脳戦
新新章閉幕!
「チッ、見えねぇ敵かよ。冗談きついぜ」
ヒューゴの顔から、完全にいつもの気怠げな笑みが消え失せていた。口元に咥えていたニューロパフを指先で弾き飛ばし、迫り来る「目に見えない質量」に対して全身の神経を研ぎ澄ます。空を仰いでも、そこにあるのは冷徹なほどに澄み渡った青空だけだ。しかし、足元の白いコンクリートをゆったりと、かつ確実に泳ぐ巨大な漆黒の影が、死神の鎌のようにヒューゴと少年の逃げ道を塞いでいた。
「 あれが、みんなを、みんなを食べた化け物なんです……!」
背後で腰を抜かした少年が、ひしゃげた鉄製ドアの残骸にしがみつきながらガタガタと震えている。怯えるその声が屋上に虚しく響いた。学校の屋上という、逃げ場のない閉鎖空間。出入り口は先ほどの影の強襲によって完全に潰され、周囲は頑丈な鉄柵に囲まれている。その鉄柵さえも、今や見えない質量によって飴細工のようにひしゃげているのだ。常人であれば、この時点で狂乱に陥っていてもおかしくはない。
「おい、ガキ。動くんじゃねぇぞ。そこに縮こまってるんだ」
ヒューゴは視線を足元の影に固定したまま、低く鋭い声で少年に命じた。
(本体は見えないが、物理的な質量は確実に存在する。風圧、そしてフェンスをへし折るほどの破壊力。問題は、見えない空間のどこにクソデカい体躯が位置しているかだ。影の位置からある程度の座標は計算できるが、三次元の高度までは掴みきれねぇ……)
その瞬間、床を泳いでいた金魚の影が、ピタリと動きを止めた。尾びれの輪郭が小刻みに震え、まるで獲物の位置を正確にロックオンしたかのように、その不気味な頭部がヒューゴの正面を向く。
——来る。
大気を切り裂く爆音。何もない空間から、突如として猛烈な突風が吹き荒れた。目に見えない巨大な弾丸が、超高速でヒューゴめがけて突進してくる。
「おいおい、凶暴すぎやしねぇか!」
ヒューゴは即座に身体を横へ投げ出した。
直後、彼が先ほどまで立っていた空間を「何か」が通過し、背後のコンクリート壁が爆破されたかのように粉砕して飛び散った。破片が容赦なくヒューゴの頬をかすめ、赤い一筋の血が流れる。
受け身を取りながら立ち上がったヒューゴの目が、すぐ横にある広大な空間へと向けられた。
そこには、静かに水を湛えた、鳴神学園の『屋上プール』があった。
「……そうかよ。そういうことなら、舞台としちゃあ最高じゃねぇか」
ヒューゴの唇が、再び不敵な形へと歪んだ。
(見えないなら、見えるようにしてやるまでだ。キーリオスで、泥水を啜りながら探偵をやってきたんだ。ハイテクな光学迷彩だろうが、オカルトまがいの能力だろうが、物理の法則からは逃げられねぇんだよ)
ヒューゴはわざと大きな足音を立てて、プールの縁へと走り出した。
「ほらほら、こっちだクソ金魚! 11人も生徒を喰って、まだ腹が減ってんのか!?」
その挑発に呼応するように、床の影が猛烈な勢いで急加速する。今度は直線的な突進ではない。影はプールの縁を滑るように回り込み、立体的な死角からヒューゴを圧殺しようと、上空へと跳ね上がった。
影が床から消えた。それは、見えない本体が「空中から襲いかかってくる」ことを意味している。
ヒューゴは容赦なく迫り来る死の気配を、肌に突き刺さる風圧のベクトルだけで感知した。正面、わずか上空から、空間そのものが押し潰されるような強烈な圧迫感が迫る。
「そこだ!!」
ヒューゴは網膜に焼き付けたプールの『対岸の監視カメラ』へと意識を集中させた。彼の持つ絶対的な能力——『監視転移』。
「レンズの向こう側」へと、自らの肉体を一瞬で転移させる空間跳躍術。
パチリ、と脳内で電子の弾ける音がした。
次の瞬間、ヒューゴの身体は、襲い来る見えない質量を紙一重で通り抜け、プールのちょうど反対側、スタート台の真上へと完全に「消失」し、そして「出現」した。
勢い余った見えない質量が、ヒューゴのいた空間を突き抜け、そのまま猛烈な質量をもってプールへと真っ逆さまに突っ込んだ。
その刹那、鳴神学園の屋上に、天をも衝くような凄まじい水柱が爆発した。
「ガハッ……!? ゲホッ!」
凄まじい質量によって押し出された何トンもの水が、津波となって屋上全体に降り注ぐ。ドアの残骸の影で丸まっていた少年が、頭から水を被って悲鳴を上げた。
