成功
SHLD本部から数キロ離れた、人気のない地区。
夜のキーリオスには、昼間のような喧騒をすべて押し殺したかのような不気味な静けさが漂っていた。
高層ビルの壁面を彩る鮮やかな広告ホログラムの光だけが、誰もいない路地を不規則に照らし出している。
その光の届かない路地裏の影を、一人の男が足早に歩いていた。
アルレンドだ。
SHLD本部を脱出してからというもの、彼は一度も足を止めていなかった。
「……さすがに疲れたな」
ぽつりと呟きながら、アルレンドはジャケットの胸元へ手を差し入れる。
指先に触れたのは、先ほどSHLDの厳重なセキュリティを掻い潜って奪取した情報だ。紙の資料そのものではない。アルレンドの能力『投影』によって複製され、手元に定着させた『エデン植物研究機構』の所在地に関するデータだった。
やがて彼は、年月によって錆びついた古い倉庫の前で足を止めた。
視線だけで素早く周囲を探る。誰もいない。監視カメラのレンズも向けられていない。
それを確認すると、アルレンドは鉄扉を一定のリズムで叩いた。
コン、コン。
ガチャリと静かに鍵が外れる音がした。
扉がわずかに開き、その隙間からアルレルナが顔を覗かせる。
「おかえり、アルレンド」
「ああ、ただいま」
アルレルナが扉を大きく開き、アルレンドを滑り込ませた。
重厚な扉が閉じると、外のわずかな風音すらも嘘のように途絶える。
倉庫の内部は、朽ち果てた外観とは裏腹に機能的に整えられていた。
簡素なデスクがいくつも並び、その上では高スペックな端末が絶え間なく情報を映し出している。壁際には通信機器や武器、用途の分からない機材まで所狭しと配置されていた。
そして、そこを行き交う何人もの人影。
端末に向かって作業をする者。
資料を抱えて足早に廊下を横切る者。
小声で通信を交わす者。
誰も無駄口を叩かない。
この朽ち果てた倉庫が、ただの隠れ家ではないことは明らかだった。
その中央に、アルレルナが一人静かに佇んでいた。
「それで? どうだった?」
アルレルナが静かに尋ねる。
アルレンドは懐から手を取り出した。
「取ってきたよ」
「エデン植物研究機構の……?」
「ああ」
アルレンドは端末をデスクの上へと滑らせた。
「SHLDの所長室に厳重に保管されていた特級機密資料だ。施設の概要だけじゃない。所在地まで完璧に載っていた」
アルレルナの表情が劇的に華やいだ。
「……本当に?」
「本当さ」
アルレンドはパイプ椅子を引き寄せ、深々と腰を下ろす。
「かなり厳重に隠されていたよ。表向きの記録はもちろん、政府の公開資料にすら一切存在しない。SHLD内部でも一握りの人間にしか閲覧権限がない代物だ」
「……そう」
アルレルナは愛おしむように端末を手に取った。
しなやかな指先で画面を操作していく。そこに次々と浮かび上がるのは、高度に暗号化されたデータ群。
そしてついに表示された、目的のデータ。
施設の詳細な所在地。緯度、経度、周辺の立体地形図、さらには侵入可能ルート。
「……見つけた」
アルレルナの口から、小さく息が漏れた。
その声には、これまでの彼女からは想像もつかないほどの濃密な歓喜が滲み出ていた。
アルレンドはそんな彼女の様子を眺め、口元を緩める。
「これで、君がずっと探していたものに大きく近づけるな」
「うん……ありがとう、アルレンド」
「礼なんていいさ」
背もたれに体を預け、天井を見上げるアルレンド。だが、すぐにその表情から柔らかさが消え去った。
「ただ……一つ、言っておきたいことがある」
「何かしら?」
アルレルナが端末から顔を上げる。
「SHLDを、それからあの男たちを甘く見ない方がいい」
「……どういうこと?」
「SHLD本部の所長に会った」
「アレックス・オーボルト?」
「ああ」
アルレンドは重苦しく息を吐き出した。
「正直、こちらの想像を遥かに超えていたよ」
彼は、SHLD本部で影から目撃した恐怖の光景を語り始めた。
フラッシュとの激しい殴り合い。廊下の壁を爆砕するほどの凄まじい衝撃波。
そして、それを当然のように正面から受け止めてみせたアレックスの異次元な能力。
「……最後は、ほんの手を触れただけだった」
「触れただけ?」
「そうだ」
アルレンドは自分の胸元を指先で軽く叩いてみせる。
