新入り
それは、なんでもない日だった。本当に『なんでもない』としか言いようがない、ごく普通の日。
ヴァレンタイン探偵事務所のドアの前に、段ボールが一つ置かれていた。朝の光の中で、それは妙に真っすぐ立っている。宛名も差出人もない。ガムテープは雑に貼られ、側面にだけ黒いマーカーで『預かり』と書いてあった。字は汚く、急いで書いたように掠れている。
「……なんだこれ」
ヒューゴが靴先で軽く突く。段ボールは少しだけ揺れ、中からごく小さな音がした。
「爆発物だったらどうするんだ」
「流石の俺でもそんな事件の引き寄せ性能はねえよ」
後ろでメロルスが手をポケットに突っ込んだまま、段ボールを見下ろしている。カテリナは二歩下がって、両手を胸の前で合わせていた。
「に、荷物ですかぁ……? 依頼の付属とかでしょうか。でも、何の連絡もなかったですぅ」
「依頼なら先に連絡しろっての。置き逃げか、悪趣味な差し入れか」
ヒューゴはそれでも段ボールを抱え上げた。重さは猫一匹分もない。だが、持ち上げた瞬間に中で明確に「動いた」。重心がずれる。何かが箱の隅へ寄っていく感触があった。
「中で動いてますよぅ……!」
「わかってる」
ヒューゴは事務所の中へ入り、応接用の机に段ボールを置く。メロルスがドアを閉め、カテリナが窓側から距離を取って見守る。三人分の視線が集まる中、ヒューゴはカッターを取り出した。
「本当に開けるんですかぁ?」
「置いてあっても仕方ないだろ。中身確認もせずに捨てたら、それが依頼だった場合に面倒だ」
「すでに面倒ごとの予感しかしないんだが?」
メロルスのツッコミを無視して、ヒューゴはテープを切る。刃が段ボールの表面を走る音が、妙に大きく聞こえた。蓋を開ける。
黒い緩衝材。その奥に、丸まった「何か」がいた。
最初に目に入ったのは、ふわりと膨らんだ白い体毛だった。小さくて、丸くて、まるで動く毛糸玉みたいにすぼまっている。次に、その中央でぱっちりと開いた大きな瞳。色は澄んだ水色で、まばたきをするたびに細い光がそっと揺れた。耳のように見える三角形の毛が二つ、ぴくぴくと動く。足は短くて丸く、段ボールの底をちょこちょこと蹴って体を起こした。
「……なんだこれ」
メロルスが思わず前のめりになる。
「か、可愛いですぅ……! 何ですかこれ、ぬいぐるみじゃなくて、本物ですよねぇ!?」
カテリナの声が一段高くなる。生き物は彼女の声に反応したのか、小さな鼻をくんくんさせ、短く鳴いた。
「みゅ」
とても薄い声だった。怒っているでも怖がっているでもなく、ただ「ここにいるよ」と知らせるような声。水色の瞳が、ヒューゴ、メロルス、カテリナの顔を順番に追う。しっぽのようなふわふわした毛束が、左右にゆっくり振られた。
その瞬間、ヒューゴの目が変わった。
「……おお?」
「待てヒューゴ。その顔はダメだ」
「なにがだ」
「金の匂いを嗅いだ顔だ。何回見てると思ってる」
ヒューゴは段ボールの縁を叩き、にやりと笑った。指を近づけると、生き物は逃げもせず、丸い頭をこすりつけてきた。ふわふわで、体温がある。触った指先に、ごく弱い静電気のようなくすぐったさが残る。
「いや見ろよこれ。見たことねぇだろ。ただの猫でも犬でもない。デッドリー由来の生物か、新種か。どっちにしろ『珍しい』。珍しいってことは需要がある。需要があるってことは――」
「売るなっての」
メロルスが即答した。
「まだ何も言ってないだろ」
「その目はすでに相場を見てる目だ」
カテリナも、生き物を守るように段ボールの前へ回り込む。
「だ、ダメですぅ! こんなに人懐っこい子を売るとか、ダメです! 誰かの大切なペットかもしれませんし、とりあえず保護です。保護!」
「だから調べるんだよ。調べて、価値を確認して、必要なら適正価格で――」
「売・る・な」
メロルスがもう一度強調して言った。生き物は二人の言い争いを上目遣いで見ると、また「みゅ」と鳴いて、ヒューゴの袖に小さな前足を乗せる。まるで「まだ触ってていいよ」と催促しているみたいだった。
「な、なついてますぅ……ほら、ヒューゴさんにもなついてますぅ」
「ほら見ろ。人懐っこい。これは売れる。いや、貸すでもいい。展示でもいい。希少ペット市場なら――」
「だから売るなって言ってんだろ! 事務所で動物転売始めるな!」
メロルスの声が事務所に響く。カテリナは困ったように笑いながらも、段ボールから手を離さない。雨果は天井を仰ぎ、深く息を吐いた。
「……わかったよ。とりあえず預かりだ。売るかどうかは、正体がわかってからにする。餌も調べる。飼い方もあるだろ」
「その『にする』が信用ならねぇ」
「うるさいな」
生き物は、その会話の間も満足そうに喉を鳴らしていた。ふわふわの体をまるくして、机の上で小さくあくびをする。水色の瞳が細くなると、ただそれだけで事務所の空気が少し緩んだ。
「……名前、つけますかぁ」
「まだ早い。名前つけた時点で売れなくなる」
「だから売んじゃねぇよ」
結局、その日の事務所は「謎のふわふわ」の観察と、雨果の金勘定と、二人の制止で潰れた。なんでもないはずの朝は、小さな「みゅ」の一声で、完全にそれ以外の日になった。




