


 宰相閣下も同じであった。


 数字に強い。


 記憶が正確だ。


 法の抜け道ではなく、法の限界を見る。


 そのように仰っていた。


 それは、誇らしいことであった。


 同時に、不幸の始まりでもあった。


 王太子殿下は、善良な方であった。


 民を救いたいと願われた。


 正しいことを正しいと言える方であった。


 だが、王宮において、正しさは願うだけでは足りぬ。


 金がいる。


 人がいる。


 順番がいる。


 反発を受ける者がいる。


 その役を、いつしかエレノアお嬢様が担われるようになった。


 王太子殿下のご提案に、冷静な数字を添える。


 王太子殿下の善意に、実施時期の遅れを申し上げる。


 王太子殿下へ向かうはずだった懸念を、先に受け止める。


 あれでは、殿下のお心が傷つく。


 あれでは、殿下の理想が曇る。


 そのように周囲が囁く前に、お嬢様が止めた。


 そして人は言った。


 グランディール侯爵家の令嬢は冷たい、と。


 王太子殿下を縛っている、と。


 理想を理解しない女だ、と。


 私は、何度も申し上げかけた。


 お嬢様、もう少しご説明を。


 お嬢様、もう少しご自身のために。


 けれど、口にはできなかった。


 あの方はいつも、説明より先に処理を選ばれた。


 誰かが傷つく前に。


 誰かが飢える前に。


 誰かが、取り返しのつかぬ失敗をする前に。


 そして、処理を終えると、ただこう仰る。


「問題ありません」


 問題は、あった。


 山ほどあった。


 ただ、あの方が問題として数えなかっただけである。


 断罪の日のことを、私は多くは語らぬ。


 すべてをこの目で見たわけではない。


 だが、王都から戻られたエレノア様の姿だけは、今も忘れられぬ。


 あれは王都の者たちにとっては祝福の前触れであり、新しい時代の始まりであったかもしれぬ。


 だが私にとっては、長く見守ってきた方が、ようやく膝を折った日であった。


 断罪後、エレノア様はグランディール侯爵家が保持していたヴァルツェン伯爵位を継ぎ、北方の地へ退かれた。


 本来、私はグランディール侯爵家本邸に残るべき者であった。


 侯爵家の筆頭家令として、当主クラウディス様に仕え、家を守るのが筋である。


 だが、エレノア様がヴァルツェン伯として北方へ退かれると決まった時、私は同行を願い出た。


 表向きの理由は、いくらでも整えられた。


 ヴァルツェン領の管理体制維持。


 伯爵位を保持する娘の家格保持。


 グランディール家としての最低限の体面。


 クラウディス様も、その名目で私の同行をお認めになった。


 だが、私は今でも思う。


 侯爵閣下は、あの方を完全に捨てられたわけではなかったのだと。


 ただ、救い方を知らなかったのだと。


 そして私自身の理由は、もっと単純であった。


 あの方を、あのまま一人で行かせてはならぬと思った。


 エレノアお嬢様は、ヴァルツェン女伯となられた。


 王都では冷血伯と呼ばれた。


 領地では、ただ女伯様と呼ばれた。


 そして、以前にも増して休まれなくなった。


 冬備え台帳。


 薪の共同置き場。


 雪芋の貯蔵庫。


 聖マルタ教会の最低支出。


 北村の防寒具。


 山間村への巡回表。


 それらを整える時、女伯様は少しも迷われなかった。


 いや、迷いを表に出されなかった。


 私は、それを頼もしくも思った。


 同時に、恐ろしくも思った。


 この方は、どこまでご自身を数えずに進まれるのか、と。


 そして、女伯様は倒れられた。


 倒れた後に目覚められた女伯様は、変わっておられた。


 最初にそう感じたのは、言葉である。


 水を求める声はいつも通り静かであった。


 背筋も、視線も、礼法も、エレノア様のままであった。


 だが、侍女ミーナへ向けた声が違った。


「心配をかけました」


 そう仰った。


 ミーナは動きを止めた。


 私もまた、表には出さぬまま、息を止めた。


 以前の女伯様も、感謝を知らぬ方ではない。


 謝罪をなさらぬ方でもない。


 ただ、感情に触れる言葉を、そう簡単には表に出されなかった。


 それからの女伯様は、幾度も我々を驚かせた。


 疲れた、と仰った。


 寒い、と仰った。


 お願いします、と仰った。


 ハンナの店へ行き、黒パンを召し上がった。


 聖マルタ教会の善意を支出として記録せよと命じられた。


 騎士団の巡回前後に温食を出せと命じられた。


