白鯨の捕食、水底の咆哮
お楽しみあれ!
突如、館内の照明が落ち、真っ暗な水族館に静寂が訪れた。
かすかに灯る赤白い非常灯だけが、二人の足元を血のようにぼんやりと照らし出している。その不気味な光の向こう──巨大水槽の奥に浮かぶ黒い眼だけが、ゆっくりとこちらを見つめていた。
「……ヒューゴ」
唐突に、リシアの声がかすかに震えた。
「なんだ?」
「頭が……」
彼女は苦しげに額を押さえた。激しい頭痛。まるで脳を直接冷たい手で掻き回されるような、耐え難い不快感が彼女を襲う。
「っ……!」
たまらず膝をついたその瞬間だった。
水槽の奥の巨大な黒目が、さらにゆっくりと大きく開かれた。
ゴォォォォ……!
重低音が鳴り響く。いや、違う。鳴っているのは水ではない。彼女の頭の中で、大切な“記憶”が崩落していく音だった。リシアの美しい瞳から、意思の光が少しずつ、確実に消えていく。
「リシア!」
「……え?」
ヒューゴの声に、彼女はゆっくりと顔を上げた。しかし、その瞳にはさっきまであったはずの安心感も、彼への信頼も、何一つ残っていなかった。
「あなた……誰?」
ヒューゴの顔からすべての余裕が消え去った。
「……冗談、だろ」
「ご、ごめんなさい……分からない……何も、思い出せないの……」
彼女の怯える表情は本物だった。目の前にいる男が誰なのか、自分がなぜここにいるのかすら理解していない。
ヒューゴは息を呑んだ。
あの黒い眼だ。あれがリシアを見つめている。ただ視線を合わせているだけで、彼女のこれまでの人生が根こそぎ奪われていくのだ。
「リシア! しっかりしろ!」
「あなた……誰……? 私は……私は誰……?」
リシアは涙を流しながら、狂おしき頭痛に耐えるように頭を抱え込んだ。
「怖い……何も思い出せない……お母さんの顔も、子供の頃の景色も……何もかも、消えていく……」
ヒューゴの拳が、怒りで激しく震えた。
「あの野郎……!」
その時、黒い眼が嘲笑うかのようにさらに見開かれる。リシアの身体から完全に力が抜け、その意識が深い闇へと沈みかけようとした。
「リシアっ!!」
ヒューゴは崩れ落ちる彼女の身体を必死に抱き止めた。腕の中で、彼女は消え入りそうな声で最後に呟いた。
「……だれ?」
その一言が、ヒューゴの中の決定的な何かを叩き切った。
「……おい。もういい、十分だ」
彼の右腕のOGT義手が、怒号のような駆動音を鳴らし始める。義手内部のアンカー射出装置の安全装置が解除され、高出力のエネルギーが充填されていく。
「俺の女に」
義手の銃口を、巨大水槽の中心へと真っ直ぐに向けた。
「悪さしてんじゃねえぞ……!」
鼓膜を破らんばかりの轟音。
アンカーが容赦なく発射された。超硬質ワイヤーを強引に引き連れた鋼鉄の杭が、空間を切り裂いて突き進む。
水槽が、一瞬にして穴が開く。それでもアンカーの勢いは止まらない。凄まじい質量を持った杭は、真っ暗な闇を突き破り、あの巨大な黒目の中心へと一直線に突き刺さった。
ブチュッ──!
何か生々しく、柔らかい肉を貫通する確かな手応え。
直後、水族館の建物全体を激しく揺るがすほどの、耳をつんざく咆哮が轟いた。
「■■■■■■■■■■──!!」
それは、巨鯨の叫びだった。
これまで完全に透明だったその巨体が、割れたガラスから噴き出す大量の海水によって、白く悍ましい輪郭を現していく。
全長二十メートルを超える、異形の白鯨。その右目には、ヒューゴの放ったアンカーが深々と突き刺さり、血を流していた。
「やっぱりそこにいたか」
ヒューゴはワイヤーを力任せに握りしめた。
「逃がすかよ!」
義手が爆音を立ててワイヤーを一気に巻き取る。強引に引き寄せられた白鯨の巨大な頭部が、内側から水槽のフレームへと叩き付けられた。
ズドォォォン!!
