サンクチュアリ
拝啓 錦 雷真様へ
私千代ノ皇こと霧島 剛は修行に出ます。ですがご安心下さい。私が不在の間、雷真様の御身をお守りするため、私の代わりとして信頼に足る十分な腕を持った者を配備いたしました。すでに手配は完了しており、明日より雷真様の影として警護にあたらせます。
これまで数々の修羅場を共に潜り抜けてこれたこと、誇りに思っております。この修行を経て、私はさらに強固な盾となり、必ずや再び雷真様の前へと戻る所存です。
どうかそれまで、ご無事で。
敬具
霧島 剛
数日前、
「実は……明後日から、各地にある錦の工場をいくつか回ってみようと思っているんだ」
豪華な私邸の書斎で、雷真はどこか申し訳なさそうに、しかし決意を秘めた声で切り出した。手元のお茶に視線を落としたままのその佇まいは、巨大企業『錦』の直系でありながら、どこまでも控えめで物静かだ。
その言葉を聞いた瞬間、傍らに控えていた霧島剛の巨体が、わずかに強張った。大相撲の歴史において『千代ノ皇』の名で恐れられたその身体は、用心棒となった今も現役時代と変わらぬ圧倒的な威圧感を放っている。
「工場の見学、でございますか」
「うん。先の大きな事故もあったし……僕も錦の人間として、自分の目で現場がどうなっているのか、きちんと見ておきたいんだ。……………やっぱり、僕には荷が重いかな?」
自信なさげに眉を下げる若き主人の姿に、剛は一歩前へ踏み出し、重々しく首を振った。
「滅相もございません。雷真様がそのように会社の未来を案じ、行動を起こされるのは大変立派なことです。……ですが」
剛の声音に、力士としての誇りと、用心棒としての鋭い警戒が混じる。
「今この時期に動かれるのは、あまりに危険すぎます。工場の事故に便乗し、錦の力を削ごうと画策する日本のヤクザどもも最近動いています。そして、不穏な動きを見せているのはご存知のはず。雷真様が各地を巡るとなれば、格好の標的になりかねません」
「剛がいてくれれば、大丈夫だと思っているよ。いつも守ってくれているしね」
雷真は少しだけはにかむように微笑んだが、剛の心配は尽きなかった。ヤクザの刺客どもが仕掛けてくるのは、正々堂々とした戦いではない。卑劣な奇襲や、最新の違法サイバーウェアを用いた暗殺術だ。
「……私の体に埋め込んだ皮下シールドは、所詮は防弾チョッキ程度の代物。過信はできません。ですが、鍛え上げたこの突っ張りがあれば、どのような刺客が来ようとも、土俵際で引くような真似はいたしません。何があっても、私の側を離れないと約束してください」
「ありがとう、剛。迷惑をかけるけど、よろしく頼むよ」
深く頭を下げる雷真の頭上、剛は密かに決意を固めていた。主人の純粋な願いを叶えるため、横綱の如き不動の盾となり、襲い来る脅威をすべて叩き潰さねばならない、と。
雷真が工場見学の旅を宣言してから数日、剛の懸念は最悪の形で的中することとなった。ヤクザ連合は、巨大企業『錦』の次男坊である雷真を確実に仕留めるため、執拗に異形の暗殺者たちを送り込んできたのだ。
薄暗い霧が立ち込める地区Cの峠道。雷真を乗せた高級セダンがヘアピンカーブに差し掛かった瞬間、前方の空間が歪んだ。
「雷真様、伏せてください!」
剛の野太い声と同時に、フロントガラスが爆散した。超高周波ブレードを携え、光学迷彩を解いたOGT剣士の剣がボンネットに突き刺さる。全身を違法パーツで固めたその暗殺者は、人間離れした速度で駆動アームを振り下ろしてきた。
剛は即座に雷真を座席の隙間へ押し込み、自らの巨体を車の外へと投げ出した。
