雨のキーリオス
俺の書く恋愛み・て・く・れ・よ
探偵事務所の空気は、ここ数日ずっと重かった。
ヒューゴ・ヴァレンタインはソファにだらしなく寝転がったまま、天井の一点を見つめている。テレビは点きっぱなしだったが、その内容はまったく頭に入っていないようだった。
「……俺、人殺しちゃったかもしれん」
ぽつり、と呟く。机で事務作業をしていたカテリナが手を止め、困ったような視線を向けた。
「“かも”じゃなくて、かなり勢いよく蹴り飛ばしたって言ってましたよねぇ……?」
「いや、でもワンチャン生きてる可能性ある……かも。下にゴミ山あったし!」
「そのビル、20階もあったらしいじゃないか」
「やめろ!! 現実を突きつけるな!!」
ヒューゴはクッションに顔を埋めて頭を抱え、ジタバタと足を暴れさせる。その様子に呆れながら、メロルスが冷蔵庫を開けた。
「……おい、食料が何もないぞ」
「マジ?」
「マジだ」
中には炭酸水と、いつのものか分からない使いかけのチューブ調味料しか入っていなかった。
「ヒューゴさーん、買い出し行ってきてくださーい」
「無理」
「即答かよ」
「今の俺はセンシティブなんだよ。万が一、外を歩いてて『あっ、あの人ニュースの!』とか言われたら泣くってぇ」
「言われませんってぇ……」
「だからお前らで行ってこい」
ヒューゴはポケットから財布を放り投げた。
「あと、アイス買ってきて。絶対」
「人任せすぎるだろ……」
大きなため息をつきながらも、結局メロルスとカテリナの二人が買い出しへ向かうことになった。
夕方、キーリオスの街にはネオンが灯り始めていた。
大量脱獄事件の発生以来、治安は確実に悪化している。それでも都市部は相変わらず多くの人々で行き交っていた。カテリナはメロルスの隣を歩きながら、どこか嬉しそうな様子だった。
「なんだか、こうして二人で歩くの懐かしいですねぇ」
「……まあな」
メロルスは少し照れくさそうに視線を逸らす。すると、カテリナが急に足を止めた。
「あっ、見てくださーい!」
彼女が指差した先では、期間限定のイルミネーションが街路樹を彩っていた。青白いLEDの光が、夜の街を幻想的に照らし出している。
「綺麗……」
カテリナが小さく呟く。メロルスはその横顔を見て、一瞬だけ硬直した。普段のふわふわとした雰囲気とは違う、静かで大人びた表情。
「……メロルスさーん?」
「っ、いや!」
視線に気づいたカテリナが振り返り、メロルスは慌てて目を逸らした。
「なんでもない」
「ふふっ、変なのー」
カテリナが屈託なく笑う。その笑顔が、妙に胸の奥に残った。
二人はスーパーで必要な買い物を済ませ、いくつかの袋を抱えて帰路につく。
その途中だった。
「……あ」
ぽつり、と頬に落ちた雨粒が、一瞬にして激しい豪雨へと変わった。
「うおっ!?」
「きゃっ!」
二人は慌てて、近くの道路の高架下へと駆け込んだ。
叩きつけるような激しい雨音。濡れた地面に、街のネオンがぎらぎらと反射している。
「最悪だな……」
メロルスが濡れた前髪を無造作に払う。
「……でも」
カテリナが買い出し袋を抱えたまま、小さく言った。
「ちょっと嬉しいかもですぅ」
「は?」
「こういうの、なんかデートっぽくないですかぁ?」
「ッ!!?」
メロルスの思考が完全に停止した。
カテリナは天然だった。本物の天然だった。だからこそ、計算のない言葉の破壊力が凄まじい。
「いや、その、俺たちは別にそういうのじゃ……」
「違います?」
カテリナが小首を傾げる。
近い。物理的な距離が妙に近い。周囲の激しい雨音のせいで、二人の空間だけが奇妙に静まり返っているように感じられた。
「……」
メロルスは完全に顔を背けた。
「……違わ、ない……かも」
「え?」
「いや!! 今の無し!!」
カテリナは一瞬きょとんとした後、ふふ、と悪戯っぽ
く笑った。
「メロルスさんって、意外と可愛いですよねぇ」
「男に使う言葉じゃねえだろ、それ……」
その時、ゴロゴロと腹に響くような雷鳴が轟いた。
カテリナの小さな肩が、ビクッと震える。
「雷、苦手なのか?」
「ちょっとだけ……」
そう答えた瞬間、先ほどよりも大きな雷鳴が至近距離で炸裂した。
「ひゃっ!」