ひび割れていたガラスが完全に粉砕され、滝のような海水が館内へと激しく流れ込む。白鯨は苦悶のあまり狂ったように暴れ狂い、その巨大な白い身体が、徐々に陽炎のように透け始めた。
同時にリシアが大きく息を吸い込んだ。
「……っ!」
「リシア!」
彼女の瞳に、鮮明な光が戻る。数秒の間、彼女は自分を抱きしめるヒューゴの顔をじっと見つめた。
「……ヒューゴ?」
その一言だけで、全てを察するには十分だった。
「思い出したか」
「ええ……全部、戻ってきたわ」
リシアは震える手で自身の額に触れる。強引に奪われかけていた記憶の奔流が、雪崩のように彼女の脳裏へと帰還していく。
「よかった……」
ヒューゴは心底安堵し、再び水槽へと視線を戻した。
しかし、そこにはもう何もいなかった。
あの巨大な白鯨は、まるで最初から幻影であったかのように、跡形もなく消え去っていた。残されているのは、無残に破壊された巨大水槽の残骸だけだ。
「……逃げたか、あるいは消滅したか」
それがどちらなのかを確かめる余裕は、彼らには残されていなかった。
不穏な強振動と共に、周囲の壁や柱に蜘蛛の巣状の亀裂が走る。
「……ヒューゴ」
「分かってる、掴まってろ!」
直後、ドォォォォォン!! という爆音と共に、水槽の土台が完全に崩壊した。
数百トンもの海水が、凄まじい濁流となって館内へ雪崩れ込んでくる。
「走れ!!」
ヒューゴはリシアの手を強く引き、全力で駆け出した。
背後からは、猛烈な水の壁が迫る。休憩用のベンチが木の葉のように流され、様々な展示物が砕け散り、巨大なサメの模型までもが濁流に呑まれて押し流されていく。
「出口はすぐそこだ!」
前方に迫る自動ドア。
次の瞬間、二人の背後から迫った巨大な濁流が、押し出すように彼らの身体を外へと弾き飛ばした。
濡れたアスファルトの上へと転がり出る二人。
数秒の後、ガラス張りだった美しい水族館の正面入り口が、爆音と共に内側から吹き飛んだ。大量の海水が周囲の道路へと溢れ出し、夜の街を一瞬にして小さな洪水へと変えていく。
激しい水音の中、ヒューゴは大きく息を吐き出した。
リシアも肩で激しく息をしながら、そっとヒューゴの腕を掴む。
「……助けてくれて、ありがとう」
「当たり前だろ」
ヒューゴは、照れ隠しのように小さく苦笑した。
「俺たち、恋人だからな」
リシアも柔らかく微笑んだ。だが、その笑顔はすぐに消え去る。
二人は無言のまま、完全に崩壊した水族館の残骸を見つめていた。
学校では「子供」が喰われ、
病院では「記憶」の回収が行われていた。
そして、この水族館を根城にしていたのは「人間の記憶そのものを捕食する白鯨」だった。
天城紫苑。
あの女は一体、何のためにこれほど大量の記憶を狂気的に集めているのか。
その真実の答えは、未だ底知れぬ深い闇の底に沈んだままだった。
ご一読ありがとうございました!
今回はヒューゴの義手アンカーが大活躍する熱い展開となりました。リシアの記憶が戻り、二人が無事で本当に良かったです。しかし、学校、病院、水族館と、天城紫苑の目的が「記憶の収集」にあることが明確になってきましたね。物語の核心へ迫る次回もどうぞお楽しみに!




