所長
ヒューゴにその日は急に訪れた。ヒューゴにとって"トラブルのあるその日"が訪れるのは多く急なのである。
その日の依頼は、大したものではなかった。というか、いつも探偵らしい仕事は大したことのない依頼ばっかりだった。
浮気調査。対象を尾行し、証拠写真を数枚撮るだけだ。危険もない。能力を使う必要すらない。キーリオスの外縁まで足を延ばしたにしては、中身は薄かった。
「こういう仕事ばっかりなら楽なんだけどなぁ」
スマホの写真を保存して、ヒューゴは大きく伸びをした。肩の凝りがほどけ、夕方の空気が肺に入る。
「さて、帰るか」
駅へ歩く。改札を通り、磁力電車のホームに立つ。車体は線路に触れず、薄い低音とともに浮いている。ドアが開き、ヒューゴは混み合う車内へ乗り込む。夕暮れ時の通勤と重なり、吊り革の大半は埋まっていた。それでも空いている一本を見つけて掴む。
窓の外が流れる。浮上した車体は、街の縁を滑らかに切っていく。
「……腹減ったな」
夕飯を考える。帰って適当に済ますか。メロルスに奢らせるか。リシアが事務所にいるなら、ついでに何か言うか。頭の中は、それくらいどうでもいいことで埋まっていた。
その時だった。
「きゃあっ!!」
女の悲鳴が、車内を横断する。
ヒューゴは振り返る。数歩先で、若い女が自分の肩を押さえて立ちすくんでいた。周囲の視線が一気に集まる。次の瞬間、女の指がヒューゴを捉えた。
「この人です!」
「……は?」
間の抜けた声が、自分の喉から出る。
女は、はっきりとヒューゴを指差した。声は震えているのに、言葉だけは鋭い。
「この人、さっきから私のお尻を触ってました!」
車内の空気が、音を立てて歪む。
吊り革を握ったまま、雨果は自分が今、夕暮れのマグレールで最悪の位置に立たされたことを理解した。
即座に正義漢の男達がヒューゴの周りを取り囲んだ。
「ちょちょちょ……俺、触ってないよ、汗汗」
「触ってる奴はみんなそう言うぜ」
と誰かが言ったと思うと1人がヒューゴへと覆いかぶさった。それに続いて全員がヒューゴへと覆いかぶさりヒューゴは身動き出来なくなった。
「そんなのってないだろーー!!!」
数時間後。ヒューゴは取調室にいた。しかも、ただの警察の取調室ではなく、SHLDの取調室だった。どうやら警察の方は手が回っていならしく、SHLDへとこの仕事が回ってきたようだ。
「……なんでだよ」
ヒューゴはドカッと机に突っ伏した。
向かいには、鉄仮面のように無表情な男が一人、静かに座っている。
二人の間の机の上には、一枚の書類とヒューゴの端末だけが置かれていた。
「質問します」
「……はい」
「事件当時、あなたは被害者のすぐ後ろに立っていた。これは事実ですか?」
「事実です」
「では、なぜ被害者のすぐ後ろに?」
「電車だからだよ!」
「電車だから、とは?」
「混んでたんだよ! 押されて勝手にそうなったんだ!」
「なるほど」
尋問官は表情一つ変えず、手元の端末へ淡々と何かを入力していく。キーボードを叩く乾いた音が室内に響いた。
「では、被害者の身体に触れたことは?」
「ない」
「一度も?」
「ない」
「本当に?」
「ないって言ってるだろ!」
「……では、なぜ被害者はあなたを犯人だと指名したのでしょう?」
「それを俺が知りたいんだよ!」
ヒューゴはガシガシと頭を抱え込み、深い溜め息を吐き出した。
「しかも、被害者は右手で触ったって言ったんだろ?俺の腕はOGT義手だぞ」
「でも、最近は触覚のある義手だってありますよね?」
「ぐぬぬ、あ!そうだ!見てろよ」
そう言ってヒューゴは鉄仮面な男に義手を向けた。手のひらには水晶のような物が付いていた。
「それは?」
ヒューゴは答える。
「カメラだよ。カ・メ・ラ。」
「…………」
尋問官は無言のまま、しばらくヒューゴの義手を見つめていた。
「……なぜ、それを最初に言わなかったんですか?」
「聞かれなかったからだろ」
「…………」
「…………」
重苦しい沈黙が取調室を包み込む。尋問官の眉が、ピクリとほんの少しだけ動いた。
「では、映像を確認します」
「最初からそうしろよ……」
ヒューゴが手元の義手を操作すると、埋め込まれた水晶のようなレンズが淡い光を帯びた。そのまま端末へデータが転送され、画面に映像が映し出される。
そこに映っていたのは、事件当時の混雑した車内だった。
ヒューゴが吊り革を掴んで立っており、そのすぐ後ろには被害を訴えた女性の姿がある。
車体が大きく揺れ、乗客たちが一斉に押し寄せる。だが――。
「ほら」
ヒューゴが画面を指差した。
「俺、ずっと手を上げてんだろ?」
「……確かに」
「左手は体から離れてるし、右手はずっと吊り革を握ったままだ」