 兵の休息を、資源管理として数えられた。


 それは弱さのようにも見えた。


 少なくとも、以前の女伯様であれば、もっと早く裁断されたであろう場面はある。


 だが、命令の芯は折れていなかった。


 第三区穀倉の雪芋腐敗は、隠させなかった。


 商人ロイ・ベルナーとの契約変更は、曖昧にしなかった。


 冬税の再計算では、出した者と受け取った者を記録させた。


 巡回表は、正式な命令書にされた。


 旧猟師道の撤退判断を、口頭ではなく本文に入れられた。


 柔らかくなった。


 しかし、甘く崩れたわけではない。


 拾うものが増えたのだ。


 私はそう見ることにした。


 もちろん、違和感がないわけではない。


 女伯様は時折、誰もいない扉の向こうへ耳を澄ませているような顔をなさる。


 何かを言いかけて、飲み込むこともある。


 ご自身のことを、まるで少し離れた誰かのように扱われる瞬間もある。


 家令として、それに気づかぬほど私は若くない。


 だが、問い詰めることが忠義とは限らぬ。


 女伯様は領地を壊しておられない。


 むしろ、今まで記録されなかった痛みや善意まで、帳簿に載せ始めておられる。


 ならば、私の役目は声を荒らげることではない。


 見守ること。


 記録すること。


 必要な時に、支えること。


 それだけである。


 夜、執務室の灯りが落ちた後、私は家令記録を開いた。


 女伯様の私的業務記録とは違う。


 こちらは、城館を回すための記録である。


 使用人の配置。


 薪の消費。


 来客。


 備品の傷み。


 主人の体調。


 私はそこへ、短く記した。


 女伯様、病後より言葉やわらぐ。


 体調、引き続き要観察。


 食事量、やや回復。


 感謝、謝意、疲労を口にされることあり。


 命令の芯は折れず。


 使用人一同、戸惑いあり。


 ただし士気、悪化なし。


 記録範囲、拡大。


 経過観察。


 そこまで書き、私は少しだけ筆を止めた。


 経過観察。


 冷たい言葉である。


 だが、家令の記録としては正しい。


 情を混ぜれば、記録は曇る。


 女伯様から学んだことだ。


 扉の外で、足音がした。


 ミーナであった。


「オルド様」


「どうしました」


「女伯様は、もうお休みになられました」


「そうですか」


「今日は、薬湯も残さず」


「それは良いことです」


 ミーナは少し迷い、それから小さく言った。


「女伯様は、本当に少し変わられましたね」


「そうですね」


「私は……少し安心しています」


 彼女の声は、慎重だった。


 安易に喜ぶことを恐れている声だった。


「以前の女伯様は、お休みくださいと申し上げても、お休みになりませんでした。今は、時々ですが、頷いてくださいます」


「それが一番の変化かもしれません」


 私がそう言うと、ミーナは目を伏せた。


「はい」


 女伯様が休む。


 たったそれだけのことが、我々には大きかった。


 王太子殿下の婚約者であった頃から、あの方は休まなかった。


 学び、整え、支え、止め、嫌われ、領地へ戻り、また働いた。


 休むことを、ご自身に許さなかった。


 それが今、ほんの少しだけ変わっている。


 私は記録帳を閉じた。


「ミーナ」


「はい」


「明日の朝食には、温かいものを一品増やしなさい」


「女伯様に、でございますか」


「ええ」


「召し上がられるでしょうか」


「召し上がっていただくのです」


 ミーナが、小さく笑った。


 それは、城館の中で久しく聞かなかった種類の笑いであった。


「かしこまりました」


 ミーナが去った後、私は窓の外を見た。


 雪が降っている。


 ヴァルツェンの冬は長い。


 女伯様が変わられた理由を、私はまだ知らない。


 知るべき時が来るかどうかも分からない。


 だが、ひとつだけ確かなことがある。


 私の知るエレノアお嬢様は、今の女伯様の中にも確かに残っている。


 あの方が積み上げた帳簿も、命令書も、信用も、ここに残っている。


 そして今の女伯様は、その上に、新しい言葉を少しずつ書き足しておられる。


 ならば私は、老いた家令として、沈黙しよう。


 沈黙し、見守ろう。


 必要な時には、扉の外から声をかけよう。


 かつてエレノアお嬢様が、重すぎる肩書きの下で背筋を伸ばしていた時と同じように。


 今度こそ、あの方が倒れる前に。

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