大元
大広間に残された破壊の痕跡が、夜風にさらされていた。
畳は裂け、柱は折れかけ、壁には無数の弾痕と血しぶきが散らばっている。旅館の従業員たちはすでに避難し、遠くでサイレンが鳴り始めていたが、二人にはその音さえ届いていないようだった。
メロルスは拳を握りしめたまま、路上に立ち尽くしていた。義手の指関節が軋む音だけが、静かな温泉街に響く。
「……俺が、一瞬でも迷ったからだ」
「違う」
ヒューゴが短く否定した。唇を噛みすぎて、血が滲んでいる。
一方、黒塗りの車は山道を上がっていた。
後部座席でカテリナは身を強張らせ、窓の外を見つめていた。街の明かりが遠ざかり、木々が濃くなり、やがて車は巌巌会の拠点へと続く、細い私道に入る。
龍牙は助手席で旧時代的な煙草をくわえ、窓を開けて煙を吐き出した。
「悪く思うなよ、嬢ちゃん」
「……私、何も悪いことしてないですう」
カテリナは、はっきりとそう言った。
「ああ、してねえよお。ただ、おめえは運が悪かっただけだ」
龍牙は後部座席をちらりと振り返った。
「お前の能力は『空間把握』で、あいつらのナビをしてる。紫苑は、そういう便利な駒が嫌いじゃないんだ」
カテリナは息を呑んだ。
「……天城紫苑、って人は、何がしたいんですか」
「知らねえよ。俺は用心棒。守るだけー」
車はやがて、山腹に埋まるように建つ古い屋敷の前で止まった。門には「巌巌会」の文字が、薄暗い灯りの下で浮かび上がっている。
龍牙がドアを開け、カテリナを促す。
「降りろ。抵抗しても無駄だぞ」
カテリナは一瞬、逃げ道を探した。しかし周囲は暗い山道と高い塀だけだ。メロルスやヒューゴが来るには、まだ時間がかかる。
彼女はゆっくりと車を降りた。
周囲を見渡した龍牙の視界に飛び込んできたのは、まるで彼を出迎えるかのように立ち並ぶ、黒服のカタギとは思えない男たちだった。
「「「龍牙さんお疲れ様です!!!」」」
「おう、お前らもお疲れさん」
黒服の男たちは一斉に頭を下げると、その視線を龍牙の後ろに立つカテリナへ向けた。そこで一人の黒服がカテリナに近づいた。
「誰やお前?」
バシッ
龍牙はその一人の黒服の男を引っ叩いた
「お前なぁ、この人は客人だ。丁重に扱うようにな、いいかお前ら?」
「ヘイッッッ!」
「ほら、行くぞ、嬢ちゃん」
龍牙はカテリナの手首を軽く引き、そのまま屋敷の玄関へと歩き出した。
「そんなに警戒すんな。」
「逃げようとは思ってません」
カテリナは小さく答えた。
「逃げられないって分かってますから」
「ハハっ、物分かりがいいじゃねぇか。」
龍牙は豪快に笑うと、重厚な木製の玄関を押し開けた。
ギィ……
年季の入った扉が静かに軋み、二人を迎え入れる。
屋敷の中は外観以上に広かった。
磨き上げられた長い廊下。
等間隔に並ぶ障子。
柱には長い年月を感じさせる木目が浮かび、壁には達筆な掛け軸や古い刀が飾られている。
その雰囲気は名家の屋敷にも見えるが、廊下のあちこちに立つ黒服の男たちが、この場所の異様さを物語っていた。
龍牙が歩くたびに、男たちは一斉に頭を下げる。
「龍牙さん。」
「お疲れ様です。」
「紫苑様は奥でお待ちです。」
「おう。」
龍牙は短く返事をし、迷いなく廊下を進んでいく。
カテリナは周囲をさりげなく見渡した。
(……広い。)
カテリナはオールディレクションを静かに展開する。
空間情報が頭の中へ流れ込み、屋敷全体の構造が少しずつ立体的に組み上がっていく。
長い廊下。
中庭。
道場らしき大広間。
地下へ続く階段。
そして屋敷中に点在する、多くの人の反応。
(こんなに……。)
予想以上の人数だった。
逃げ道はあるが、そのどれも簡単ではない。
能力を使っても、一人で突破できる状況ではなかった。
「考え事か?」
龍牙が前を向いたまま尋ねる。
「……少し。」
「逃げ道探してんなら諦めろ。」
図星を突かれ、カテリナは思わず肩を震わせる。
龍牙は振り返らずに笑った。
「そんな顔すんな。」
「俺も能力者だ。そういう空気くらい分かる。」
しばらく歩くと、一枚だけ他とは違う大きな襖の前で龍牙が立ち止まった。周囲にいた黒服たちは誰も近寄らない。その場の空気だけが、不自然なほど静まり返っていた。
龍牙は軽く襖を叩く。
コン、コン。
「紫苑。連れてきたぞ。」
数秒の静寂の後、やがて襖の向こうから、穏やかな女性の声が返ってきた。
「入りなさい。」
龍牙は襖をゆっくり開く。
部屋の中には、柔らかな照明が灯っていた。
畳の中央には低い机。
その上には湯気の立つ急須と二つの湯飲み。
まるで客人を迎えるために用意されたような光景だった。
部屋の奥では、一人の女性が静かに座っている。
艶のある黒髪。
そして、人を包み込むような落ち着いた雰囲気。
その女性はゆっくりと顔を上げる。
「はじめまして。」
静かな声が部屋に響く。
「あなたがカテリナさんね。」
カテリナは息を呑んだ。
目の前の女性こそ、この一連の事件の中心人物。天城紫苑だった。




