空になって、満たされて
昼休みが始まっても、教室を動けなかった。いつもやったらとっくにあの場所にいる時間。なのに、体は言うことを聞いてくれへん。
もしかしたら喜んでくれないかもしれない。
そんな不安で逃げ出したくなる。
◇◇◇
僕は今日も、いつも通りあの場所に来ていた。
教室にいてもやることはないし、誰かと話すわけでもない。だったら最初からここにいた方が気楽だ。そんな理由で通い続けているだけの場所。
——のはずなんだけど。
「……あれ」
階段に足をかけたところで、思わず立ち止まる。
いつもならそこにいるはずの二宮の姿が見えない。
胸の奥が、ほんの少しだけ落ち着かなくなる。
いつもなら、僕が来る頃にはもうそこに座っていて、こちらを見るなり何かしら軽口を飛ばしてくる。そんな当たり前がないことに、胸の奥がほんの少しざわついた。
いつの間にか僕の日常に入り込んで来て、今となってはそれが新たな日常に変わっていたのかもしれない。
とりあえず階段に腰掛け、いつもの癖でパンを食べようとして……
「そう言えば無いんだった……」
パンを買おうとしたら、昨日の二宮の言葉を思い出して……気がつけば足は購買から遠のいていた。
「センパーイ!」
背後から聞き慣れた声がして、思わず肩が跳ねた。
振り返ると、少しだけ息を弾ませた二宮が立っている。
「まさかセンパイに先越される日が来るとは……」
背中で何かを隠しながら、二宮は僕の隣に座る。
「今日は遅いんだな」
「え~? 心配してくれたん? センパイが人のこと思うなんてめずら——」
「あぁ……そうだな」
ほんの一瞬、言い淀んで——
「心配した」
——言って良かったのか。少し迷ったが、言わなきゃいけないと感じた。
「………ふぇ?!……えっとその……先輩そんなん言うんめず……らしい……なぁ……」
「珍しいってなんだ。僕だって人並みに人を心配する気持ちくらいある」
言葉が止まったまま、変な空気だけが残った。
二宮の顔は耳の先まで真っ赤に染まり、逃げるように目線があちらこちらに動いている。足が落ち着かないみたいにパタパタと動かす。
やがて、彼女は視線を逸らしながら小さく肩を揺らした。
「そっか〜……心配してくれたんか〜……ふへ……ふへへ」
「お~い、二宮〜……そろそろ腹が減ったんだけど〜?」
「ふへへ……」
僕が軽く肩を叩くと、二宮の体がビクリと跳ねる。
「ふぇぁ?! あっ……えっと……どうしたん?」
「いや、僕もお腹が空いたし……そろそろ何か欲しいんだけど……」
「あ、あ~~……! お腹空いたんか〜!」
ようやく戻ってきたと思ったら、今度は少し上の空。
いつもより明らかにテンションが変だ。
「そりゃ……お前が昼飯を封じたからだろ……」
「ちゃんと約束守ってくれたんや〜、えへへ……そんな良い子のセンパイにはご褒美あげんとね〜」
二宮は背中で隠していたそれを、僕の手に押し付ける。
手渡されたものを見ると、なんとも可愛らしいピンクのお弁当箱。
「センパイの好きなもん、うんっと詰めたから遠慮せんで食べてええんやよ〜。はい、お箸」
「あぁ……」
蓋を開けると、丁寧に並べられた卵焼きやプチトマトで彩りは綺麗だが、少し焦げ目のついたハンバーグや、形の歪な唐揚げなど、明らかな『手作り』の雰囲気があった。
というか——
「なんでハンバーグと唐揚げ両方入ってるんだよ。普通はどっちか一つだろ」
「えぇ?! それはセンパイが好きや言うから——って、もう笑わんといてよ〜……」
「悪かったって。……なぁ、これって僕のために作ってきてくれたのか?」
「……それ以外、なんかあると思う?」
今までのニヤニヤとした嘲笑面ではない、優しい笑みを浮かべる。
「優しい後輩からのプレゼントやしな、感謝して食べるんやよ〜?」
「はぁ……そうだな。ありがたく貰うよ」
ハンバーグを一つ摘んで口へ運ぶ。
肉の味はしっかりしてるけど、やっぱり……仄かに炭の香りが鼻をくすぐる。
「どう……?」
それでも——
それでもこいつの目を見たら、喉まで出てた文句が消えて、代わりの言葉は少し迷ったが、
「……美味いよ」
一拍置いて続ける。
「想像してたよりずっと」
その瞬間。
二宮の表情が、ふっと緩んだ。
「よ……良かったー……」
そう言いこぼしながら、安堵の息を漏らしている。
そんな二宮をよそ目に、一つ、また一つと僕は弁当に手を付ける。
「ん? お前は食べないのか?」
見ると二宮は、自身の弁当には手を付けず、僕の方をいつものニヤニヤとした表情で見ていた。
「ん〜……うちはお腹いっぱいかなって!」
「ごちそうさまでしたっと……何か食べてきたのか?」
その時、二宮に空になった弁当を返したと同時に、昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴る。
二宮は弁当を受け取ると、階段を数歩降りてこちらに振り返る。
「やからセンパイは鈍感なんよ」
それだけ言い残して、二宮はその場を去っていく。
砂糖の入れ過ぎか、異様なほど甘い卵焼きの味が、妙に口の中に残っていた。
◇◇◇
あの場所に向かう足が、すくんで仕方なかった。
今日のお弁当は、渡すのをためらってしまうほどには上手くできたとは言えなくて……それでも、
『……美味いよ』
あの先輩はズルいくらい優しいから。
明日もちょっとだけ、頑張れる気がする。




