人間ドック
ある日の昼下がり、差し込む陽光が緩やかに部屋を包み込む中、メロルスは一枚の紙切れをヒューゴの目の前へと突き出した。
「ほら」
「なんだこれ」
「人間ドックの無料券」
「……いらねぇよ」
ヒューゴは即座に眉をひそめ、顔を背けた。
「なんでだよ、折角の好意だぞ」
「病院なんて行くもんじゃない。あの消毒液の匂いだけで吐き気がする」
「子供じゃあるまいし」
「それに、注射されるだろ」
「人間ドックで何回注射されると思ってんだよ」
「一回だって御免だね」
メロルスはあきれたように深く息を吐き出す。
「これ、有効期限が今月までだぞ」
「じゃあ、きれいにゴミ箱へシュートしてくれ」
「お前な……」
「冗談だっての」
やれやれと呟きながら、ヒューゴはその紙を受け取った。指先で軽く弾くようにして眺め、やがて肩をすくめる。
「……まあ、どうせ暇だし、冷やかしに行ってみるか」
「その不純な動機で行く人間ドックがあるか」
「だって、無料なんだろ?」
「そこだけは変にフットワークが軽いな、お前は」
こうして、渋るヒューゴの足は半ば強制的に病院へと向かうことになった。
数時間後。
「次の方、レントゲン撮影室へどうぞ」
「はいよ」
慣れない院内の空気にわずかに顔をしかめつつも、ヒューゴは指示に従って検査室の重い扉をくぐった。
「それでは、上着を脱いでください」
「了解」
「金属類やアクセサリーはすべて外してポケットも空に」
「愛銃も?」
「当たり前です……!」
「めんどくさいな……」
「誤診の原因になりますので」
「はいはい」
言われるがままに身軽になり、冷たい金属の機械の前に立つ。技師の淡々とした声が響いた。
「では、息を吸って……止めてください」
「――っ」
カシャッ、と乾いたシャッター音が室内にこだまする。
「はい、楽にしてください。終了です」
「お、思ったより早いな」
ヒューゴは服を着直し、待合室へと戻ろうとした。だが、その背後で、画像をチェックしていた医師の手がピタリと止まった。
画面を凝視し、わずかに首を傾げる。そして、マウスを動かして画像を拡大した。
もう一度、先ほど撮影したデータとモニターを交互に見比べ、それからゆっくりと顔を上げる。
「ヒューゴさん」
「ん?」
「少し、確認したいことがあるのですが」
「なんです?」
「失礼ですが……普段、タバコは吸われますか?」
「まあ、嗜む程度には」
「一日にどれくらい?」
「だいたい一箱ってところか」
「そうですか……」
医師は険しい顔で顎に手を当て、それからレントゲン写真の一点を指し示した。
「これ、なんですか?」
「……は?」
モニターに映し出されているのは、ヒューゴの胸部だ。
左右に広がる淡い灰色の肺。その中央で規則正しく鼓動を刻む心臓の影。そして、それを守るように重なる肋骨のアーチ。
だが、その構造のまっただ中。あり得ざる場所に、奇妙な影があった。
くっきりと縁取られた、無機質な長方形の影。
「……」
「……」
ヒューゴは目を細め、首を傾げた。
「タバコ、じゃねえの?」
「そう見えますね」
「なんでだよ」
「それ、私があなたに聞きたい質問です」
「いや、俺に言われても」
二人して無言でモニターを見つめる。
どうひいき目に見ても、そこにあるのは――タバコの箱だった。
「先生」
「はい」
「俺、人生で一度もタバコの箱を丸呑みした記憶はないんだけど」
「私も、胸腔にマルボロが自生している患者は医師人生で初めて見ました」
「そもそも、どうやって入ったんだよこれ」
「それを今から解明するのが医療の仕事というものですが……」
医師は引きつった笑みを浮かべ、冷や汗を拭った。
「胃の中や食道ではありません。明らかに肺の周辺、胸壁の組織と同化するように存在しています」
「……俺の体、どうなってんだ?」
「こちらのセリフです」
この異常事態に、当然のごとく追加検査が即決された。
再び訪れた待合室。
ヒューゴはパイプ椅子に浅く腰掛け、退屈そうに端末をいじっていた。そこへ、見かねたメロルスからの通信が入る。
