瞬きは深海の底で
水族館の閉館後、誰もいない静まり返った館内でリシアとヒューゴが対峙します。二人の不器用な和解と、直後に訪れる圧倒的な恐怖。ガラスの向こう側の「闇」に潜んでいた、想像を絶する存在の出現をお楽しみください。
水族館の営業時間は、すでに終わっていた。
館内に流れていた軽快なBGMも止まり、広い通路には循環ポンプの低い駆動音だけが重く響いている。青白い非常灯が、水槽のガラスにゆらゆらと冷たく反射していた。
リシアは巨大な黒い水槽を見上げたまま、小さく呟いた。
「……やっぱり、おかしい」
「何が見える?」
隣に立ったヒューゴが尋ねた。
「何も」
「そうよね」
二人の目の前にあるのは、高さ十メートル近い巨大水槽。しかし、その内部は完全な一色の黒だった。照明が故障しているわけではない。ライトは確かに点灯している。なのに、その光が奥へと届かないのだ。まるで黒そのものが、意志を持って水槽の中を埋め尽くしているようだった。
ヒューゴはガラスに手を当ててみる。ひんやりと冷たい、ただの分厚いガラスだ。
「叩いてみるか」
コン、と拳で軽く叩くと、鈍い音が返ってきた。
「普通だな」
「ええ」
リシアもガラスに触れる。
「……でも。さっきから」
リシアは鋭い眉を寄せた。
「視線を感じるの」
ヒューゴは冗談めかして笑おうとした。だが、引きつった笑みさえ浮かべられなかった。自分もまた、まったく同じ圧迫感にじっと肌を刺されていたからだ。
「……俺もだ」
空気が重い。静かすぎる。
ヒューゴは無意識に館内を見回した。誰もいない。スタッフも、一般の客も、外で待っているはずのメロルスたちも。
ここにいるのは二人きり。なのに、巨大な何かに取り囲まれているような錯覚だけが消えない。
「リシア」
「何?」
「俺さ」
ヒューゴは少し決まり悪そうに頭を掻いた。
「さっきは悪かった。……励ますつもりだったんだ」
「分かってる」
リシアは黙ったまま水槽を見つめている。
「でも、俺には人を励ます才能がないみたいだ」
その言葉に、リシアの固かった口元がほんの少しだけ緩んだ。
「そうね」
「否定してくれよー」
「事実だもの。あなた、本当にそういうところあるわ」
「そんなに裏表なく酷いか?」
「かなり」
ヒューゴは苦笑し、真っ直ぐに彼女を見た。
「ごめん。……俺、お前が何も見つけられなかったなんて思ってない。一週間も毎日ここに通って、執念深く調べ上げた。それだけでも十分すげぇよ。プロの仕事だ」
リシアは静かに息を吐いた。
「ありがとう」
「許してくれるか?」
「考えておく」
「まだ駄目か」
「当然よ」
そう言いながらも、彼女はヒューゴの手をそっと握った。
「でも。ちゃんと謝ってくれたから」
微かに微笑む。
「半分だけ、許してあげる」
ヒューゴも安堵の笑みを浮かべた。
「半分か」
「残り半分は、甘いものね」
「食い物で解決するのかよ」
「私はするわ。文句ある?」
「いや、安い女だなと思って」
リシアの肘が、ヒューゴの脇腹を軽く小突いた。
その時だった。
──コン。
二人は同時に、完全に動きを止めた。
「……聞こえた?」
「ああ」
ガラスの向こう。光を拒む黒い闇の奥から、何かがガラスを叩いたのだ。
コン。
コン。
コン。
規則正しい、明確な打音。まるで、こちらへ存在をアピールする合図のように。
ヒューゴはゆっくりと、仕込み武器のある義手を構えた。
「スタッフの悪趣味な悪戯じゃねぇよな」
「違う」
リシアは即答した。
「人の立てる音じゃない」
コン。
コン。
コン。
また鳴った。今度は、さっきよりも確実にこちらに近い。
「……いるわ」
リシアが息を呑む。
「中に」
「見えるか?」
「見えない」
「俺もだ」
二人は引き寄せられるようにガラスへと近付く。あと一歩。あと半歩。
その瞬間、リシアの身体が凍りついたように強張った。
「ヒューゴ」
「どうした」
「……今、瞬きした」
「何が」
リシアはかすかに震える指で、水槽の中央を指差した。
「目」
ヒューゴは反射的に視線を走らせる。最初はやはり何も分からなかった。ただの黒だ。
しかし数秒後、闇の奥から、ゆっくりと「丸い輪郭」だけが浮かび上がってきた。
巨大な円。直径だけで三メートルはあろうかという巨円。その中心には、漆黒よりもさらに深い、底なしの黒い一点があった。──瞳孔だ。
「……」
ヒューゴの呼吸が止まった。
それは、巨大な鯨の黒目だった。
水槽一面を埋め尽くすほど途方もなく巨大な頭部。その全貌は闇に隠れて見えない。ただ一つ、こちらをじっと見つめる巨大な眼球が浮いている。
その目が、ゆっくりと左右へ動いた。
完全に、ヒューゴとリシアの動きを追っている。
「……おい」
ヒューゴの喉から、掠れた声が漏れる。
「なんだよ……あれ……」
答える者はいない。
巨大な目が、静かに、一度だけ瞬きをした。
館内全体が地鳴りのように微かに震える。巨大な質量が、水槽の中で身じろぎしたのだ。
その瞬間、館内のすべての非常灯が一斉に消灯した。
完全な闇。
リシアが反射的にヒューゴの腕を強く掴む。
「ヒューゴ!」
「いるぞ、構えろ!」
真っ暗闇の静寂の中、二人は確かに聞いた。
水の中を不気味に蠢く、とてつもなく巨大な肉塊の音を。
ドン……
ドン……
ドン……
ゆっくりと、確実にこちらへと近付いてくる、深海の足音を。
ご一読ありがとうございました!
前半の二人の微笑ましいやり取りから一転、後半のホラー演出への落差を意識して描写を強化しました。水槽を埋め尽くすほどの巨大な「目」、そして突然の停電。暗闇の中で二人に迫るモノの正体とは? 緊迫の次回へ続きます!




