デート❤︎
キーリオス中央区。
都市の象徴でもある超高層展望塔『スカイスピア』。
地上八百メートルにある展望フロアへと続く高速エレベーターの中、ヒューゴは腕を組んでいた。
表情はいつもの通り、眠そうで、気怠そうで、やる気なさそうだ。
だが、その内心は完全にパニックに陥っていた。
(やっべぇ……!)
(デートだ! 人生初じゃねえけど、久々すぎる!)
(何話せばいいんだ!? 探偵の仕事の話か? いや、絶対つまんねぇな!)
(そもそも、なんで俺はこんなに緊張してんだよ!)
一方、その隣に立つリシア。
彼女もまた、平然とした大人の女の余裕を醸し出していた。
だが、その内心は――。
(落ち着いて、リシア。これは任務じゃない。尋問じゃない。暗殺でも潜入でもない……。ただのデート。そう、デートよ)
(……で、デートって何するんだっけ? まず会話? 私たち、今会話してる!? 落ち着きなさい、私……!)
二人とも、表情の下で内心だけがけたたましく騒ぎ合っていた。
一日前――探偵事務所。
(よし……! 八万七千リアルも取り返した。これで金の心配はねぇ。あとはリシアをデートに誘うだけだ)
ヒューゴは事務所の椅子に深く腰掛けながら、そんなことを考えていた。
問題はただ一つ、彼女と連絡を取る手段がないことだった。電話番号もメッセージアプリも交換していない。つまり、本人が目の前に現れるのを待つしかない。
(まあ、そんな都合よく来るわけ――)
ガチャ、と小気味よい音を立てて扉が開いた。
「ハァーイ、ヒューゴ。遊びに来たわよ」
現れたのは、まさにその本人だった。
「うおっ!?」
ヒューゴは思わず椅子から転げ落ちそうになる。
「なによ、その反応。失礼ね」
「いや、お前いつもいきなり現れるな……」
「ふふっ、そうかしら?」
リシアは楽しそうに笑いながら、興味深そうに室内を見回した。
壁に貼られた依頼書、散らかったデスク、積み上げられた資料。
「へぇ、ここがアンタの職場なのね」
だが、ヒューゴはそれどころではなかった。
(来た……!)
心臓がうるさいほど脈打つ。今だ、今しかない。これを逃したら、次の機会がいつになるか分からない。
(言え……! 俺!!)
ヒューゴは拳をギュッと握り締めた。
「な、なあリシア!」
「ん?」
振り返ったリシアの端麗な瞳と、正面から目が合う。その瞬間、緊張は最高潮に達した。
「お、俺と……」
喉がカラカラに渇き、声がわずかに震える。
「俺と明日……デートしないか?」
言った。ついに言った。
事務所に一瞬、静寂が落ちる。リシアの瞳が少し大きく開かれた。予想外の直球だったのだろう。ヒューゴは生きた心地がしなかった。数秒が、まるで何分にも感じられる。
やがてリシアは、頬をわずかに赤く染めながら視線を逸らした。
「え……?」
小さく声を漏らし、少しだけ沈黙した後――柔らかく微笑んだ。
「……ええ。いいわよ」
「本当に!?」
「ふふっ、そんなに驚くこと?」
「いや、だって……」
ヒューゴは思わず立ち上がる。心臓が爆発しそうだった。そんな彼を見て、リシアはくすくすと肩を揺らす。
「変な顔してるわよ、ヒューゴ」
「うるせぇ!」
だが、その顔は隠しようもなく嬉しそうだった。
フロアに広がる夜景を見下ろす二人。周囲はカップルばかりで、リシアは少し照れくさそうに外へと目を向ける。
「綺麗ね」
「だな」
「今日は来てよかったわ」
「そうか」
少しの間、都市の光だけが二人を静かに照らしていた。リシアがふと悪戯っぽく笑う。
「でも、意外だったわ」
「何が?」
「ヒューゴがこういうお洒落な場所に誘うなんてね」
