箱入り娘と運び屋 その四
あなたも百合最高と叫びなさい!
ヒューゴはため息を吐いた。
「そう……邪魔したくないんだけどねぇ」
右腕を構えると、義手の装甲がスライドして展開し、鈍色に光るワイヤー射出口が露出する。
レイナの背中を冷たい汗が伝い落ちた。
本能が警鐘を鳴らしている。ヤバい。コイツは間違いなくヤバい。絶対に戦っちゃいけない相手だ。
だが。
「……ッ!」
レイナは覚悟を決め、懐から拳銃を引き抜いた。
ダンッ!!
躊躇のない一発。銃弾は正確にヒューゴの額を捉えた――はずだった。だが、そこにいるはずのヒューゴの姿が掻き消える。
「は?」
次の瞬間、右側から声がした。
「おー、こわいねえ」
ダンッ!!
反射的に撃つが、外れ。
今度は左。
「当たると思ってる?」
ダンッ!!
ダンッ!!
ダンッ!!
狂ったように連射するが、そのすべてが虚空を穿つ。
ヒューゴはただ歩いていた。走ってすらいない。まるで弾道が最初から見えているかのような最小限の動き。レイナの顔から、みるみる血の気が引いていく。
(なんだコイツ……なんなんだよ……!)
ヒューゴは呆れたように肩を竦めた。
「射撃は上手い方だと思うよ、うん」
「……!」
「相手が悪かっただけさ」
その飄々とした物言いが妙に腹立たしい。
レイナは距離を取ろうと大きく飛び退いた。ヒューゴはそれを追うが、やはり慌てる様子も焦る様子もない。まるで夕方の散歩だ。その圧倒的な余裕が、余計に恐怖を煽る。
弾切れになったピストルを投げ捨て、レイナは足元に転がっていた鉄パイプを引っ掴んで叫んだ。
「舐めるなァ!!」
渾身の一撃を、ヒューゴはわずか一歩横にズレて避けた。
「だから危ねぇって」
ヒューゴの脚が上方に動くのが見え、レイナは反射的に後ろへ跳んだ。だがその瞬間、足元にたまっていた瓦礫に足を取られる。
「きゃっ!?」
盛大にバランスを崩して転倒する。
ドサッ、と床に叩きつけられた直後、ヒュンッ!!と凄まじい風圧が吹き抜けた。
レイナの頭上わずか数センチの空間を、鋭い蹴りが通過していく。風で髪が数本舞い散った。もし転んでいなければ、確実に顔面を撃ち抜かれていただろう。
レイナは床にへたり込んだまま硬直した。
「ふーん……」
「……」
ヒューゴは頭を掻きながら、小さく息を吐く。
「ラッキーだったな」
レイナは言葉を返せなかった。
今の一瞬で、完全に理解させられた。どうしようもない実力差だ。そもそも戦いにすらなっていない。
ヒューゴがゆっくりと足音を響かせて近付いてくる。
「終わりにしようぜ」
レイナは悔しさに歯を食いしばった。
守りきれない。どうしても、勝てない。
その時だった。
「やめてください!!」
背後から美鈴が飛び出してきた。二人が目を見開く中、彼女は地べたに倒れるレイナの体に思い切り抱きついた。
「え?」
呆然とするレイナの腕の中で、美鈴の小さな身体は激しく震えていた。ボロボロと大粒の涙を流しながら、それでも決して離れようとしない。
「もう嫌です……」
「美鈴……?」
「レイナさんが傷付くの、絶対に嫌です……!」
美鈴の声は震え、涙がレイナの頬に落ちる。
「私……!」
「……」
「レイナさんが、好きです!」
工場の空気がピタリと止まり、レイナの思考も完全にフリーズした。
「え?」
「好きです」
「いや、ちょっと待って」
「好きです」
「待てって」
「好きです!」
「三回も言うな!」
美鈴は涙を拭おうともせず、必死に言葉を紡いだ。
「コンビニに連れて行ってくれました」
「……」
「ゲームセンターも」
「……」
「ファストフードも」
「……」
「全部、私にとっては初めてでした」
感情が溢れて涙が止まらない。
「ずっと楽しかった……! レイナさんといる時が、一番楽しかったんです!」
レイナは完全に言葉を失った。胸の奥が熱くなり、何も言えずに立ち尽くす。
