幕間 老家令は沈黙する
私がエレノア様を初めてお見かけした時、あの方はまだ、グランディール侯爵家のエレノアお嬢様であられた。
銀の髪をきっちり結い、背筋を伸ばし、大人たちの話を黙って聞いておられる少女であった。
幼い方であった。
けれど、幼さを許されぬ方でもあった。
グランディール侯爵家の令嬢。
いずれ王太子殿下の婚約者となり、王家を支えることを求められた方。
その肩書きは、まだ細い肩には重すぎるように見えた。
だが、エレノアお嬢様は泣き言を仰らなかった。
夜更けまで書物を読み、朝には礼法の稽古に立ち、昼には語学と政務の基礎を学び、夕には王宮での立ち居振る舞いを繰り返された。
食事が冷めても、手を止められなかった。
眠気で一度だけペン先を落とされたことがある。
その時も、お嬢様は私に言った。
「問題ありません」
あの言葉を、私は長く聞き続けることになった。
先代王妃陛下は、お嬢様を高く評価しておられた。
今は亡きあの方の声を、私は今でも覚えている。
あの子は、王太子の隣に飾る花ではない。
王太子を支える柱になる。
宰相閣下も同じであった。
数字に強い。
記憶が正確だ。
法の抜け道ではなく、法の限界を見る。
そのように仰っていた。
それは、誇らしいことであった。
同時に、不幸の始まりでもあった。
王太子殿下は、善良な方であった。
民を救いたいと願われた。
正しいことを正しいと言える方であった。
だが、王宮において、正しさは願うだけでは足りぬ。
金がいる。
人がいる。
順番がいる。
反発を受ける者がいる。
その役を、いつしかエレノアお嬢様が担われるようになった。
王太子殿下のご提案に、冷静な数字を添える。
王太子殿下の善意に、実施時期の遅れを申し上げる。
王太子殿下へ向かうはずだった懸念を、先に受け止める。
あれでは、殿下のお心が傷つく。
あれでは、殿下の理想が曇る。
そのように周囲が囁く前に、お嬢様が止めた。
そして人は言った。
グランディール侯爵家の令嬢は冷たい、と。
王太子殿下を縛っている、と。
理想を理解しない女だ、と。
私は、何度も申し上げかけた。
お嬢様、もう少しご説明を。
お嬢様、もう少しご自身のために。
けれど、口にはできなかった。
あの方はいつも、説明より先に処理を選ばれた。
誰かが傷つく前に。
誰かが飢える前に。
誰かが、取り返しのつかぬ失敗をする前に。
そして、処理を終えると、ただこう仰る。
「問題ありません」
問題は、あった。
山ほどあった。
ただ、あの方が問題として数えなかっただけである。
断罪の日のことを、私は多くは語らぬ。
すべてをこの目で見たわけではない。
だが、王都から戻られたエレノア様の姿だけは、今も忘れられぬ。
あれは王都の者たちにとっては祝福の前触れであり、新しい時代の始まりであったかもしれぬ。
だが私にとっては、長く見守ってきた方が、ようやく膝を折った日であった。
断罪後、エレノア様はグランディール侯爵家が保持していたヴァルツェン伯爵位を継ぎ、北方の地へ退かれた。
本来、私はグランディール侯爵家本邸に残るべき者であった。
侯爵家の筆頭家令として、当主クラウディス様に仕え、家を守るのが筋である。
だが、エレノア様がヴァルツェン伯として北方へ退かれると決まった時、私は同行を願い出た。
表向きの理由は、いくらでも整えられた。
ヴァルツェン領の管理体制維持。
伯爵位を保持する娘の家格保持。
グランディール家としての最低限の体面。
クラウディス様も、その名目で私の同行をお認めになった。
だが、私は今でも思う。
侯爵閣下は、あの方を完全に捨てられたわけではなかったのだと。
ただ、救い方を知らなかったのだと。
そして私自身の理由は、もっと単純であった。
あの方を、あのまま一人で行かせてはならぬと思った。
エレノアお嬢様は、ヴァルツェン女伯となられた。
王都では冷血伯と呼ばれた。
領地では、ただ女伯様と呼ばれた。
そして、以前にも増して休まれなくなった。
冬備え台帳。
薪の共同置き場。
雪芋の貯蔵庫。
聖マルタ教会の最低支出。
北村の防寒具。
山間村への巡回表。
それらを整える時、女伯様は少しも迷われなかった。
いや、迷いを表に出されなかった。
私は、それを頼もしくも思った。
同時に、恐ろしくも思った。
この方は、どこまでご自身を数えずに進まれるのか、と。
そして、女伯様は倒れられた。
倒れた後に目覚められた女伯様は、変わっておられた。
最初にそう感じたのは、言葉である。
水を求める声はいつも通り静かであった。
背筋も、視線も、礼法も、エレノア様のままであった。
だが、侍女ミーナへ向けた声が違った。
