念ドゥ
ヒューゴはその後、テイラーブラウンを退店。
新しいスーツに新品同様の革靴。入店前はアフリカゾウ並みに足が重かったが店を出たときの足取りは、まるでそのまま宙へ舞い上がれそうなほど軽やかだった。
そのままの足でヒューゴは近くの百貨店へと向かう。
思惑は一つ。
百貨店の屋上のビアガーデンで酒を豪快に煽ることだった。だが、ヒューゴは思った。
(朝から酒を飲んだらメロルス達に文句言われるかな?)と。
だが、今となってはヒューゴには関係ない。
酒を飲みたい。酒を飲みたい。その目的を叶えぬ訳にはいかぬ。そうやってヒューゴは思考をストップしていた。
そうして、百貨店のエレベーターが最上階に到達し、軽快な電子音を響かせて扉が左右に滑り出した。
開いた視界いっぱいに広がったのは、澄み渡る朝の青空だ。
そこは広い屋上庭園だった。簡素なテーブルと椅子が規則正しく並び、原色のパラソルが吹き抜ける風に揺れている。そしてその一角に掲げられた看板を目にした瞬間、ヒューゴの瞳が眩いばかりの輝きを放った。
「来ました。天国……!!!」
受付をあっけなく済ませると、彼は一切の迷いなく冷えた生ビールを注文した。
「……来た」
テーブルに運ばれてきた大容量のジョッキを見つめ、ヒューゴは感嘆の溜息を漏らす。
黄金色の液体。その表面を覆う繊細な白い泡は、真上の太陽を受けてキラキラと眩しく輝いていた。
「これだよ……これのために生きてる」
両手でしっかりとジョッキを掲げ持ち、意を決するように呟く。
「いただきます」
喉を鳴らして一気に流し込む。
ゴクッ、ゴクッ、と心地よい音を立てて液体が胃へと落ちていく。
「ぷはぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!」
盛大に息を吐き出すと、自然と顔がほころんだ。
「うっめぇ……!」
つい数時間前まで、激しい戦闘の渦の中で床に叩きつけられていた男とは誰も思わないだろう。極上の幸福感が彼の全身を包み込んでいた。
ヒューゴはジョッキを片手にゆっくりと立ち上がり、屋上を囲む安全用の鉄柵へと歩みを進めた。
眼前には、サイバーパンクな情景を思わせるキーリオスの街並みが一望できた。
遥か眼下にひしめく高層ビルの群れ。その隙間を滑るように駆け抜ける磁力電車。絶え間なく行き交う自動運転車に、青空を自在に横切る配送ドローンの群れ。
いつもなら見慣れすぎて一顧だにしない風景も、こうして冷えたビールを片手に高い場所から見下ろすと、どこか特別な劇場のように映る。
ヒューゴは鉄柵に背を預け、二杯目のジョッキを傾けた。
「……最っ高だ」
頬を撫でる風が心地よい。新しいスーツは風を受けても一切の皺を作らず、新品の革靴も驚くほど足に馴染んでいた。
「朝から酒っていうのも……悪くない」
遠くの街並みを眺めながら、彼はしみじみと呟く。
「メロルスに知られたら絶対怒られるけど」
一口。
「カテリナには説教されるな」
もう一口。
「リシアに知られたら……まあ、あいつなら呆れて溜息つくだけか」
口元に可笑しそうな笑みを浮かべた。
「でも、今は誰にも見つかってないから。俺の勝ちだ」
その時だった。
「随分と楽しそうだな」
「……ん?」
すぐとなりから、男の声がした。
ヒューゴはジョッキを口元で止める。
いつの間に近づいたのだろうか。
一人の黒人の男が、当然のように鉄柵の前に立っていた。
年齢は自分とそう変わらないように見える。ストリート感のある衣装に身を包み、動きやすく短く整えられた髪。
男はヒューゴの方を見ることもなく、ただ静かにキーリオスの街並みを見つめていた。だがそこには少しの焦りも感じた。
「…………」
ヒューゴはジョッキを抱えたまま、怪訝そうに隣の男を観察する。
「なあ、あんた……なんでわざわざ俺の横に立つんだ?」
「……なんでだろうな」
「なんだそりゃっ」
ヒューゴはジョッキを下げ、隣の男をまじまじと見た。
男は相変わらず街並みを見つめている。だが、その横顔には先ほど気づいた「焦り」が、より色濃く浮かんでいた。額に薄く汗が滲み、拳がわずかに震えている。
「……あんた、俺に何か用か?」
「用、か」
男は初めてヒューゴの方を向いた。目は澄んでいる。だが、その奥に、何か重いものを押し殺しているような影があった。
「お前が、ヒューゴ・ヴァレンタインだな」