「フラッシュの身体に触れた瞬間、その場の空間そのものがぐにゃりと歪んだ。次の瞬間には、あいつは影も形も残さず消え去っていた」
アルレルナは黙ってその言葉に耳を傾けている。
「俺が見た限りじゃ、あの男はまだ本気すら出していない。アレックス・オーボルト……あれはあまりに危険すぎる存在だ」
アルレンドの声が、自然と低く沈んでいく。
「それだけじゃない。ヒューゴ・ヴァレンタインという男もだ」
その名が口から出た瞬間、アルレルナの瞳が微かに細められた。
「ヒューゴ……」
「ああ、あいつも相当に厄介だ。単なる能力の強さだけじゃない。瞬時の判断力、土壇場での戦闘経験の豊富さ……異常と言っていいレベルだ。正面から敵に回せば、間違いなく酷い目に遭う」
「……」
「おまけに、あいつの周囲にはメロルスといった手練れもいるそうだ」
アルレンドは指先でトントンとデスクの天板を叩いた。
「俺たちが『エデン』に手を伸ばせば、間違いなくあの怪物どもが動き出す。だから――」
アルレンドは真っ直ぐにアルレルナの目を見つめた。
「"その前に潰さないといけない"」
その静かな制止に、アルレルナは少しだけ意外そうに目を丸くした。
「アルレンド……」
「別に日和っているわけじゃない」
アルレンドは自嘲気味に苦笑してみせる。
「ただ、相手が悪すぎるんだ。アレックスとヒューゴ……どちらも普通の範疇に収まる能力者じゃない。もし正面切ってぶつかり合えば、こちらだって無傷じゃ済まない」
重苦しい沈黙が、古い倉庫の中に落ちた。
やがてアルレルナは手の中の端末をゆっくりとデスクへ置いた。
そして、いつものように穏やかで、温かな笑みを浮かべたのだった。
「安心して」
「……何?」
アルレルナは静かに立ち上がる。
その声には、揺るぎない絶対の確信が宿っていた。
「アルレンド。私達には、まだ幾らでも『手』があるでしょう?」
「ああ、そうだったな」
アルレルナはしなやかな足取りで、アルレンドへ歩み寄る。
「アレックスがどれほど強くても」
一歩。
「ヒューゴがどれほど危険だとしても」
もう一歩。
「私たちが、彼らと同じ条件で真っ直ぐ戦ってあげる必要なんて、どこにもないじゃない?」
アルレンドは言葉を失い、ただ目の前の美しい女性を見つめた。
アルレルナは、まるで子供に言い聞かせるような優しい笑顔のまま、恐ろしい言葉を口にする。
「私はいつでもいくらでも『"能力者"』を生み出せるもの」
その淡々とした声だけが、静まり返った空間に不気味に響き渡る。
「一人でダメなら二人」
「……」
「二人でダメなら十人」
アルレルナの瞳から温もりが消え、底知れない冷徹な光が宿る。
「それでも足りないなら……もっと生み出して、投げ込めばいいだけよ」
アルレンドはしばらく何も言えず、言葉を飲み込んだ。
やがて、呆れたように小さく息を吐き出す。
「……そうだな」
「そうよ」
アルレンドは降参だとばかりに手を挙げ、苦笑した。
「俺たちが普通の人間みたいに、一人一人の個の強さを比べて悩む必要なんて、最初からなかったんだ」
「そういうこと」
アルレルナは再びデスクの端末を拾い上げた。
画面に光る、エデン植物研究機構の座標。その暗闇の奥に眠るであろう至高の存在を見つめる。
「アレックス・オーボルトも」
そして――。
「ヒューゴ・ヴァレンタインも」
アルレルナの薄い唇に、うっすらとした冷笑が浮かぶ。
「私たちの邪魔をするというのなら……その時に、まとめて擦り潰す方法を考えればいいわ」
端末の画面が暗転し、彼女の顔を照らしていた光が消える。
アルレンドはそんな彼女の冷酷な横顔を見やり、呆れたように肩をすくめた。
「……まったく。心配して損をしたよ」
「ふふ、そうかもしれないわね」
「じゃあ、俺は奥で休ませてもらうよ。今日は存分に走り回らされたからな」
「ええ。ゆっくり身体を休めて」
アルレンドが軽やかな足取りで倉庫の奥へと消えていく。
その背中を愛おしそうに見送った後、アルレルナは再び一人、暗がりの中で静かに佇んでいた。
手元にあるのは、エデン植物研究機構の所在地。
そして、その深層に眠る世界で最も美しく、最も恐ろしい能力をもった花の情報。
アルレルナはうっとりと胸に手を当て、呟いた。
「……もうすぐね」
誰に届くでもないその囁きだけが、闇深き倉庫の空気の中に、静かに溶けて消えていった。