『よお、どうだった?』
「ヤバいことになった」
『やっぱりどこか悪かったのか?』
「肺の中にタバコがある」
『……は?』
「俺もそう思った」
『お前、まさかタバコを食ってるのか?』
「食うわけないだろ」
『じゃあなんで肺にあるんだよ、頭湧いてんのか』
「知らん、俺が聞きたいわ」
『医者はなんて?』
「俺より困った顔してたぞ」
『そりゃそうだろ、ホラーかよ』
『……おい、まさかそれ、物心ついた頃から入ってたんじゃねぇのか?』
「知るかよ、そんなもん」
『お前、自分の体に無頓着すぎるだろ』
「無料じゃなかったらそもそも来てねぇよ」
『そこは素直に病院に感謝しろ』
ふっと息をつき、ヒューゴは通話を切る。
そして、物思いにふけるように自分の胸元に視線を落とした。服の上からでは、もちろん何も見えない。
「……一本くらいなら、ここからでもまだ吸えるか?」
ぽつりと呟いた瞬間、背後から冷徹な声が降ってきた。
「体内で火をついたら大爆発しますよ。冗談でもやめてください」
「……聞いてたのか」
「全部、丸聞こえでした」
「……はい、すみません」
ヒューゴは観念したように肩を落とし、おとなしく椅子に座り直したのだった。
ある日の昼下がり、差し込む陽光が緩やかに部屋を包み込む中、メロルスは一枚の紙切れをヒューゴの目の前へと突き出した。
「ほら」
「なんだこれ」
「人間ドックの無料券」
「……いらねぇよ」
ヒューゴは即座に眉をひそめ、顔を背けた。
「なんでだよ、折角の好意だぞ」
「病院なんて行くもんじゃない。あの消毒液の匂いだけで吐き気がする」
「子供じゃあるまいし」
「それに、注射されるだろ」
「人間ドックで何回注射されると思ってんだよ」
「一回だって御免だね」
メロルスはあきれたように深く息を吐き出す。
「これ、有効期限が今月までだぞ」
「じゃあ、きれいにゴミ箱へシュートしてくれ」
「お前な……」
「冗談だっての」
やれやれと呟きながら、ヒューゴはその紙を受け取った。指先で軽く弾くようにして眺め、やがて肩をすくめる。
「……まあ、どうせ暇だし、冷やかしに行ってみるか」
「その不純な動機で行く人間ドックがあるか」
「だって、無料なんだろ?」
「そこだけは変にフットワークが軽いな、お前は」
こうして、渋るヒューゴの足は半ば強制的に病院へと向かうことになった。
数時間後。
「次の方、レントゲン撮影室へどうぞ」
「はいよ」
慣れない院内の空気にわずかに顔をしかめつつも、ヒューゴは指示に従って検査室の重い扉をくぐった。
「それでは、上着を脱いでください」
「了解」
「金属類やアクセサリーはすべて外してポケットも空に」
「指輪もか?」
「はい、すべてです」
「めんどくせえな……」
「誤診の原因になりますので」
「はいはい」
言われるがままに身軽になり、冷たい金属の機械の前に立つ。技師の淡々とした声が響いた。
「では、息を吸って……止めてください」
「――っ」
カシャッ、と乾いたシャッター音が室内にこだまする。
「はい、楽にしてください。終了です」
「お,思ったより早いな」
ヒューゴは服を着直し、待合室へと戻ろうとした。だが、その背後で、画像をチェックしていた医師の手がピタリと止まった。
画面を凝視し、わずかに首を傾げる。そして、マウスを動かして画像を拡大した。
もう一度、先ほど撮影したデータとモニターを交互に見比べ、それからゆっくりと顔を上げる。
「ヒューゴさん」
「ん?」
「少し、確認したいことがあるのですが」
「なんです?」
「失礼ですが……普段、タバコは吸われますか?」
「まあ、嗜む程度には」
「一日にどれくらい?」
「だいたい一箱ってところか」
「そうですか……」
医師は険しい顔で顎に手を当て、それからレントゲン写真の一点を指し示した。
「これ、なんですか?」
「……は?」
モニターに映し出されているのは、ヒューゴの胸部だ。
左右に広がる淡い灰色の肺。その中央で規則正しく鼓動を刻む心臓の影。そして、それを守るように重なる肋骨のアーチ。