だが、その水しぶきの向こう側で、ヒューゴは確信に満ちた目で前方を見据えていた。
「……ビンゴだ」
水面に飛び込んだ「見えない何か」。
本体は依然として透明であり、光を透過させている。しかし、激しく飛び散ったプールの水、そして、その見えない肉体にへばりついた「大量の水滴と膜」が、逆光の陽光を浴びて、そのおぞましい輪郭を完璧に三次元へと描き出していた。
そこにいたのは、全長五メートルを超える、異形の巨大な「金魚」だった。
体中にびっしりと透明な鱗の起伏があり、激しく波打つ水そのものが、巨大な尾びれとなって空間を叩いている。大きく開かれた口の内部は、飛び散る水によってその空洞の深さがはっきりと目視できた。
それは、水という衣服を纏うことで、初めてこの世界に実体化させられた、おぞましき能力由来の怪物だった。
「ギ、ギギギ、ギギギギギギッッッ!!!」
実体化された怪物が、初めてその喉(のような空間)から、ガラスを引っ掻いたような不気味な鳴き声を上げた。自身の絶対的な優位性であった「不可視」を破られたことへの、明らかな怒り。巨大な水の金魚は、プールの中でのたうち回りながら、再びヒューゴを噛み殺さんと狂暴に水面を跳ね上げた。
「見えたぞ、クソ金魚が! カモフラージュが剥がれりゃあ、ただのでかい的だ!」
ヒューゴはスタート台を力強く蹴り上げ、空中へと身体を躍らせた。
その左腕、高出力の義手が、駆動音を高らかに鳴り響かせる。義手のフレームに仕込まれたコンデンサが瞬時に最大出力を迎え、青白い電弧がパチパチと火花を散らした。
「十一人のガキどもの分だ。たっぷり味わっていけ!!」
空中での無防備な瞬間、水の金魚がその巨大な顎を開き、ヒューゴをひと呑みにせんと迫り来る。
だが、ヒューゴの義手は、その見えないはずの、しかし今は水によってはっきりと暴かれた顎のド真ん中へと、真っ直ぐに突き出された。
近接信管、作動。
『プロキシミティ・ブラスト』——!!
零距離で炸裂した高圧の衝撃波と指向性爆薬の焔が、水の金魚の頭部を真っ向から吹き飛ばした。
激しい爆風によって、怪物を形作っていた大量のプールの水が、今度は霧となって四方八方へと霧散していく。
「ギ、ギャァァァァァッッッ!!!」
悲鳴とともに、床をのたうち回っていた漆黒の影が、見る見るうちに薄れ、引き裂かれ、消滅していく。本体の消滅に伴い、屋上を支配していたあの異様な、背後から覗き込まれているかのような悪寒が、嘘のように綺麗に霧散していった。
バシャリ、と心地よい音を立てて、ヒューゴは水浸しになったコンクリートの床に着地した。
左腕の義手から立ち上る硝煙をフッと息で吹き消し、ヒューゴは大きく肩で息を吐く。コートはボロボロになり、全身からプールの水が滴り落ちていたが、その瞳には冷徹な探偵の光が戻っていた。
「ふぅ……。これで、十一人の『答え』の、最初の一歩ってところか」
プールは半分以上の水を失い、静まり返っている。
ヒューゴはゆっくりと、未だに呆然と立ち尽くしている少年の元へと歩み寄った。少年の瞳には、恐怖を通り越した、圧倒的な救世主を見るかのような畏敬の念が浮かんでいる。
だが、ヒューゴはそんな少年の頭を、濡れた手で手荒にクシャクシャと撫でた。
「おい、ガキ。怪我はないな?」
「は、はい……! た、探偵さん、凄すぎます……! あの化け物を、一撃で……!」
「凄くねぇよ。俺はただの、しがない探偵だ。それより……」
ヒューゴは、ひしゃげた鉄扉の向こう、静まり返った校舎の奥へと視線を向けた。
校長が口にした名前。天城紫苑。そして、巌巌会という不気味なヤクザ組織の影。
怪物を倒したというのに、胸の奥の違和感は、むしろさらに深く、重く沈み込んでいくようだった。
「この学校の闇は、どうやらあのクソ金魚一匹じゃ終わらねぇみたいだな」
ヒューゴはポケットから新しいニューロパフを取り出し、濡れた手でなんとか火を点けた。
煙が、日本の青い空へと、ゆっくりと溶けて消えていく。鳴神学園を舞台にした失踪事件。その真の黒幕へと続く、血生臭い足跡の第一歩が、今ここに刻まれたのだった。
閉幕