静まり返った廃工場の中で、ヒューゴだけが所在なさげに天井を見上げていた。
「……あー」
どこか納得したような声を出し、ヒューゴは呟く。
「なるほどね」
完全に事情を察したらしい。
彼はレイナを見て、美鈴を見て、もう一度レイナを見た。
そして、これ以上ないほど深い、長いため息を吐き出す。
「五百万だったんだけどなぁ……」
それは、あまりにも切実な本音だった。
ヒューゴは観念したように義手の装甲をパチリと収納し、完全に武器を収めた。
「もう帰るわー」
あまりの急転直下に、レイナが目を丸くする。
「は?」
「いや」
ヒューゴは気怠げに肩を竦めた。
「そこまで思われてる奴らを、無理やり引き離す気にはなれないしね」
美鈴はレイナの腰へさらに強くしがみつき、それを自覚したレイナの顔が耳まで真っ赤に染まっていく。
ヒューゴは懐から携帯端末を取り出すと、宗玄に向けて短い報告を作成した。
『対象を発見』
『本人はきわめて安全、ただし帰宅の意思は一切なーし』
『以上』
「送信っと」
操作はそれだけだった。
「あんた……どういうつもり?」
「ん? 保護対象が安全そうだから、もう俺の仕事は終わりってこと」
ヒューゴはひらりと手を振り、出口へと歩き出す。その背中が、今は妙に大きく見えた。
レイナは思わず、その背中に声をかける。
「おい」
「ん?」
「もしあんたが本気だったら……私はどうなってた?」
ヒューゴは足を止めた。
振り返ることはせず、ただ淡々と、一言だけ告げる。
「最初の一発で、終わってたかもねー」
レイナは息を呑んだ。
冗談でも脅しでもない、冷徹なまでの事実としての断言だった。
ヒューゴはそのまま歩みを進め、数秒後には暗がりの向こうへと姿を消した。
残されたレイナは、しばらくその場から動くことができなかった。
だが、腕の中の美鈴だけが、嬉しそうに涙を拭って笑う。
「レイナさん!」
「……なんだよ」
「好きです!」
「さっき嫌というほど聞いた!」
「もう一回言います! 好きです!」
「やめろって!」
「好きです!」
「だからうるさい!」
薄暗い倉庫街に、美鈴の晴れやかな笑い声が響き渡った。ヒューゴの姿はもうない。だが、二人とも痛いほど理解していた。もしあの探偵が本気で任務を遂行するつもりだったなら、自分たちは今頃ここにいられなかっただろう、と。
その頃、『NISIKI』本社の最上階。
「ふむ、そうか」
宗玄は送られてきた報告書を確認し、静かに端末を閉じた。
「まあ良い。あの子は少し、箱の中で育ちすぎた。たまには下界の風に揉まれるのも、良い経験だろう」
非情な一族のトップである宗玄が見せた、それは滅多にない人間らしい一面だった。
後日。スラムのホテル、少し晴れやかな朝。
レイナは目を覚まし、ふと隣のベッドへ視線を向けた。
そこには――誰もいなかった。
(ふぅ……まさかとは思ったけど、やっぱり私の杞憂だったか)
昨夜の告白以来、妙に意識してしまっていた自分に苦笑し、レイナがベッドから起き上がろうとしたその時。
「レイナさーん」
お馴染みの呑気な声と共に、キッチンから淹れたてのコーヒーを持って入ってきたのは美鈴だった。
しかもその格好は――俗に言う「彼シャツ(※レイナの大きめのシャツを一枚羽織っただけ)」姿である。
あまりにも刺激的で想定外の光景に、レイナは目を見開き、口をあんぐりと開けて完全にフリーズした。
美鈴はいたずらっぽく小悪魔的な笑みを浮かべ、レイナの顔を覗き込む。
「ふふ、なんですか? そのお・か・お。……それと、昨日はとってもお楽しみでしたね?」
その爆弾発言に、レイナはさらに限界まで目を見開いた。物理的に目玉が飛び出しそうなほどの衝撃を受けながら、運び屋レイナの心臓は、ヒューゴと対峙した時以上の危機的スピードで跳ね上がるのだった。
百合最高!百合最高!