「俺だってたまにはやる!」
「へぇー」
「命懸けで取り返した金だからな」
「ふふ、まだ言ってる」
その心からの笑顔を見て、ヒューゴは少し言葉をなくした。リシアもその視線に気付く。
目が合う。どちらも逸らさない。
周囲の喧騒が、遠くへ消えていく。
リシアが小さく呟いた。
「……なによ?」
「いや」
ヒューゴは少し困ったように頭を掻いた。
「今日のお前、すごい機嫌良さそうだなって思って」
「アナタもね」
「そうか?」
「そうよ」
また訪れた沈黙。だが、今度は少しも気まずくない。むしろ、いつまでも浸っていたいほど心地よい時間だった。
ヒューゴが少しだけ距離を詰める。リシアも逃げない。
そして、二人の唇が、自然と重なった。
本当に、優しく、長く。
唇が離れた後、二人とも少しだけ固まった。
「……」
「……」
先に顔を真っ赤にして逸らしたのは、ヒューゴの方だった。
それを見たリシアが、耐えかねたように吹き出す。
「ふふっ、なんでアナタの方が照れてるのよ」
「うるせぇ」
「笑うな」
「無理よ、おかしくて」
そんな甘い空気の真っ只中、背後から不意に声が掛けられた。
「……ヒューゴ?」
その声に、二人は同時に振り返った。
そこに立っていたのは、一人の女性。長い黒髪に、白いワンピース。どこか儚げな雰囲気を纏った彼女を見た瞬間、ヒューゴの顔からすべての表情が消え失せた。
「ぅあ……セレナ」
その反応に、リシアの眉が僅かに動いた。
(知り合いね。それも――かなり深い)
長年の経験と女の勘が、百発百中で正解を告げていた。
セレナは驚きに目を丸くしている。
「本当にヒューゴなんだ……。何年ぶりだろ」
「さあな」
ヒューゴが珍しく視線を泳がせる。その様子を見て、リシアの脳裏に電流が走った。
(はあ!? 元カノ!?)
セレナの視線がリシアへと向けられる。リシアも大人の笑みを浮かべてそれに応じた。だが、その目は一切笑っていない。セレナも瞬時に察する。
(あっ……今カノだ)
女同士の目線が交錯し、火花が散る。その重苦しい空気に、ヒューゴだけが気付いていない。
「そういや、紹介してなかったな。リシアだ」
「どうも」
「セレナです」
笑顔で握手を交わす二人。だが、お互いの手のひらには微妙に力が籠っていた。ヒューゴだけが気付いていない。本日二回目である。
「へぇ……」
セレナが寂しげに笑う。
「ヒューゴに彼女が出来るなんてね」
「まだ彼女じゃねぇよ」
その一言に、リシアが即座に鋭い視線をヒューゴへ向けた。
「そうなの?」
「え?」
ヒューゴが硬直する。完全に地雷を踏んだと本能が察知した。
「いや、その……」
「そうなの?」
「違う違う!」
「どっちなのよ」
「分からん!」
「何それ、最低ね」
リシアが呆れたようにため息を吐くと、セレナが思わずクスリと吹き出した。
昔と何も変わっていない。その笑顔を見て、ヒューゴも少しだけ過去を思い出した。能力なんてまだ無かった頃。普通の学生として、放課後にくだらない会話を交わしていたあの頃。
だが、セレナの瞳が少しだけ翳りを帯びる。もう、その頃には戻れない。だからこそ、彼女には今、聞きたいことがあった。
「ねぇ、ヒューゴ。少しだけ時間、もらえる?」
リシアの視線が鋭くなる。
「二人きりで、話したいの」
場の空気が一変した。ヒューゴは数秒間、沈黙して考え――。
「リシア」
「なによ」
「ちょっと、待っててくれるか?」
リシアは黙った。
三秒。五秒。七秒。
そして、完璧な――作り笑いを浮かべた。
「五分だけよ。一秒でも過ぎたら刺すわ」
「ごめんて……」
「本気だからね」
