蝶
夜景を背に、セレナは小さく笑った。
溢れる涙を何度も拭うが、その笑顔は今にも壊れてしまいそうなほど儚く、歪んでいた。
「……そっか」
その瞬間、ヒューゴは目を見開いた。
彼女の背中から、現実のものとは思えない白い蝶の羽が音もなく広がっていく。ひらり、ひらりと、周囲の闇を拒絶するように銀色の鱗粉が美しく舞い散った。
「セレナ……!?」
ヒューゴの声が低く緊迫する。
だが、遅かった。その銀色の輝きは、一瞬にして展望フロア全体へと拡散していく。
「あれ……?」
「なんだこれ、急に……眠気が……」
周囲の観光客たちが、糸が切れた人形のように次々とその場へ倒れ伏していく。
リシアもまた、激しい目まいに顔をしかめた。
(……強力な……睡眠ガス、の類!?)
諜報員としての本能が最大級の危険を察知するが、急速に身体の自由が奪われていく。膝の力が抜け、視界が急速に狭まった。
「セレナ!! 何をしてる!!」
ヒューゴの鋭い怒号が響く。
セレナはただ、深く俯いたまま震えていた。
「ごめん……本当に、ごめん……ヒューゴ」
涙混じりの声。だが、背中の蝶の羽はさらに大きく、冷酷に広がり続ける。
「でも、私……どうしても諦めきれなかったの……!」
その刹那、リシアの身体が完全に崩れ落ちた。ヒューゴは迷わず彼女の元へ駆けつけ、その華奢な身体をガシッと抱き留める。
「ヒューゴ……」
「喋るな、息を吸うな」
「意識が……保て、ない……」
「分かってる。しっかりしろ!」
周囲の人間は全員眠りについた。このままこの場に留まれば、いくら能力者のヒューゴといえど限界を迎えるのは時間の問題だ。ヒューゴは鋭い視線を、眼前に広がる展望台の巨大な強化ガラスへと向けた。
「悪い、ちょっと手荒にいくぞ!」
高出力のOGT義手で、厚いガラス窓を真っ向から叩き割る。激しい破砕音と共にガラスの豪雨が夜空に散り、ヒューゴはリシアを抱き抱えたまま、迷わず地上八百メートルの虚空へと身を投げ出した。
「ちょっ……!? ヒューゴ!?」
セレナが驚愕に目を見開く。
常人ならば即死の高度。しかし落下の最中、ヒューゴの義手から高強度ワイヤーが鋭く射出された。ワイヤーは強固な展望デッキの縁へと深く突き刺さり、強烈な衝撃と共に二人の身体を空中で踏みとどまらせる。その遠心力を利用して、二人は一段下の屋外展望デッキへと滑り込むように着地した。
「ぐっ……!」
全身に衝撃が走るが、骨は折れていない。腕の中のリシアは、すでに半分眠りに落ちかけていた。
「リシア、起きろ!」
「無理よ……頭が、働かない……」
「寝るな!」
「眠いの……」
完全に弱りきり、うつろな目で自分を見上げるリシア。普段の冷徹な諜報員としての彼女からは、絶対に想像もつかないほど無防備な姿だった。
ヒューゴは一瞬だけ口を噤み、それから、彼女の冷たくなった頬にそっと手を置いた。
「聞け。一回しか言わねぇからな」
「……ん……」
リシアが微かに、本当に微かに目を開く。ヒューゴはその瞳を真っ直ぐに見つめ返した。
「俺は、お前が好きだ」
リシアの瞳が、驚きに大きく揺れる。
「任務だの何だのは関係ねぇ。裏の事情も知るか。利用しようなんて気も、さらさらない!」
「……」
「お前といると楽しい。一緒に飯食って、くだらねぇ話して……気づけばまた、次も会いてぇって思ってるんだよ!」
リシアの目尻から、一筋の涙が静かに伝い落ちた。
ヒューゴは不敵に、だがこの上なく優しく笑ってみせる。
「だから……俺は、お前を選ぶ」
リシアは泣きながら、小さく、呆れたように微笑んだ。
「……ずるいわね、アナタって人は」
「そうか?」
「そんなこと、こんな状況で言われたら……もう、何一つ疑えなくなるじゃない……」
その時だった。
ふわり、と上空から無数の光が降り注ぐ。
それは何百、何千という銀色の光を放つ蝶の群れだった。
月明かりをその背に浴びながら、白い羽を大きく広げたセレナが、まるで天界から降り立つ使者のように静かに二人の前へと舞い降りた。
「……映画みたいな、綺麗な登場だな」
ヒューゴが静かに告げる。
「最後くらいはね、格好つけさせてよ」
セレナは寂しげに笑った。涙の向こうでリシアとヒューゴが寄り添う姿を見て、彼女は無理やり、自らの心に納得を強いていた。いや、最初から分かっていたのだ。ただ、認めたくなかっただけで。
「完全に、私の負けだなぁ」
セレナは自嘲気味に呟く。
「最初から、勝負にすらなってなかったのかもね」
ヒューゴは何も言わずに彼女を見つめ続けた。セレナが静かに背中の羽を畳むと、呼応するように無数の蝶たちが夜空へと溶けて消え、街を覆っていた鱗粉も薄れていく。
「ヒューゴ」
「ん?」
「幸せになってね」
「……ああ」
「今度はちゃんと、ね」
セレナは最後に、もう一度だけ微笑んだ。かつて学生時代、ヒューゴが何よりも好きだった、あの頃の眩しい笑顔で。
「さよなら」
再び大きく広がった白い羽が、夜風を捉える。彼女はそのまま一筋の光となり、広大なキーリオスの夜空へと飛び立っていった。
追わない。呼び止めない。それこそが、二人が選んだ本当の別れだった。
静寂が戻ったデッキの上、残されたのは二人だけ。
リシアが小さく呟いた。
「……行っちゃったわね」
「ああ」
「追わなくて、いいの?」
「追わねぇよ」
「どうして?」
ヒューゴは少しだけ笑うと、愛おしそうにリシアの肩を抱き寄せた。
「もう、俺の隣にいるべきなのは……お前だからな」
リシアの顔が一瞬にして真っ赤に染まる。
「ば、馬鹿……!」
「事実だろ」
「こんな、こんなタイミングで言うこと!? 本当にデリカシーがないわね!」
「思ったから言ったんだよ」
「……本当に、馬鹿なんだから」
文句を言いながらも、リシアは自らヒューゴの首に腕を回し、二人の唇を深く重ね合わせた。
その夜、八百メートルの上空から見下ろすキーリオスの夜景は、どこまでも冷たく、そしてどこまでも美しかった。
その頃――キーリオス市街地の片隅。
人気のない、薄暗い路地裏に、一羽の白い蝶が力なく舞い降りた。
光が爆ぜ、人間の姿に戻ったセレナは、コンクリートの地面に膝をついて激しく咽び泣く。
「ごめんなさい……ごめんなさい、ヒューゴ……私……!」
その悲痛な泣き声に応じるように、カツン、カツンと、闇の奥からハイヒールの足音が近付いてきた。
「もーう! あなたの枯れた人生に、もう一度綺麗な花を咲かせるビッグチャンスをあげたのに。一体何やってるのよ、本当に使えないわねぇ?」
呆れたような、しかし酷く愉しげな声。
闇の中から姿を現したのは、妖艶な赤いドレスを纏った女。
かつてレグ・レンストに、あの恐るべき『QΛR』の薬剤を手渡した、あの謎の女だった。