「まあね」
男はゆっくりと鉄柵から体を離し、ヒューゴと向かい合う位置に立った。ストリート感のあるジャケットの裾が、屋上の風に軽く揺れる。
「俺はレ・アンドロ。お前を殺しに来た」
一瞬、風が止んだように感じた。
ヒューゴはジョッキをテーブルに戻すと、ため息をついた。
「……またかよ」
「また、か」
「多いんだよ。俺を殺そうとする奴が」
「そうか。なら、慣れてるな」
「慣れたくねえよ」
ヒューゴは新しいスーツの袖を軽く直した。自己再生型ナノファイバーの感触が、指先に冷たく伝わる。
「で、殺す理由は? 金か? 恨みか?」
「恐怖だ。」
「恐怖?」
ヒューゴは眉をひそめた。
「誰に対する恐怖なん?」
レ・アンドロは自分の左腕を、無意識に強く握りしめた。袖の下で何かが脈を打っているような仕草だった。
「アルレルナ・フラワー」
「誰、それ」
「あんたが知らないのも無理はない。」
レ・アンドロは短く息を吐いた。焦りと、諦めと、ほんの少しの怒りが混ざった吐息だった。
「俺は今は能力者だが元々、能力者じゃなかった。ただのカポエイラをやる男だ。」
「……で?」
「ある日、突然攫われた。目が覚めたら、白い部屋に寝かされていてな。腕に針を刺され、何か知らない液体を流し込まれた」
レ・アンドロは左腕の袖を少しめくり上げた。肌に浮かぶ黒い紋様が、ゆっくりと脈打つように蠢いている。
「これは『枯番』だ。時限式の毒だそうだ。一定時間内に指定された標的を殺さないと、そのアルレルナの意思で死ぬらしい」
「意思で……?」
レ・アンドロの声は平坦だった。だが、その平坦さの奥に、深い疲弊が沈んでいる。
「標的はお前だ、ヒューゴ・ヴァレンタイン。アルレルナは言った。『この男を殺してこい。さもなくば枯番が発動する』と」
ヒューゴは黙ってジョッキを見つめた。泡はすでに崩れかけている。
「……そのアルレルナって女は、なんで俺を狙う?」
「知らない。だが、『目的のためには邪魔だから殺して。』だそうだ」
レ・アンドロは袖を戻し、改めてヒューゴと向き合った。
「それともう一つ。俺に能力をくれたのも、あの女だ」
「デッドリー、か」
「ああ。『デッドリートライアル』って呼ばれる薬剤を打たれた。目覚めた能力が、念動力だ」
レ・アンドロは両手を軽く広げてみせる。周囲のパラソルが、微かに揺れた。
「本来の俺なら、こんな狡い戦い方はしねえ。足で、正々堂々と決着をつけたかった。だが……死にたくない」
彼の目が、真っ直ぐにヒューゴを捉える。
「だから殺す。お前を殺して、枯番を止める。それが俺の生き残る唯一の方法だ」
ここでレ・アンドロは、わずかに視線を逸らした。
「……それと、一つだけ先に言っておく」
「あ?」
「お前の仲間にも、同じように刺客が向かっているそうだ。メロルスと、カテリナへだそうだ」
ヒューゴの表情が、初めて大きく変わった。
「……は?」
「アルレルナはお前一人を狙っているわけじゃない。お前の周りにいる人間ごと、まとめて消すつもりらしい。俺はできれば一人で決着をつけたい。だから先に知らせておく」
レ・アンドロは自分の左腕を強く握りしめた。枯番の紋様が、さらに濃くなっている。
「今すぐ連絡を取れ。俺は、その間だけは待ってやる」
屋上に、短い沈黙が落ちた。
風が吹き、パラソルの影が二人の足元をゆっくりと横切る。
ヒューゴは長く息を吐いた。
「……最悪だッ」
「同感だ」
「俺はただ酒が飲みたかっただけなんだぞ」
「だが、俺は人生を続けたいだけだ」
レ・アンドロはヒューゴへ改めて向き直る。
レ・アンドロの口元が、微かに歪んだ。笑いに近いが、笑えていない表情だった。
「だが、もう選択肢はない。お前が死ぬか、俺が死ぬか。それだけだ」
次の瞬間、レ・アンドロの両手が前方へ押し出された。
テーブルが宙に浮き、ヒューゴの顔面を目がけて一直線に飛来する。
「ちっ……!」
ヒューゴはとっさに身をかがめ、テーブルが頭上をかすめて背後のパラソルに激突した。木材が砕ける音が響き、周囲の客たちがどよめく。
レ・アンドロはすでに跳躍していた。空中で体を一回転させ、別のテーブルを足場にしてさらに高く舞い上がる。パラソルが次々と引きちぎられ、回転しながらヒューゴへ向かって飛んでくる。
ヒューゴはリボルバーを抜いた。
新しいスーツの袖が、風に軽く翻る。