「フンッ!」
剛が息を吐き出すと同時に、剣士の放った鋭い一撃が剛の胸板を捉えたが、皮下シールドが守り、皮を断つだけで肉を断つまでには至らない。
「チッ、錦の鉄壁が……!」
サイボーグ剣士が後退しようとするが、剛はその隙を逃さず、懐から大口径のピストルを引き抜き、脳天に銃撃を浴びせる。激しい破壊音とともに剣士が動かなくなるのを確認し、剛は激しく息を荒げた。
「大丈夫ですか、雷真様」
車内から這い出てきた雷真は、青ざめながらも剛の無事を見てホッと胸をなでおろした。
「うん、剛のおかげで……。でも、本当に僕を狙う人たちがいるんだね」
「ヤクザどもは錦の技術と利権を執拗に狙っております。次男坊である雷真様を消し、錦の基盤を揺るがすのが目的でしょう。ここから先は一歩たりとも油断できません」
その夜、移動中の臨時の隠れ家で、剛はピストルのメンテナンスを行いながら、かつての記憶に思いを馳せていた。
十年前、剛は大相撲の『東関部屋』に所属する注目の力士、「千代ノ皇」だった。その部屋には、もう一人、同じように横綱を期待されていた男がいた。「大厳山」本名を佐藤というその男は、剛にとって最大のライバルであり、唯一無二の親友だった。
二人は毎日、血の滲むような稽古を繰り返した。
『おい剛、次の本場所ではどちらが先に大関に上がるか勝負だ!』
『ふん、佐藤、お前の生ぬるい突っ張りでは俺の腰は割れんよ』
泥にまみれ、ちゃんこを囲み、互いに相撲の未来を語り合ったあの頃の記憶は、今でも鮮明に輝いている。
しかし、運命は残酷だった。大厳山は、病に倒れた身内の莫大な治療費を工面するため、裏社会の賭け相撲に手を染めてしまったのだ。それが協会に発覚し、彼は一発で角界を永久追放された。
行くあてを失い、世間から後ろ指を指された大厳山は、そのまま彼に金を貸し付けていたヤクザの組織へと取り込まれ、その圧倒的な肉体を
「暴力の道具」として切り売りするしか生きる道がなくなってしまった。
一方、残された剛もまた、親友を救えなかった悔恨と、近代化が進む角界の派閥争いに嫌気がさし、自ら髷を落とした。
路頭に迷いかけた剛の手を引いたのが、巨大企業『錦』の総帥、錦宗玄だった。
『霧島よ、お前のその頑強な身体と、何者にも屈しない不屈の心。眠らせておくには惜しい。我が孫、雷真の盾となってくれんか』
宗玄は、控えめで心優しいがゆえに親族内での権力争いや外敵から狙われやすい雷真のことを、心から案じていた。剛は宗玄の深い情に打たれ、サイバー技術による「皮下シールド」の施術を受け、雷真の専属用心棒となることを誓ったのだ。
「雷真様は、人の心の痛みがわかるお方だ。だからこそ、俺が守らねばならん」
剛はピストルのスライドをガチリと戻し、静かに目を閉じた
いくつかの工場を巡り、旅の最後に雷真が希望したのは、最も市民の生活に近い場所だった。
「錦が一般の人たちに直接製品を届けている、一番小さくて素朴な販売所を見たいんだ。ショッピングモールの中にある直営店へ行かせてほしい」
雷真の控えめな、しかし誠実な願いを拒む理由はなかった。
週末の巨大ショッピングモールは、ホログラムの広告が華やかに踊り、家族連れや恋人たちで溢れかえっていた。雷真が直営店のショーケースを興味深そうに見つめている。その穏やかな日常の風景を眺めながら、剛もまた、わずかに警戒を緩めていた。
その瞬間だった。剛の全細胞が、かつて土俵の上で何度も味わった「強者の気配」を察知した。
「雷真様、下がっ――!」
ドガァァァン!!!
