資料
SHLD本部の別区画。
所長室へと続く重厚な廊下を、一人の男が足音もなく静かに歩いていた。
アルレンドだ。
先ほどフラッシュと別れ、混乱に乗じてSHLD内部へと侵入を果たした彼は、視線一つで周囲を警戒しながら目的の場所へと確実に足を進めていた。
「……こっちか」
手元に表示された簡易マップを素早く確認する。
本来であれば、この区画は所長や一部の特級権限を持つ上級職員しか立ち入ることすら許されない最高警戒区域だ。
だが現在、防衛システムはフラッシュが引き起こした大惨事によって機能不全に陥っていた。
鳴り響くけたたましい警報、響き渡る銃声と爆音、そして広域通信障害。
重なる非常事態に、施設内の警備戦力は一時的にすべてそちらの対応へと割かれていたのである。
「フラッシュ様々だな」
アルレンドはフッと口角を上げ、小さく笑った。
やがて、ひと際分厚い防音扉の前で足を止める。
重厚な金属の表面には、簡潔なフォントでただ一言。
《所長室》
「……ここだな」
アルレンドは懐から小型のハッキングデバイスを取り出すと、手際よく電子錠へ接続した。
画面上で目まぐるしく数値が走り、数秒後――カチリと電子音が鳴ってロックが解除される。
「簡単」
音もなく扉を押し開けて足を踏み入れる。
内部は、一組織のトップの部屋にしては拍子抜けするほど普通の空間だった。
使い込まれた大きなデスク、応接用の革張りソファ、壁一面を埋め尽くす巨大な本棚。
そして――。
「……資料、多すぎだろ」
デスクの周囲や棚には、途方に暮れるほど分厚いファイルが山のように積み重なっていた。
事件の調査記録、能力者たちの個人データ、SHLD内部の機密報告書。
アルレンドは迷うことなくデスクへと歩み寄った。
「さて……目的のものはどこかな」
事前に入手していた情報によれば、この部屋にはSHLDが表向き「存在しない」として処理している極秘施設の資料が保管されているはずだった。
その中でも最重要なターゲット『エデン植物研究機構』。
表社会の記録には一切存在せず、政府の公開資料にすら記載のない施設。一般人はおろか、通常の捜査機関ですらその所在地を知る術はない。アルレルナも、とある植物学者を追う中で偶然その存在を知ったという。
だが、SHLDの本部であれば確実に把握しているはずだ。そして、その所在地が記された特級機密資料は、間違いなくこの部屋のどこかに眠っている。
「これか……? いや、違うな」
一冊、二冊と確認し、三冊目を手にとったところでアルレンドは小さく息を吐いた。
「……面倒だな」
膨大な山の中から、慣れた手つきで次々と資料の目次を検分していく。
そして――。
「あった」
ぴたりと手が止まった。
手中に収まったのは、黒ずんだ古びたファイル。表紙には必要最低限の記号しか刻まれていない。
《機密指定》
《閲覧権限:特級》
そして、その下部に小さく印字された文字――《エデン植物研究機構》。
「ビンゴ」
アルレンドは手早くファイルを開いた。
中には研究機構に関する簡単な概要と、いくつかの実験報告書。そして最後のページに到達した瞬間、彼の目がすっと細くなった。
そこに記されていたのは、明確な緯度経度と施設へのアプローチ経と所在地そのものだった。
「……なるほど。こんな場所にあるのか」
アルレンドは速やかに資料へ触れていく。するとその資料は増殖。そして、アルレンドの懐へとおさまった
「これで完了だ」
アルレンドはファイルを寸分違わぬ位置へと戻した。
彼が盗み出したのは資料の「現物」ではなく、そこに記載された「情報」のみ。これなら、管理者が現物を持ち出されたことに気づいて騒ぎ立てる心配もない。
「フラッシュの奴、そろそろ派手なショーを終えてる頃かな」
アルレンドは静かに所長室の扉を開け、再び廊下へと脱出した。
その時だった。
――ドゴォンッ!!
遠く離れた区画から、施設全体を揺らすような凄まじい衝撃音が伝わってきた。
「……?」
アルレンドが足を止める。
ドゴンッ! ガァン!!
まるで巨大な重機が壁を破壊しながら暴れ回っているかのような爆音。
「……あいつ、まだやってんのか?」
呆れ果てた様子で呟く。遠くから、フラッシュのけたたましい高笑いが微かに届いていた。
『もっと来いよォォォ!!』
「……本当に楽しんでるな、あいつは」
苦笑しながら出口へと向かって角を曲がったアルレンドだったが、その瞬間――ピタリと足が硬直した。
「……え?」
視界の先、廊下の向こう側に広がっていたのは、まさに地獄絵図のような光景だった。
半壊した壁面、瓦礫の中に転がるSHLDの隊員たち。
そしてその中央で、凄まじい圧力を撒き散らしながら激突し合う二人の男。
一人は――フラッシュ。
そして、もう一人は。
「……アレックス・オーボルト」
SHLD所長その人だった。
アルレンドの表情から余裕が消え去る。
「どりゃあああっ!!」
フラッシュが振り下ろした丸太のような拳を、アレックスは片腕で淡々と受け止めてみせた。
轟音。空気が震え、足元の床に亀裂が走る。
「おいおい……マジかよ」
アルレンドは思わず壁の影に身を潜めた。
遠目からでもわかる。フラッシュは完全に興奮状態にあり、周囲の職員たちの視線を集めて「注目」されることで、能力の底上げを図っていた。薄く発光する体がその威力を物語っている。
だがそれを真正面から受けて立つアレックスは、どこか退屈そうにすら見える顔つきだった。
「……まだ続けるのか?」
「当たり前だろ!」
フラッシュが再び猛然と突進し、互いの拳が正面から衝突する。
爆風のような衝撃波が吹き荒れ、廊下の壁が大きく歪んだ。
物陰から見ていたアルレンドは息を呑む。
「……あの所長、ただの飾りじゃないのか」
組織のトップでありながら、怪物のようなフラッシュと正面から素手で殴り合っている。
しかも――。
「圧倒的に、余裕がある……?」
アレックスはフラッシュの連撃を涼しい顔で受け流すとアレックスの胸へ触れた。
そして、ぼそりと呟く。
「……いや、もういいかな」
「……は?」
アレックスの指先が触れた瞬間、周囲の空間がぐにゃりと歪んだ。
「ちょ、待――」
フラッシュの足元に広がる、漆黒の亀裂。
「うわああああああああ!!」
フラッシュの巨体が抵抗の余地もなく、そのまま闇の深淵へと引きずり込まれて消え去った。
「…………」
アルレンドは陰からその光景をただ呆然と見つめていた。
数秒後、何事もなかったかのように衣服の埃を払い、歩き出すアレックスの背中。
「……マジかよ」
アルレンドは引きつった顔で壁から身を引いた。
「聞いていた話より、何倍もヤバい男じゃないか……」
これ以上、この場所に留まるのはあまりに危険すぎる。
目的の情報は手に入ったのだ。長居する理由は一微塵もない。
アルレンドは即座に踵を返した。
「フラッシュには悪いが……先に引き上げさせてもらうよ」
足音を完全に殺し、最寄りの非常出口へと脱出を図る。
背後では未だに警報が鳴り響き、SHLD本部はいまだ大混乱の渦中にあった。
だが、アルレンドの手の中には、すでに絶対の成果が握られている。
エデン植物研究機構の所在地。
「これで、アルレルナの望みにまた一歩近づいた」
アルレンドは小さく呟くと、誰一人としてその存在に気づかないまま、静かにSHLD本部を脱出したのだった。




