水滴の輪郭、残り香の温度
鳴神学園で巻き起こる連続失踪事件。その異様な怪異の正体である「見えない金魚」に対し、ヒューゴは持ち前の機転と能力で立ち向かいます。異国の地・日本で繰り広げられる、緊迫した異能バトルの結末をどうぞお楽しみください。
屋上を包んでいた異様な気配が完全に消え去り、残されたのは爆発によって空になったプールと、あちこちに飛び散った水の残骸だけだった。
ヒューゴは濡れた髪を乱暴に掻き揚げ、周囲をぐるりと見渡す。コンクリートの床に、かつてここにいたはずの生徒たちの持ち物――ちぎれたミサンガや、誰かのものだったスクールバッグのストラップが、哀れに水に濡れて転がっていた。
だが、それだけだ。
化け物を倒せば、腹の中から、あるいは異空間から消えた十一人が戻ってくるのではないか。淡い期待がなかったわけではない。しかし、現実は非情だった。
「……いない」
少年が、濡れた床に膝をついたまま、呆然と呟いた。
「みんな、戻ってこない……。化け物を倒したのに、どうして……」
「……胃袋の中だったか、あるいは最初から『別の場所』に運ばれたかだな」
ヒューゴは苦そうにニューロパフの煙を吐き出し、コートのポケットから端末を取り出した。画面には、先ほど暴いた天城紫苑、そして《巌巌会》のデータが虚しく光っている。
やはり、あの見えない金魚は単なる「番犬」か、あるいは事件をカモフラージュするための道具に過ぎなかったのかもしれない。
「行くぞ、ガキ。ここにいても何も出やしねぇ」
「どこへ、行くんですか……?」
「決まってんだろ。あのタヌキオヤジのところだ」
ひしゃげた鉄の扉を、OGT義手のパワーで強引にこじ開け、ヒューゴは少年を連れて一階の校長室へと引き返した。
静まり返った廊下を通り、校長室の前に立つ。ヒューゴはノックもせず、濡れたブーツでドアを乱暴に蹴り開けた。
「よぉ、校長。プール掃除は終わったぜ」
部屋の中には、先ほどまでヤクザ然とした態度で凄んでいたはずの校長が、デスクにしがみつくようにして座っていた。ヒューゴの姿を見るなり、彼は弾かれたように立ち上がり、短い足を縺れさせながら駆け寄ってきた。その顔は完全に土気色で、大粒の涙と冷や汗が混じり合ってぐしゃぐしゃになっている。
「た、探偵さん……! 上の音が、完全に止んだな!? あの地獄のような気配が消えた……! ということは、やったんだな!? 倒してくれたんだな!?」
校長はヒューゴのボロボロになったコートの胸ぐらを、狂ったような力で掴んできた。その目は、己の保身や組織の都合などではなく、純粋な、狂気に近い懇願に満ちていた。
「生徒たちは……!? うちの子たちはどこだ!? 下に避難させているのか!? それとも、どこかの教室に隠れているのか!? 早く、早く合わせてくれ! 私が、私が悪かったんだ、彼らに合わせろ!!」
必死に周囲を見回し、ヒューゴの背後に隠れるように立つ少年一人しかいないことに気付いた瞬間、校長の思考はピタリと停止したようだった。血走った目が激しく泳ぎ、ヒューゴの顔を何度も見上げる。
「……おい、校長。落ち着け」
ヒューゴは静かに、だが冷徹な声で校長の手を払い除けた。
「
化け物は仕留めた。だが、生徒は一人も戻ってこねぇ。屋上に残されていたのは、あいつらの私物だけだ」
「……え?」
校長の声が、間抜けなほど小さく掠れた。
「戻って、こない……? 何を言っているんだ、お前は……。国際的な探偵なんだろう!? どんな事件も解決してきた凄腕の男なんだろう!? なのに、なぜ子供たちがいない!? 化け物を倒せば、全部元通りになるんじゃないのか!?」
