日本への渡航
日本編始まりぃ
その日の午後。
探偵事務所は、いつも以上に騒がしかった。
「パスポートってこれでいいんですかあ!?」
「知らん!」
「知らんじゃ困りますう!」
「俺も海外行ったことねぇんだよ!」
机を挟んでカテリナとヒューゴが言い争う。
メロルスはソファに深く腰掛けながら額を押さえた。
「なんで出発前からこんな疲れるんだ……」
アイアンリング王者になったばかりだというのに、休む暇もない。宗玄からの十億リアルは確かに魅力的だった。魅力的だったのだが――。
「そうだ」
ヒューゴが突然立ち上がった。
「リシア誘おう」
「は?」
メロルスが顔を上げる。
「なんでだよ」
「海外旅行だから」
「仕事だろ」
「仕事兼旅行。それに、たまにはあいつと遠出したいんだ」
ヒューゴの悪びれもしない口調に、メロルスは「お前の頭の中どうなってんだ」と呆れつつも、それ以上は突っ込まなかった。二人が付き合っているのは周知の事実だからだ。
ヒューゴが端末を取り出し、数回の呼び出し音のあと、すぐに通信が繋がる。
『どうしたのヒューゴ?』
画面に映ったリシアは珍しく私服だった。どうやら休憩中らしい。
「日本行くぞ。日本」
『行くわっ』
即答だった。ヒューゴですら少し驚いた。
「まだ内容説明してねえのに」
『いつ出発?』
「明後日だ」
『じゃあ休暇取ってくる』
「早っ」
『じゃ、あとで詳細送っといて』
優しく微笑むような余韻を残して、通信が切れる。
三秒ほど沈黙。メロルスが口を開いた。
「内容聞かねぇ人なんだな」
「聞かないですねえ」
「……まぁ、俺が誘ったからな」
ヒューゴは少し嬉しそうに鼻を擦った。
数十分後。再び端末が鳴った。
『休暇取れたわ』
「マジかよ」
『二週間も』
「SHLDゆるくね?」
『まあねー』
リシアが画面の向こうで、少し悪戯っぽく微笑む。
『上司に、プライベートで海外に行くって言ったら一発で通ったの』
「なんで?」
『さあね?』
メロルスは遠い目をした。
「絶対、惚気話に付き合わされるのが嫌だったんだろ、その上司……」
そして出発当日。キーリオス国際空港。
巨大なガラス張りのロビーを見上げながらカテリナは目を輝かせていた。
「すごいですう……!」
「田舎から出てきた子供みたいだな」
ヒューゴがからかうと、カテリナはぷっと頬を膨らませた。
「初海外なんですよお! メロルスさん、ヒューゴさんがいじめますう!」
「ヒューゴ、カテリナをからかうな。……カテリナ、はぐれるから俺の近くにいろ」
「は、はあい……!」
メロルスに真顔で言われ、カテリナの顔が再び茹でダコのように赤くなる。
「空港、色々高ぇな」
ヒューゴが売店を見ていると、背後から聞き馴染んだ声がした。
「久しぶり」
振り返る。黒いジャケットにジーンズ。ラフな私服姿のリシアだった。
普段は慣れていない格好せいか、大人の女性らしいラインが強調されていて、どこか艶っぽい。
ヒューゴはリシアの腰に自然に手を回し、その耳元で囁いた。
「似合ってる。いつもより綺麗だ」
リシアは一瞬驚いたように目を見開いたが、すぐにふっと柔らかく微笑んでヒューゴの胸元を軽く小突いた。
「……みんなが見てる」
「いいだろ、俺の彼女なんだから」
「バカ」
そのやり取りを見て、カテリナは「ひゃああ……大人の空気ですぅ……」と一人で悶え、メロルスは「お前ら、外では自重しろ」と頭を抱えていた。
数時間後。飛行機は日本へ向けて飛び立った。
窓の外には雲海。カテリナは離陸から三十分ずっと窓を見ている。
「雲ですう……メロルスさん、見てくださいい!」
「ああ、綺麗だな(カテリナの横顔を見ながら)」
「すごいですう……!」
「そうだな(やっぱりカテリナを見ながら)」
その横で、ヒューゴとリシアは一つのブランケットを共有し、肩を寄せ合って静かに眠りについていた。お互いの体温を感じ合うような、恋人ならではの落ち着いた空間がそこにはあった。
そして。日本。本州。
巨大な国際空港へ降り立った四人は、まず最初に思った。
「人多っ」
ヒューゴが呟く。見渡す限り人、人、人。
メロルスも若干引いていた。
「キーリオスの中心街より多くねぇか?」
「多いですねえ」
「迷子になる」
とヒューゴが呟いた。それに対してリシアが真顔で言う。
「アンタが?」
「今言うなよ。ほら、はぐれんな」
ヒューゴは自然にリシアの手を握り、指を絡ませた。リシアも拒むことなく、その手を強く握り返す。
「わ、私たちも、はぐれないようにしないとですねえ……!」
カテリナがチラチラとメロルスの手を見つめる。メロルスは心臓がバクバク鳴るのを必死に抑えながら、そっとカテリナの服の袖を掴んだ。
「……手、繋ぐのは、その……恥ずかしいから、袖で、いいか?」
「はあい……! 十分ですう……!」
二人の間には、ヒューゴたちとは違う、初々しく甘酸っぱい空気が流れていた。
そして、そんな会話をしながらも、四人は日本の街へ足を踏み入れた。
高層ビル。巨大な広告。ネオン。整然とした道路。そしてどこか独特の空気。
「へぇ」
ヒューゴは少し感心した。
「思ったより綺麗だな」
「まず仕事なんじゃないの?」
「分かってる分かってる」
そう言いながらヒューゴはすでに屋台を見ていた。
「たこ焼きだ」
「聞いてねぇな」
その頃。彼らの知らない場所。
高層ビルの最上階。全面ガラス張りの執務室。
一人の女が静かに窓の外を眺めていた。
長い黒髪。鋭い瞳。整った顔立ち。年齢は二十代後半ほど。
机の上には巌巌会の紋章。
その女の名は――天城 紫苑。
巌巌会若頭補佐。そして実質的な統括者。
「来たそうです」
部下が報告する。紫苑は振り返らない。
「誰が?」
「NISIKI側の人間です」
「……そう」
短い返事。だが瞳だけが僅かに細くなる。
その背後。ソファに寝転がっていた大男が欠伸をした。
「へぇ」
男は立ち上がる。二メートル近い長身。人懐っこい笑顔。優しそうな顔。到底ヤクザの護衛には見えない。
龍牙だった。
「面白そうじゃん」
「面白くない」
紫苑が即答する。
「私は面倒事が嫌いなの」
「知ってる」
龍牙は笑った。
「だから俺がいるんだろ?」
紫苑は少しだけ黙った。
幼い頃から変わらない笑顔。周囲から期待と重圧を押し付けられ続けた自分を守ってきた男。唯一気を許せる存在だった
「ねえ……死なないでよ」
「誰が?」
龍牙は笑う。
「俺は不死身だぞ?」
そう言って窓の外を見た。
開始ぃ




