夜明け
リシアと紫苑の戦闘が終わると紫苑はリシアに連れられ龍牙のいる部屋まで連れてこられた。
部屋に残ったのは、血の匂いと、静かな呼吸音だけだった。
メロルスが龍牙の両手首を義手で固定し、ヒューゴがリボルバーを構え直したまま距離を取る。リシアは端末を握りしめたまま、紫苑から目を離さない。カテリナは壁に背中を預け、震える膝を抱きかかえていた。
そのとき、床に倒れていた龍牙の指が、わずかに動いた。
「……ん」
低い呻き声とともに、巨体がゆっくりと起き上がろうとする。メロルスが即座に力を込めた。
「動くな!」
だが龍牙は、抵抗しなかった。ただ、ぼんやりと周囲を見回す。血にまみれた顔で、誰かを探しているような目をしていた。
そして、その視線が紫苑に止まった。
「……お前達は、誰だ?」
部屋の空気が、凍りついた。
紫苑の表情が、音を立てて崩れる。唇が震え、目が大きく見開かれる。今までどれだけ冷静を装っていても、この一言だけは受け止めきれなかった。
「……え?」
「俺は……何をしてたんだ? ここはどこだ? お前は……」
龍牙は首を傾げ、困惑したように額を押さえる。再生で消費し尽くした記憶の空白が、そこにぽっかりと口を開けていた。戦いの記憶も、紫苑との日々も、自分が誰のために戦っていたのかも何も残っていない。
「龍牙……?」
紫苑が、掠れた声で名前を呼ぶ。一歩、また一歩と近づく。メロルスが制止しようとしたが、ヒューゴが小さく手を振って制した。
「……見とけ」
紫苑は龍牙の前に跪いた。血と汗にまみれた彼の顔を、震える手で触れる。
「私よ。……紫苑よ。わからないの?」
龍牙は、ただ不思議そうに彼女を見つめた。敵意はない。警戒もない。ただ、まっさらな目で、目の前の女を観察しているだけだった。
「……紫苑、か。知らねぇ名前だ」
その言葉に、紫苑の目から涙が溢れ出した。一筋、二筋と頬を伝い、顎から滴り落ちる。彼女は泣きながらも、龍牙の大きな手を両手で包み込んだ。
「そう。……知らなくても、いいの」
声が、子供のようにか細くなる。
「これから、また覚えていけばいい。私が……全部、教え直すから」
龍牙は黙って、彼女の涙を見つめていた。何か言いたそうに口を開かけたが、結局何も出てこない。ただ、紫苑の手が温かいことだけは、理解しているようだった。
そのとき、部屋の通信端末が短く鳴った。リシアが画面を確認し、小さく息を吐く。
「……宗玄がここに来る」
ほどなくして、重厚な足音が廊下を近づいてきた。NISIKIの護衛に囲まれた錦宗玄が、静かに部屋へ入ってくる。老人の目は、床に座り込む紫苑と、記憶を失った龍牙を交互に捉えた。
「……紫苑」
「お爺様」
紫苑は涙を拭おうともせず、立ち上がる。龍牙の手を、しっかりと握ったまま。
宗玄は二人をしばらく見つめ、ゆっくりと口を開いた。
「日本へ戻ろう。お前も、その男も」
「嫌よ」
即座に返された拒絶に、宗玄の眉がわずかに動く。
「紫苑」
「私は、日本に残る。龍牙と一緒に」
「記憶を失った男を、どうするつもりだ」
「これから、取り戻していくのよ」
紫苑は泣きながら、しかしはっきりと言った。龍牙の手を握りしめ、彼の方を振り返る。
「ね、龍牙。これから……記憶を、取り戻していきましょう。私が、全部教えるから。あなたが誰で、私が誰で、私たちはどうしてこうなったのか。……全部」
龍牙は、その言葉の意味を完全には理解していないようだった。それでも、紫苑の真剣な瞳を見て、小さく頷いた。
「……ああ。お前がそう言うなら」