映像の中のヒューゴの右腕は、一度たりとも女性へ近づいていない。
「これで無罪確定だろ?」
「まだ断定はできません」
「なんでだよ!?」
「映像の死角など、別の可能性も――」
「お前、俺を絶対犯人にしたいだけだろ!」
「そういうわけではありません」
「顔に『犯人にしたい』って書いてあんだよ!」
尋問官は映像を一時停止し、じっと画面を見つめ直した。
「……しかし、確かに不自然ですね」
「だろ?」
「被害者の証言とも一致しない」
「だろ!?」
「目撃者の証言も曖昧です」
「だろ!!」
「つまり――」
尋問官がゆっくりと顔を上げる。
「現時点では、あなたを犯人と断定する根拠はありません」
「よっしゃあ!」
ヒューゴは勢いよく机を叩いて立ち上がった。
「じゃあもう帰っていいな!?」
「まだです」
「なんでだよ!?」
その瞬間だった。取調室の扉が、ドカンと勢いよく開け放たれた。
「ヒューゴ!!」
廊下に響き渡る、妙に明るい声。
「……その声は」
嫌な予感にヒューゴが顔を顰めるのと同時に、黒髪の男が風のように室内へ飛び込んできた。
「やあ!!」
「カイゼル……」
カイゼル・エルディオン。
彼は部屋に入るなり、ヒューゴの姿を視界に収めて大袈裟に目を丸くした。
「本当にヒューゴじゃないか!」
「『本当に』ってなんだよ」
「いやぁ! まさか僕が君をここに連れてくる前に君がSHLDに連れてこられるなんてね!」
「俺だって好きでこんなとこに来たわけじゃねぇよ!」
楽しそうに笑うカイゼルは、そのままチラリと尋問官の方へ視線を向けた。その瞬間、カイゼルは驚愕の声を上げた。
「アレックスさん!?!?」
「あれ?そこ知り合い?」
そう言うと鉄仮面だったはずの男は顔を下に向け肩をわなわなと振るわせ始めたと思うと腹を抱えて笑い始めた。
「アッハハハハ!!いやあ、スマンスマン!キーリオスでは知らない人間は居ないあの有名な探偵が捕まったって知ってな。尋問官のフリしてここに来たのさ!」
「所長……」
「所長?」
ヒューゴは首を傾げた。
その様子を見たカイゼルが、「あ」と何かに気づいたように声を漏らす。
「そうか。ヒューゴは知らなかったんだな」
「何がだよ?」
「この人、SHLDの所長だよ」
「…………」
ヒューゴの思考がピタリと停止した。
ゆっくりと、目の前の男に視線を向ける。
さっきまで鉄仮面のような無表情で自分を詰問していた男が今は腹を抱え、涙を浮かべて爆笑していた。
「……こいつが、所長……?」
「『こいつ』とは失礼だなァ」
アレックスは笑いを収めながら、少し荒っぽい動作で椅子から立ち上がった。
「改めて名乗ろう。アレックス・オーボルト。ここ。SHLDの所長を務めている」
「……マジかよ」
「マジだ!」
「有名な探偵を直接尋問する機会など、そうそうないだろう?」
「俺は見世物じゃないぞ!」
「分かってる。分かってる」
「絶対分かってないだろ!」
ヒューゴの怒号が取調室に響き渡る。その横で、カイゼルが楽しそうに肩を揺らしていた。
「まあまあヒューゴ、アレックスさんはこういう人だからさ」
「お前も知ってたなら止めろよ!」
「いやぁ、僕も途中まで知らなかったんだよね」
「なんでだよ!」
ギャーギャーと騒ぐヒューゴを他所に、アレックスは机の上に散らばっていた書類を綺麗にまとめると、それをヒューゴへと差し出した。
「事件については、もう問題ない。映像も確認した。君は無実だ」
「じゃあ、さっさと帰っていいんだな?」
「ああ」
「よし!」
無罪放免と分かった瞬間、ヒューゴは一刻も早くこの場を立ち去ろうと出口へ向かって歩き出す。
だが、その背後からアレックスの軽い声が飛んできた。
「ただ――」
ヒューゴの足が、ピタリと止まる。
「せっかく本部まで来たんだ。少し見ていかないか?」
「やだね」
かぶせ気味の返答だった。
「ええ?」
「絶対ろくなことにならないからだ」
「そんなことはないぞ」
「所長が自ら尋問官のフリして遊んでる時点で、何ひとつ信用できねぇよ!」
「ひどい言い様だな」
アレックスは困ったように苦笑いしてみせる。
すると、カイゼルがひょいとヒューゴの肩へ馴々しく腕を回してきた。
「まあまあ! せっかくだから見学していこうじゃないか!」
「だから嫌だって言ってんだろ!」
「SHLDの本部なんて、普通の一般人は入れないんだぞ?」
「俺はもう入ってんだよ!」
「取調室だけじゃないか」
「ここで十分すぎるわ!」
なかなか、うなずかないヒューゴにカイゼルは切り札を出す。
「なら!リシアの仕事場を見ていかないかい?」
「……まあ、それなら」
その言葉にヒューゴはうなずきSHLDツアーが始まった。




