打撃
畳が引き裂かれ、太い柱が悲鳴を上げるように軋む。
旅館の大広間は、もはや湯上がりの寛ぎなど微塵もない、壮絶な戦場と化していた。
「オラァッ!」
メロルスの義手が低い唸りを上げる。重厚な打撃音とともに、鋭い拳が龍牙の右脇腹へと深く突き刺さった。
鈍い衝撃が室内を満たす。
しかし、龍牙はわずかに数歩後退しただけで、その巨躯を微動だにさせず不敵な笑みを崩さない。
「効くなぁ……だが、まだまだ甘いぞ!」
直後、ヒューゴのリボルバーが乾いた火花を散らした。
引き締められた銃声が三度響き、弾丸が龍牙の肩と太ももを削り取る。
「そのふざけた再生がいつまで持つか、試してやるよ!」
「ハッ、面白ぇ!」
龍牙は笑いながら床を強く蹴りつけた。
巨体からは想像もつかない速度で距離を詰め、丸太のような拳を繰り出す。
メロルスが義手でその衝撃を受け流し、隙を突いてヒューゴが横から援護射撃を叩き込む。
激しい攻防の中、龍牙の眼光が冷ややかに二人を観察していた。
(……このまま正面からやり合えば、無駄に記憶を食うな)
肉体の再生能力はある。だが、それに伴う疲労と消耗も確実に積み重なっていた。
(引き際か……)
そう思案した、まさにその時だった。
「メロルスさあん! ヒューゴさあん!」
廊下の奥から、軽やかで明るい声が届いた。
髪をタオルで拭いながら歩いてきたのは、湯上がりでさっぱりとした様子のカテリナだった。
あまりに異様な惨状に気づき、目を丸くして駆け寄ってくる。
「えっ!? な、何ですかこれ──」
動揺の言葉は、最後まで紡がれなかった。
龍牙の目が、猛獣のように一瞬で細くなる。
次の瞬間、その巨体が爆発的な速度で跳ねた。
「カテリナ、逃げろ!!」
メロルスが叫び、必死に手を伸ばす。
だが、一歩遅かった。
龍牙は一気に距離を詰めると、逃げ惑う間もなくカテリナの華奢な肩を
引き寄せていた。
「きゃあっ!」
唐突な衝撃にカテリナが短い悲鳴を上げる。
龍牙は彼女を盾にするように身体を滑り込ませ、メロルスとヒューゴを静かに見据えた。
「……そこまでだ」
一瞬で場が凍りつく。
ヒューゴの指が、引き金に掛かったままピクリとも動かない。
「……手を離せ」
ヒューゴの口から漏れたのは、氷のように低い声だった。普段の軽口や冗談の気配は微塵もない。
「お前らなあ……めんどくさすぎるんだよ」
龍牙は冷たく吐き捨て拳をカテリナの頭に拳をそっとあてる。龍牙が肉体操作をして骨を飛び出させたらカテリナは死ぬだろう。
カテリナは突然の出来事に息を呑み、身体を硬直させていた。
「メ、メロルスさん……っ」
震える声が、静まり返った旅館に切なく響く。
メロルスは義手を軋ませ、一歩踏み出そうとした。
「……カテリナを、返せ」
「止まれ」
龍牙が短く告げる。
その声音には、先ほどまでの豪快さは一切ない。裏社会の用心棒としての、冷徹な刃のような鋭さだけが残っていた。
「これ以上近付いてみろ。この嬢ちゃんが真っ先に巻添えをくらうぞう」
メロルスの足がぴたりと止まる。
ヒューゴのリボルバーの銃口も、苦渋の思いとともにわずかに下がった。
二人とも重々承知していた。この至近距離でカテリナを盾にされては、手出しができるはずもない。
龍牙は二人を交互に見回し、嘲笑うように鼻を鳴らした。
「最初からこうすればよかったな。お前ら二人を正面から相手にするのは骨が折れる。だが……人質が一人いるだけで、いくらでも話が変わる」
カテリナは必死に身体を捻って抗おうとしたが、大人と少女の体格差はあまりにも圧倒的だった。
「ご、ごめんなさい……私のせいで……」
「謝るな!」
メロルスが叫ぶ。その声には悲痛な響きが混じっていた。
「お前は何も悪くない!」
龍牙はその遣り取りを冷ややかな目で見つめ、肩を揺らした。
「なるほどな。やっぱり大事な仲間ってわけだ」
「……龍牙、お前……!」
ヒューゴが歯が折れんばかりに食いしばる。
「無駄に名前を呼ぶな」
龍牙は二人から視線を逸らさぬまま、静かに後退を始めた。
一歩、また一歩。背後は決して見せない。
「悪いが、今日の俺の目的は勝つことじゃない。確実な情報と、上等な土産を持って帰ることだ」
メロルスの義手が限界まで握り締められ、フレームが悲鳴を上げる。
「待て……!」
「待つわけねぇだろ」
龍牙は不敵に口角を上げた。
「紫苑が喜びそうな客人だからな」
その名を聞いた瞬間、ヒューゴの表情が跳ね上がった。
「天城紫苑……!」
「そういうことだ」
龍牙は廊下へと滑り込むように下がりながら、二人へ鋭い警告を投げかける。
「追ってくるなよ。来れば、この嬢ちゃんを盾にしながら戦うまでだ」
脅しでありながら、極めて冷静な戦況の分析。
ヒューゴは引き金に指を掛けたまま、悔しさに身を震わせるしかできない。メロルスもまた、踏み出すことができなかった。
その一瞬の躊躇を逃さず、龍牙は翻って廊下へ飛び出した。
「追うぞ!」
二人が弾かれたように大広間を飛び出した頃には、すでに男の気配は消えていた。
旅館の外では、黒塗りの大型車が重低音のエンジン音を響かせて待機していた。
龍牙は迷いなく後部座席のドアを開ける。
「乗れ」
「嫌……離しくださいっ!」
カテリナは必死に抵抗したが、強引に車内へ押し込まれ、重いドアが容赦なく閉ざされた。
直後、タイヤが悲鳴のような摩擦音を立てて路面を掻く。
「止まれぇぇっ!!」
玄関から飛び出したヒューゴが叫ぶ。メロルスも義手を鋭く走らせ、全力で駆ける。
しかし、黒い車は夜の闇へ滑り込むように一気に加速し、あっという間に赤いテールランプの残像だけを残して消え去った。
静寂が、再び温泉街を包み込む。
メロルスは路上に立ち尽くしたまま、拳を強く握り締めた。
「……俺が、一瞬でも躊躇したからだ……」
「違う」
ヒューゴは悔しさに血が滲むほど唇を噛み、舌打ちした。
「相手が最初から、そう仕向けてたんだ」
メロルスは何も答えなかった。
ただその瞳には、深い怒りと苛烈な自責の念だけが揺らめいていた。
一方その頃──。
夜の高速道路を、黒塗りの車が滑らかに走り続けていた。
助手席に座る龍牙は、流れる街灯の光を眺めながら、深く息を吐き出す。
「……悪く思うなよ、嬢ちゃん」
後部座席で身体を強張らせるカテリナへ、静かに告げた。
「お前には、少し付き合ってもらう」
車はやがて街の明かりを離れ、巌巌会の拠点へと続く、暗く深い山道へと呑み込まれていった。