反射的に、カテリナがメロルスの腕にしがみつく。
「……!」
腕に伝わる柔らかい感触と、引き締まった体温。カテリナ自身も自分の行動に気づいたのか、みるみるうちに顔を赤く染めていく。
「あっ、ご、ごめんなさあい!」
「……いや」
メロルスの心臓が、耳障りなほどに跳ね上がっていた。周囲の雨音よりも確実にうるさい。
そのまま、二人の間に少しの沈黙が流れた。
やがて、カテリナがぽつりと、雨の音に紛れ込ませるように呟いた。
「……私、昔はこういうの無理でしたぁ」
「ん?」
「誰かと、こんなに近づくの」
雨脚は衰えず、静かに響き続けている。
「能力に目覚めた時、家族にすごく怖がられたんですぅ」
メロルスが静かに視線を向けた。
カテリナは少しだけ笑っていた。けれど、その笑顔はどこか遠く、寂しげだった。
「最初はね、“すごいね”って言ってくれてたんですよぉ? でも、だんだん気味悪がられるようになって。食事の時も露骨に避けられて……最後には、“化け物とは一緒に暮らせない”って」
「……」
「だから私、家を出たんです」
明るく軽い調子で語っているが、それがどれほど深い傷なのかは容易に想像がついた。
「……ヒューゴさんに拾われてなかったら、たぶん今頃、自分がどうなってたか分かりません」
メロルスはただ静かに彼女の言葉を受け止めていた。そして、自分の左腕に視線を落とす。
「俺も、似たようなもんだよ」
「え?」
メロルスは自らの義手を見つめた。金属製の指先に、高架下へ吹き込んできた雨粒が当たって弾ける。
「昔、付き合ってた奴がいたんだ」
「……!」
カテリナの目が少し見開かれる。
「そいつ、どうしても身体強化手術を受けたいっていう夢があってさ。スラムじゃ、生身のままだと簡単に舐められるからな」
メロルスは自嘲気味に苦笑した。
「でも、当然そんな金は足りない。だから俺、自分を全身強化じゃなくて、このオーグメンテッド義肢で妥協したんだ。本当は全身やった方が強い。でも高すぎたから、そいつの分の手術費用に金を回したくてさ」
「……優しいですねぇ」
「優しくねえよ」
メロルスはどこか遠くを見る目で笑う。
「結局、別れたしな」
「なんでです?」
「『自分の夢を優先したい』んだとさ」
雨の音。遠くを走る車の走行音。
「まあ……スラムじゃよくある話だ。仕方ねえよ」
そう言ったメロルスの横顔には、隠しきれない寂しさが滲んでいた。
カテリナは、その無機質な金属の義手へと、そっと自分の手を重ねた。
「でも」
「ん?」
「その義手、私は好きですよぉ」
「……え?」
「メロルスさんが、誰かのためにいっぱい頑張った証拠みたいですから」
メロルスの目が丸くなる。カテリナは慈しむように微笑んでいた。
「だから、そんな寂しい顔しないでください」
「……」
メロルスは言葉を失った。自分の過去ごと、この無骨な義手ごと肯定されたことなんて、これまでの人生で一度もなかった。
その時、またしても空が光り、雷鳴が響く。
「ひゃっ」
カテリナが再び肩を縮めた。メロルスは今度は、少しだけ意地悪く口元を緩めた。
「……今度は抱きつかなくていいのか?」
「〜〜〜っ!!」
カテリナの顔が爆発したように真っ赤になる。
「い、いじわるですぅぅ!!」
その分かりやすい反応がおかしくて、メロルスは声を上げて笑った。
気づけば、さっきまで鬱陶しかったはずの冷たい雨音が、どこか心地よく、温かいものに感じられていた。
やがて、激しかった雨が静かに弱まり始める。
「……帰るか」
「……はあい」
二人は再び歩き出した。だが、高架下を出た二人の距離は、行く前よりもほんの少しだけ、近くなっていた。
探偵事務所のドアを開けると、案の定、ソファからの怒声が出迎えた。
「おっせええええぞお前らーー!!」
ヒューゴが身を乗り出して叫ぶ。
「アイスは!? 俺のアイスは無事なんだろうな!?」
「あっ……袋の中で、完全に溶けてますぅ」
「俺のライフラインが終わったぁぁぁ!!」
ヒューゴは頭を抱えて絶望のどん底に突き落とされた。
しかし、そんな彼の絶叫をBGMにしながら、カテリナとメロルスは少しだけ顔を見合わせ、お互いに小さく笑い合うのだった。
感想教えてねー