「心配をかけました」
そう仰った。
ミーナは動きを止めた。
私もまた、表には出さぬまま、息を止めた。
以前の女伯様も、感謝を知らぬ方ではない。
謝罪をなさらぬ方でもない。
ただ、感情に触れる言葉を、そう簡単には表に出されなかった。
それからの女伯様は、幾度も我々を驚かせた。
疲れた、と仰った。
寒い、と仰った。
お願いします、と仰った。
ハンナの店へ行き、黒パンを召し上がった。
聖マルタ教会の善意を支出として記録せよと命じられた。
騎士団の巡回前後に温食を出せと命じられた。
兵の休息を、資源管理として数えられた。
それは弱さのようにも見えた。
少なくとも、以前の女伯様であれば、もっと早く裁断されたであろう場面はある。
だが、命令の芯は折れていなかった。
第三区穀倉の雪芋腐敗は、隠させなかった。
商人ロイ・ベルナーとの契約変更は、曖昧にしなかった。
冬税の再計算では、出した者と受け取った者を記録させた。
巡回表は、正式な命令書にされた。
旧猟師道の撤退判断を、口頭ではなく本文に入れられた。
柔らかくなった。
しかし、甘く崩れたわけではない。
拾うものが増えたのだ。
私はそう見ることにした。
もちろん、違和感がないわけではない。
女伯様は時折、誰もいない扉の向こうへ耳を澄ませているような顔をなさる。
何かを言いかけて、飲み込むこともある。
ご自身のことを、まるで少し離れた誰かのように扱われる瞬間もある。
家令として、それに気づかぬほど私は若くない。
だが、問い詰めることが忠義とは限らぬ。
女伯様は領地を壊しておられない。
むしろ、今まで記録されなかった痛みや善意まで、帳簿に載せ始めておられる。
ならば、私の役目は声を荒らげることではない。
見守ること。
記録すること。
必要な時に、支えること。
それだけである。
夜、執務室の灯りが落ちた後、私は家令記録を開いた。
女伯様の私的業務記録とは違う。
こちらは、城館を回すための記録である。
使用人の配置。
薪の消費。
来客。
備品の傷み。
主人の体調。
私はそこへ、短く記した。
女伯様、病後より言葉やわらぐ。
体調、引き続き要観察。
食事量、やや回復。
感謝、謝意、疲労を口にされることあり。
命令の芯は折れず。
使用人一同、戸惑いあり。
ただし士気、悪化なし。
記録範囲、拡大。
経過観察。
そこまで書き、私は少しだけ筆を止めた。
経過観察。
冷たい言葉である。
だが、家令の記録としては正しい。
情を混ぜれば、記録は曇る。
女伯様から学んだことだ。
扉の外で、足音がした。
ミーナであった。
「オルド様」
「どうしました」
「女伯様は、もうお休みになられました」
「そうですか」
「今日は、薬湯も残さず」
「それは良いことです」
ミーナは少し迷い、それから小さく言った。
「女伯様は、本当に少し変わられましたね」
「そうですね」
「私は……少し安心しています」
彼女の声は、慎重だった。
安易に喜ぶことを恐れている声だった。
「以前の女伯様は、お休みくださいと申し上げても、お休みになりませんでした。今は、時々ですが、頷いてくださいます」
「それが一番の変化かもしれません」
私がそう言うと、ミーナは目を伏せた。
「はい」
女伯様が休む。
たったそれだけのことが、我々には大きかった。
王太子殿下の婚約者であった頃から、あの方は休まなかった。
学び、整え、支え、止め、嫌われ、領地へ戻り、また働いた。
休むことを、ご自身に許さなかった。
それが今、ほんの少しだけ変わっている。
私は記録帳を閉じた。
「ミーナ」
「はい」
「明日の朝食には、温かいものを一品増やしなさい」
「女伯様に、でございますか」
「ええ」
「召し上がられるでしょうか」
「召し上がっていただくのです」
ミーナが、小さく笑った。
それは、城館の中で久しく聞かなかった種類の笑いであった。
「かしこまりました」
ミーナが去った後、私は窓の外を見た。
雪が降っている。
ヴァルツェンの冬は長い。
女伯様が変わられた理由を、私はまだ知らない。
知るべき時が来るかどうかも分からない。
だが、ひとつだけ確かなことがある。
私の知るエレノアお嬢様は、今の女伯様の中にも確かに残っている。
あの方が積み上げた帳簿も、命令書も、信用も、ここに残っている。
そして今の女伯様は、その上に、新しい言葉を少しずつ書き足しておられる。
ならば私は、老いた家令として、沈黙しよう。
沈黙し、見守ろう。
必要な時には、扉の外から声をかけよう。
かつてエレノアお嬢様が、重すぎる肩書きの下で背筋を伸ばしていた時と同じように。
今度こそ、あの方が倒れる前に。