ヒューゴはそれが冗談ではないと理解し、セレナと共にフロアの反対側へと歩いていった。リシアは夜景を眺めながら見送る。だが、その耳は諜報員の冷徹な技術をもって、しっかりと二人の声を拾っていた。
少し離れたガラス窓の前で、セレナが立ち止まる。
広大な夜景を前に、しばらくの沈黙。ヒューゴも急かさず、ただ待った。やがて、彼女が静かに口を開く。
「……覚えてる?」
「何をだ」
「あの『能力災害』のこと」
ヒューゴの表情が硬くなった。忘れるはずがない。
学生時代、能力者同士の戦闘に巻き込まれた、あの最悪の事件。あの日、セレナの家族は死んだ。父も、母も、弟も、誰も残らなかった。彼女だけが、世界に一人きり取り残されたのだ。
そして、絶望するセレナを励まし続けたヒューゴ自身も、その後に能力へと目覚めた。
「覚えてるよ」
「私ね、本当はヒューゴに救われてたの。毎日、会いに来てくれたよね」
病院にも、家にも、学校にも。
「飯食ったか」「早く寝ろ」「学校来いよ」「ゲームやろうぜ」……。
ヒューゴは馬鹿みたいに、そんな他愛のない言葉ばかりをかけ続けた。
セレナは少し泣きながら笑った。
「本当は、すごく嬉しかった。……でも、怖かったの。家族を殺した『能力』。その直後に、能力に目覚めてしまったアナタが」
ヒューゴは静かに目を伏せた。
「分かってたよ」
「え……?」
「お前が俺を怖がってたことくらい、見りゃ分かる」
能力が暴走し始めていたあの頃。教室でも廊下でも、二人きりになる度、セレナの視線や距離感には、隠しきれない怯えが混ざっていた。
「ごめん……ごめんなさい、ヒューゴ……」
「謝るなって。普通だろ。家族を殺された直後なんだ。俺だって怖いさ」
その優しい言葉に、セレナの目からついに涙が溢れ落ちた。
「違うの……私は怖かっただけじゃない。逃げたのよ。アナタが能力の暴走で苦しんでるのを知ってたのに、支えようとしなかった。私だけが辛いと思い込んで……ヒューゴだって、多くのものを失ったのに」
彼女は小さく拳を握りしめる。
「だから、ずっと後悔してたの。何年も、何年も……」
ヒューゴは静かにその告白を聞き届け、やがてぽりぽりと頭を掻いた。
「まあ……昔の話だろ」
セレナは泣きながら、また笑ってしまった。本当に変わらない。この男は、人を恨まず、怒らず、馬鹿みたいに前だけを見ている。だから好きだった。今でも、心の底から。
セレナは小さく息を吐き、遠くからこちらを気にしているリシアへと視線を向けた。夜景を見るフリをしながらも、意識をこちらに集中させているその姿。それだけで、すべてを理解した。
ヒューゴが今、守ろうとしているのは、自分ではない。
だから、最後に一度だけ、確かめたかった。
「ねぇ。もしあの時、私が逃げなかったら……私たち、どうなってたと思う?」
「さあな」
即答だった。
「でも、今より確実に金は無かっただろうな」
「え? なんで?」
「今回のデート代で、八万七千リアルが完全に吹き飛んだからさ」
「ふふっ……あははは!」
セレナは思わず吹き出した。涙と一緒に、何年も胸に閿えていた重荷が綺麗に溶けていく。笑いながら、泣きながら、彼女はついに理解した。ああ、私たちの過去は、本当にここで美しく終わったのだ、と。
「……ありがとう、ヒューゴ。元気でね」
セレナはそっと微笑み、ヒューゴに背を向けて歩き出す。
だが――その決別の瞬間に、ヒューゴはまだ気付いていなかった。
去り行くセレナの背中。白いワンピースを引き裂くように、
漆黒の、禍々しい「蝶の羽」が、音もなく静かに広がり始めていたことを。