だが、その構造のまっただ中――あり得ざる場所に、奇妙な影があった。
くっきりと縁取られた、無機質な長方形の影。
「……」
「……」
ヒューゴは目を細め、首を傾げた。
「タバコ、じゃねえの?」
「そう見えますね」
「なんでだよ」
「それ、私があなたに聞きたい質問です」
「いや、俺に言われても」
二人して無言でモニターを見つめる。
どうひいき目に見ても、そこにあるのは――タバコの箱だった。
「先生」
「はい」
「俺、人生で一度もタバコの箱を丸呑みした記憶はないんだけど」
「私も、胸腔にマルボロが自生している患者は医師人生で初めて見ました」
「そもそも、どうやって入ったんだよこれ」
「それを今から解明するのが医療の仕事というものですが……」
医師は引きつった笑みを浮かべ、冷や汗を拭った。
「胃の中や食道ではありません。明らかに肺の周辺、胸壁の組織と同化するように存在しています」
「……俺の体、どうなってんだ?」
「こちらのセリフです」
この異常事態に、当然のごとく追加検査が即決された。
再び訪れた待合室。
ヒューゴはパイプ椅子に浅く腰掛け、退屈そうに端末をいじっていた。そこへ、見かねたメロルスからの通信が入る。
『どうだった、異常なしとはいかなかったろ』
「ヤバいことになった」
『やっぱりどこか悪かったのか?』
「肺の中にタバコがある」
『……は?』
「俺もそう思った」
『お前、まさかタバコを食ってるのか?』
「食うわけないだろ」
『じゃあなんで肺にあるんだよ、頭湧いてんのか』
「知らん、俺が聞きたいわ」
『医者はなんて?』
「俺より困った顔してたぞ」
『そりゃそうだろ、ホラーかよ』
『……おい、まさかそれ、物心ついた頃から入ってたんじゃねぇのか?』
「知るかよ、そんなもん」
『お前、自分の体に無頓着すぎるだろ』
「無料じゃなかったらそもそも来てねぇよ」
『そこは素直に病院に感謝しろ』
ふっと息をつき、ヒューゴは通話を切る。
そして、物思いにふけるように自分の胸元に視線を落とした。服の上からでは、もちろん何も見えない。
「……一本くらいなら、ここからでもまだ吸えるか?」
ぽつりと呟いた瞬間、背後から冷徹な声が降ってきた。
「体内で火をつけたら大爆発しますよ。冗談でもやめてください」
「……聞いてたのか」
「全部、丸聞こえでした」
「……はい、すみません」
ヒューゴは観念したように肩を落とし、おとなしく椅子に座り直した。
――それからさらに数時間後。
ぐったりと疲れ果てた様子の医師が、青ざめた顔でヒューゴの元へと駆けてきた。
「ヒューゴさん! 大変申し訳ありませんでしたっ!」
「ん、なんだよ。俺の肺からタバコを取り出す手術の同意書?」
「違います! 誤診でした!」
「……は?」
医師はフーフーと荒い息を整えながら、持っていたタブレットの画面を突き出した。
「先ほどのレントゲン写真、データが取り違えられていたんです。別の患者さんのものと完全に混ざっていました。ヒューゴさんの肺は、驚くほど健康なピカピカの健康体です!」
拍子抜けしたように、ヒューゴはまばたきをした。
「なんだよ、じゃあ俺の胸にタバコなんかなかったのか」
「はい、一切ありません! お騒がせして本当に申し訳ありませんでした!」
深々と頭を下げる医師を眺めながら、ヒューゴはやれやれと息を吐く。
「なんだよ、脅かしやがって。健康ならいいけどさ」
踵を返し、病院を出ようとしたその瞬間。
ヒューゴはふと立ち止まり、首をかしげた。
「……ってことはさ」
「はい?」
「俺のデータと入れ替わってたってことは……」
ヒューゴは真面目な顔で医師を見つめた。
「どこかに、本当に肺へタバコの箱が埋まってる本物の患者がいるってことか?」
その問いに、医師の顔が再び真っ青に凍りついた。
「…………あ」
「おい、早くそいつを探してやれよ。肺の中でニコチンが染み出してるぞ」
「ひ、病院総出でカルテを洗い直します!!」
静かな病院のロビーに、医師の絶叫と慌ただしい足音が響き渡るのだった。




