忘却の処方箋と、地下から響く足音
山奥の廃病院を舞台に、不気味な違和感が静かに加速していくエピソードです。メロルスとカテリナの距離感が縮まる冒頭の緊張感から一転、廃病院の内部で二人が目撃する「ありえない光景」への落差を意識しました。ホラーとサスペンスが融合した独特の空気感を楽しんでいただければ幸いです。
深夜零時過ぎ。
東京の喧騒から離れた山奥。人気の途絶えた山道を、二つの懐中電灯の光だけが細々と照らしていた。
「……やっぱり怖いですう」
カテリナが小さく身を縮める。街灯は一本もない。木々が風に揺れるたび、葉擦れの音が闇の中から何者かの囁きのように聞こえてくる。その少し前を歩くメロルスは、肩越しに振り返った。
「怖いんならホテルで待っててもよかったんだぞ」
「い、嫌ですう」
カテリナは慌てて首を振る。
「メロルスさん一人の方が危ないです!」
「俺は大丈夫だ」
「大丈夫じゃないですう!」
そう言って早足で距離を詰める。気付けば二人の肩は、今にも触れ合いそうなほど近くなっていた。
「……近いぞ」
「ひゃっ、ご、ごめんなさい!」
慌てて離れようとした瞬間、カテリナの靴が張り出した木の根に引っ掛かった。
「きゃっ!」
前のめりになった身体を、メロルスが反射的に受け止める。そのまま抱き留める形になった。
「……」
「……」
数秒、時間が止まる。懐中電灯の逆光の中で、カテリナの顔がみるみる赤くなっていくのが分かった。
「ご、ごめんなさいぃ……」
「怪我は?」
「へ?」
「怪我してないかって」
「あ……は、はい!」
メロルスはゆっくり腕を離した。
「ならいい」
それだけ言って再び歩き出す。後ろではカテリナが真っ赤な顔のまま口元を押さえていた。
(近い近い近い近いですぅ……!)
心臓の音が耳の奥で爆発しそうだった。
やがて木々が開け、二人の前に巨大な影が姿を現した。
五階建てのコンクリート建築。壁は黒く汚れ、窓ガラスは半分以上が割れている。這い回る蔦の隙間から、錆び付いて読めなくなった病院の看板が覗いていた。まるでそこだけ時間がせき止められたかのような佇まいだ。
「ここですね」
メロルスは手元の端末を確認する。
『旧・聖陵総合病院』
資料にはそう記されていた。現在は廃病院。そして『巌巌会がかつて運営していた施設』という一文だけが、赤字で強調されている。
「行くか」
「はい……!」
正面玄関のガラス扉は完全に破壊されており、夜風が容赦なく吹き抜けていた。
しかし、一歩中へ足を踏み入れた瞬間、メロルスは微かな違和感を覚える。廃病院特有のカビ臭さや埃っぽさが、ほとんど感じられないのだ。床は多少汚れているものの、人の手が入っている気配がある。
(誰かが最近まで掃除していた……?)
その時、廊下の奥から白い光が漏れているのに気付いた。
「……?」
二人は顔を見合わせた。資料では電気はとうに止まっているはずだった。
足音を殺し、慎重に廊下を進む。角を曲がった、その瞬間だった。
「先生、ありがとうございました!」
開け放たれた診察室から、若い女性が笑顔で出てきた。その後ろからは老人が、深く腰を曲げながらも嬉しそうに歩いてくる。
「いやぁ、本当に痛みが消えたよ。先生のおかげです」
「また来月お願いしますね」
メロルスとカテリナは、その場に釘付けになった。
「……廃病院、ですよね?」
「?……資料ではそうなっている」
なのに、そこにはごく自然に患者たちが溢れていた。待合室のベンチに座る人々からは、穏やかな笑い声さえ聞こえる。ホラー映画のような陰惨さは微塵もない。
「おや?」
一人の中年男性が、立ち尽くす二人に気付いて声をかけてきた。
「君たちも診てもらいに来たの?」
メロルスは努めて冷静を装い、会話に混じる。
「ええ、少し。……ここ、営業してるんですか?」
「営業というか……先生がボランティアで診てくれるんだよ」
男は自慢げに目を細めた。
「凄い名医なんだ。どこの大病院でも治らなかった私の腰痛が、一回で綺麗に治った」
「私は癌だったんですよ」
近くにいた女性も、吸い寄せられるように話へ加わる。
「もう駄目だって言われてたのに、ここで診てもらったら、影が全部消えちゃったんです」
「そんなことが……」
カテリナが目を丸くする。しかし、老人が困ったように笑いながら付け加えた。
「でもねぇ、少しだけ記憶が飛ぶんだよ」
「記憶、ですか?」
「昨日の夕飯に何を食べたかとか、昔の友達の顔とかね。本当に些細なことだけど、先生は治療の軽い副作用だって言っていたよ」
メロルスの眉がわずかに動く。
病気は完治する。しかし、代わりに記憶を失う。
「それで、皆さん納得してるんですか?」
「命には代えられないよ」
老人は迷いなくあっさりと言い切った。
「私は孫の顔をもう一度見られたんだ。多少の記憶がなくなっても、安いもんだよ」
周囲の患者たちも、一様に深く頷いている。誰一人、その異常な等価交換を疑っていない。その、どこか陶酔したような人々の様子を見て、カテリナが小声で囁いた。
「なんだか……変です。気味が悪いくらい、皆さん幸せそうで……」
「ああ」
メロルスも同じ違和感を抱いていた。空気が妙に軽い。全員が、自分の中の大切な“何か”を削り取られていることすら忘れてしまっているような、そんな底冷えする違和感。
「先生は今どちらに?」
「地下だよ」
患者のひとりが微笑む。
「先生は夜しか診療しないからね」
地下、という一言が、廊下の空気を一瞬で凍りつかせた。
メロルスは静かに、誰もいなくなった診察室の奥へ視線を走らせる。
埃を被った部屋の中で、中央の診察台だけが妙に新しかった。清潔な白いシーツ、鼻を突く消毒液の匂い、整然と並ぶ医療器具。
そして、机の上にポツンと一冊だけ置かれていた、古びたカルテ。
メロルスがそれを手に取ろうと、一歩踏み出したその瞬間。
――ギィィ……。
病院の奈落、地下へと続く重たい鉄の扉が、ゆっくりと開く音が館内に響き渡った。
カテリナが肩を小さく震わせる。
「……誰か、います」
メロルスは表情を変えず、静かに机の上へ視線を戻した。
だが、さっきまで確かにそこにあったはずのカルテは、忽然と姿を消していた。
最後までお読みいただきありがとうございます!
「病気は治るが、記憶を失う」という奇妙な治療を行う謎の医師と、その異常な等価交換を笑顔で受け入れる患者たち。彼らの姿を通して、廃病院に隠された歪んだ真実の片鱗を描きました。最後に消えたカルテと地下から響く音の正体とは一体何なのか……。二人の探索はここからさらに深い闇へと進んでいきます。次回もどうぞお楽しみに!