「現実を見ろ。あの『金魚』はただの番犬だ。あいつらが消えた原因そのものじゃねぇんだよ」
その言葉が、校長の残された理性を完全に粉砕した。
「ふざけるな!!!」
校長は獣のような悲鳴を上げ、デスクの上にあった分厚い資料や文房具を、ヒューゴに向けて手当たり次第に投げつけ始めた。激しい破壊音が狭い校長室に響き渡る。
「お前が殺したんだ! お前がぐずぐずしていたから、子供たちは助からなかったんだ! 探偵なんて名ばかりの、ただの人殺しめ! なぜもっと早く見つけ出さなかった!? なぜ全員を無事に連れ戻さなかったんだ!!」
大声を上げて泣き崩れ、床を拳で叩きつける校長の姿を、ヒューゴはただ無言で見下ろしていた。理不尽な八つ当たりだ。だが、この男がどれほど本気で、自らの教え子たちの生還を願っていたかだけは、嫌というほど伝わってきた。それだけに、何ももたらすことができなかった自分自身の無力さが、濡れたコートの重みとなってヒューゴの肩にのしかかる。
「……すまねぇな。俺の腕が足りなかった」
ぽつりとそれだけを呟き、ヒューゴは踵を返した。泣き叫ぶ校長の声と、怯える少年の視線を背中に受けながら、校舎の外へと歩みを進める。胸の奥に燻る違和感と怒りは、もはや抑えきれないほどに膨れ上がっていた。
これほどまでに学校を、人間を狂わせる元凶。天城紫苑、そして《巌巌会》。
ヒューゴは歩きながら、濡れた手でポケットから端末を取り出し、リシアへの回線を開いた。
「あら、ヒューゴそっちの調査はもう終わったの?」
「あぁ、終わった終わった。だが最悪の気分だ」
ヒューゴはリシアにことの顛末を全て話した。
「……ひどい、その金魚は明らか能力由来でしょうね」
「ああ、だよな。じゃなかったらただの怪異だしよ」
ヒューゴはウンザリしていた。そして調査が終わり、ヒューゴの求めているものは一つ。それは"癒しの恋人"だ
そうと決まればヒューゴの行動は早かった。
「よし、じゃあこれで俺の方の調査も終わったことだし今からそっち向かうわ」
「ええ、人手は多い方がいいからね」
お互いの無事を確認した安心感からか、ヒューゴはニヤリと不敵な、それでいてどこか甘えたような笑みを浮かべた。
「そういうビジネスライクな話じゃなくてさ。俺、今すげぇ心がすさんでるわけ。だからリシア、そっち行ったら盛大にハグして、美味いたこ焼きでもあーんして食べさせてくれよ。頼むぜ、俺の最愛の恋人」
受話器の向こうで、一瞬の沈黙。それから、リシアのいつもの呆れたような、でも少しだけ嬉しそうな溜息が聞こえてきた。
『……あなたね。緊迫した調査の最中に、何を言っているのよ』
「いいじゃねぇか。頑張った探偵への正当な報酬だろ?」
『はいはい。無事に合流できたら、考えてあげるわ。だから、寄り道しないでまっすぐ来ること。いいわね?』
「了解、今すぐ飛んでいくぜ」
通話を切ったヒューゴは、すっかり軽くなった足取りで歩き出す。生徒たちが戻らなかった重い現実は消えないが、それを打破するための次の標的は決まった。
不穏な事件の渦中にあっても、相変わらずの調子で最愛のパートナーへの「癒やし」を求めながら、ヒューゴは水族館の座標へと向かって力強く走り出した。
お読みいただきありがとうございました!
前半のシリアスで重厚な戦闘描写から一転、ラストはヒューゴらしいマイペースさと、リシアへのストレートな愛情表現が光る探偵事務所ならではの締めくくりとなりました。
事件の真相、そして《巌巌会》の陰謀はさらに深くへと繋がっていきます。次なるメロルスたちの動向や、水族館での合流劇もどうぞご期待ください!