背後の太いコンクリートの柱が爆破されたかのように粉砕し、そこから突進してきた圧倒的な巨躯が、剛の横腹に直撃した。
「ぐはぁっ!?」
百数十キロの剛の身体が、紙屑のように数十メートルも吹き飛ばされる。防護ガラスの壁を次々と突き破り、床の大理石を削りながらようやく止まった。衝撃で皮下シールドの回路が過負荷を起こし、視界に真っ赤な警告バグが走る。
「相変わらずいい反応だな、千代ノ皇。だが、シールドが追いついていないぞ」
立ち込める白煙の向こうから、悠然と歩み寄ってくる影があった。仕立
ての良い高級スーツに身を包んでいるが、その下に隠された筋肉の塊は、間違いなく力士のものだ。
その男――大厳山は、冷酷な目で剛を見下ろし、右手の手平に握った大型のピストルを迷いなく剛の眉間へと向けた。
「……佐藤……! なぜお前がここにいる!」
剛は激痛に耐えながら、床に転がっていた自分のピストルを掴み、寝技の体勢から銃口を向け返した。
至近距離で激しい銃声が炸裂する。モールの静寂は一瞬で悲鳴へと変わり、人々が蜘蛛の子を散らすように逃げ惑う。
剛は放たれた弾丸を肉体で受け止めながら地を這うように肉薄し、大厳山の持つピストルを鋭い掌打で叩き落とした。しかし同時に、大厳山の重厚な足払いが剛の腕を捉え、剛のピストルもまた、遥か彼方の吹き抜けの底へと弾き飛ばされていく。
互いに武器を失い、見上げるような形で二人の巨漢が対峙した。
「なぜ、だと?」
大厳山は自嘲気味に笑い、スーツのネクタイを乱暴に引きちぎった。
「ヤクザの連合が、錦の次男坊の首に莫大な賞金を懸けた。俺がこの裏社会でのし上がるための、最高の座布団だ。お前のように、大企業の御曹司に飼われてぬくぬくと生きている奴には、俺の渇きは分からんだろう!
「俺は飼われているわけではない! 雷真様の志をお守りしているのだ!」
剛の叫びとともに、二人の肉体が激突した。
大厳山が繰り出す猛烈な「突っ張り」の連打。一発一発が大型ハンマーのような衝撃を持ち、シールドの切れた剛の胸板を容赦なく打ち据える。
「がはっ……!」
剛は防戦に回らざるを得ず、大理石の床に足跡を刻みながらジリジリと後退していく。大厳山はニヤリと下品に笑うと、一気に前傾姿勢を取り、力士特有の圧倒的な押し出しに切り替えた。
背後は、2階ロビーのガラスの手すり。
「落ちろ、千代ノ皇! ここがお前の引き際だ!」
「ぬあああっ!」
バリィィィン!!!
手すりが木っ端微塵に砕け散る。剛の巨体は大厳山の押しに抗いきれず、宙へと投げ出され、2階の高さから真っ逆さまに落下していった。
ドシャァァァァァン!!!
ショッピングモールの中央広場に、凄まじい水しぶきが天空へ向かって爆発した。
剛が叩きつけられたのは、1階の円形ロビーの中央にある、噴水の中だった。
背中を襲う激痛と冷たい水。剛はジャバジャバと音を立てながら、なんとか身体を起こした。周囲を見渡すと、吹き上がる水、円形に縁取られた大理石のフチ
「ここは……」
それは、サイバー都市の喧騒の中に突如として現れた、紛れもない「土俵」の姿だった。
「ふん、死に場所としては上等じゃないか」
上空から、大厳山が重々しく1階へと飛び降りてきた。彼もまた、一切の躊躇なく噴水の中――土俵へと足を踏み入れる。
「銃も、ハイテクなシールドも壊れた。残ったのは、この肉体と意地だけだ」
大厳山がスーツの上着を脱ぎ捨て、深く腰を割り、両手を広げて強固な構えを取った。その目は、ヤクザの暗殺者のものではなく、かつて東関部屋で共に競い合った力士「大厳山」のものに戻っていた。
剛の肉体は限界を迎えていた。しかし、目の前に立つ男の覚悟を見た瞬間、千代ノ皇としての血が、体の奥底で激しく滾り始めた。
「……ああ、その通りだな。佐藤」
剛もまた、破れたシャツを引きちぎり、剥き出しの胸を張って深く腰を割った。
「見合って、見合って……」
剛が低く呟き、拳を水面に突き立てる。
激しい水しぶきが二人の巨体を濡らす中、静まり返ったモールに、壮絶なる死闘の幕が上がろうとしていた。