その返事に、紫苑は声を殺して泣いた。肩を震わせ、龍牙の胸に額を預ける。記憶を失っても、この男は彼女を拒絶しなかった。それが、何より残酷で、何より救いだった。
ヒューゴが、重い足取りで宗玄の前に立つ。メロルスとリシアも続く。カテリナは少し離れた位置から、すべてを見守っていた。
「宗玄」
ヒューゴの声は、いつになく低かった。
「全部、知ってたのか?」
宗玄は静かにヒューゴを見た。否定も肯定もしない。ただ、沈黙する。
「紫苑が天城組に預けられたこと。龍牙が彼女を守ってたこと。記憶を燃料にして再生してたこと。……全部、把握してて、泳がせてたんだろ」
「……泳がせていたわけではない」
「じゃあ何だよ」
メロルスが吐き捨てるように言った。
「孫を守りたいなら、もっと早く動けたはずだろ。何年も放置して、やっと今になって『連れて帰る』とか言われてもな」
リシアも冷静に続けた。
「あなたが『優しさを守るために突き放した』と言うなら、その結果がこれです。紫苑は人を壊し、龍牙は自分の記憶を燃やして、ここまで来た。……あなたは、その責任をどう取るつもりですか」
宗玄はしばらく黙っていた。やがて、静かに息を吐く。
「私は、彼女を壊したくなかった。ただ、それだけだ」
「結果的に壊れたよ」
ヒューゴが短く言い放つ。
「俺たちは日本に帰る。紫苑と龍牙のことは……本人たちに任せます。アンタが強引に連れて帰ろうとするなら、その時は敵に回る」
宗玄の目が細められた。だが、反論はしなかった。ただ、紫苑を見つめる。
「……紫苑。本当に、いいのか」
「ええ」
紫苑は涙でぐしゃぐしゃの顔のまま、はっきりと頷いた。
「私は、龍牙と残る。お爺様が私を守ろうとしてくれたこと……やっとわかった。ありがとう。でも、もういいの。私は自分で、彼を支え直す」
宗玄は長く彼女を見つめた後、ゆっくりと頷いた。
「……わかった。無理強いはしない。ただし、いつでも戻ってこい。NISIKIの門は、常に開けておく」
「……はい」
護衛に囲まれた宗玄が、静かに部屋を出ていく。その背中は、意外なほど小さく見えた。
雨果は肩の力を抜き、メロルスとリシアを見やる。
「帰るぞ」
「ああ」
「カテリナも、大丈夫か?」
カテリナは小さく頷いた。まだ足が震えていたが、声は出せた。
「……はい。帰れます」
三人は紫苑と龍牙に一瞥をくれ、部屋を後にした。雨果が最後に振り返り、ぼそりと呟く。
「……全部知ってやがったのかよ、あのジジイ」
「ぐちぐち言うなよ」
メロルスがため息混じりに返す。
「でも、気持ちはわかる」
リシアは何も言わなかった。ただ、端末をポケットにしまい、静かに二人の背中を追った。
部屋に残されたのは、紫苑と龍牙だけだった。
紫苑は再び龍牙の前に跪き、彼の大きな手を両手で包み込む。涙はまだ止まらない。それでも、彼女は笑おうとしていた。
「龍牙。私の名前は、天城紫苑。あなたは、黒峰龍牙。……あなたは、私を守ってくれた人よ」
「へえ……そうか」
「これから、少しずつでいい。私が話すことを、覚えていって。あなたが忘れてしまったこと、全部」
龍牙は、紫苑の涙で濡れた顔をじっと見つめた。そして、不器用に親指で彼女の頬を拭う。
「……泣くなよ」
その言葉に、紫苑はまた声を殺して泣いた。
「ええ。……泣かない。これから、一緒に取り戻していきましょう。あなたの記憶を。私たちの時間を」
龍牙は、何もわからないまま、ただ彼女の手を握り返した。
記憶は消えた。
けれど、繋がる手の感触だけは、確かにそこにあった。
窓の外では、日本の夜が、静かに明けようとしていた。




