三十九話
暗がりの中、いつの間にか音があった。
さわさわ、ノイズのような、テレビの砂嵐を低音量で流しているような、無音に近い雑音。
私は目を瞑って音に意識を集中させた。すると、音が徐々に聞き覚えのある音になっていく、音が鮮明になっていく。
さーさー、規則的に返す音。ぴちゃぴちゃ、少し不規則に返す音。
雨だ。外の音、だろうか。囁くような、雨が濡れた地面を叩く、細い雨の音。何かをつたい不規則に落ちる雨だれ。弱くも心地いい音。
――ちゃぽん。
いきなり、それらとは別の音が響いた。
ちゃぽん。――ちゃぽん。――ちゃぽん。
水を跳ねさせるような音が繰り返される。
ちゃぽん。……ちゃぽん。……ちゃぷ。
何かを水面に投じたような。なんだろう。
好奇心が瞼を上げた。――そこには先ほどまでの暗がりはなく、曇天を映した水面が細雨を受け止めながら輪状の波を打っていた。
湖? いや、それほど大きくはない。池? 公園だろうか。対岸には整った緑地の芝や木々も見える。
「――最低だ」
……っ!? なに!?
近くからの突然の声に身を翻し辺りを探ろうとした。――が、動けない。
「こんなんじゃない……こんな、んじゃ……違う……」
聞き覚えのある女の子の声。でも、印象が少し違う。震えた小さな声。
――ちゃぽん。
小石が池に投げられる。
――ちゃぽん。
私から小石が投げられる。
池に広がった波が落ち着きを取り戻すと、細雨に少し揺れた水面には私ではない姿が映っていた。
――そうか、これは彼女の記憶。私は今、彼女なんだ。
池に向かって座り込む彼女。抱えた膝の奥で辛そうな顔が揺れている。
自分では無い姿を自分が見る。その感覚が奇妙でしょうがない。
驚きつつも、すぐさま状況を飲み込むことはできた。喫茶店のときと同じだ。それでも、身に覚えのない風景や、知らない感情が断片的に流れ込んできては私に張り付く。次々と流れてくる知らないものたち。私のものではないものたち。
あたしは……違う。――私、は違う。私は私。
自分が誰なのか、何度も、何度も、自覚させる。
すると、水面に映された彼女の背後からは何かが伸び出していた。疎らで若芽のような葉をつけ、広がるように伸びた細枝。葉が少ないせいか、どこか刺々しく感じる言の葉。
《何がそんなに辛いの? 私に聞かせて》
「わかんない! わかんないの!」
聞こえるはずはないのに、思わず声をかけてしまった。
「違う……違うのに」
この言葉は私に返されたものではない。
彼女から生えた枝と枝とがぶつかり合っているのか、ぎしぎしと軋む音が聞こえる。そして、私の中にまた知らないものが入ってくる。
――オレンジ色に染まった教室。懐かしい風景。けど、私の知らない場所。知らない制服。
私の、……いや、彼女の前にはどこかあか抜けない少女が座っている。
中学生? くらいだろうか。真面目そう、大人しそう、そう思った。
一つの机を対面で囲み、プリントが二枚、それぞれを向いている。
これは過去の記憶だ。彼女の記憶。
『進路希望調査』そう書かれたプリントにはいくつかの格子で余白が作られている。
「あやちゃん書けた?」
対面の子から問いかけられる。
「んー、全然だめ。ゆかは?」
「一応、書けた。かな。」
「どこ?」
「ちょっと遠いけど……」
体を乗り出して逆さのプリントを見ると整った綺麗な文字で高校名が四角の中をすべてを埋めていた。
正面にあるプリントの四角は真っ白のままで、余白には楽しげな犬や猫の落書きがあった。
「うっわ、頭いいとこばっかじゃん、さすが学年一位のゆかさま」
「答えがある問題はちゃんと勉強すれば誰でも解けるよ。でもさ、将来とかって難しいし、正直わからない。だから、とりあえず今できることはやってみようと思うの」
「もうそんな将来のことまで考えてるんだ。あたしは家からの距離と偏差値との睨めっこだよ」
「わたし、なりたいものがあるの。だから、その準備」
「人類はみんなそんなに賢くはできてないのだよ? ゆか神さま。わかんない問題はわかんないし、将来のことなんてもっとわかんない。わかんないってことはどうすればいいかすらわかんないの。あたしは勉強も苦手だし、何になりたいのかもよくわかんない。わかんないことだらけ、ぜんぶぜーんぶわからん!」
「単純に好きなこととか、興味あることから考えるっていうのはどう? 何が好きとか、何が楽しいとか、あるでしょ? あやちゃんは何が好き? 何してるときが楽しい?」
「んー、今楽しいのは部活かな? あとはー、絵を書くのが好き! あとー、こないだゆかから借りた小説、ああいうのも好き!」
「バスケに絵、あとファンタジー小説か……」
「あたし何になればいい? わかんないよ!」
「何で自分はそれを好きか、それをしてるとき楽しいのか、その根っこの理由を考えるの。例えばバスケは何で楽しいの?」
「何で、かー。シュートが決まるとか、自分がこうしたいって思ったプレーができたとか、チームで動けたってときが楽しい、のかな? あー、でも、結局は体動かしてるとごちゃごちゃしたのとか忘れられるからなのかも。嫌なことがあっても汗かいたあとってわりと元気になってたりするし」
「そう、そういうの。何でそれが楽しいかを考えたとき、楽しいって気持ちの他に、嫌なことをそのときは忘れられるからとかって結構あるんだよ。あと、自分の行動が結果や形になるってのはやっぱり嬉しいよね。スポーツもだけど絵を楽しいって思うのはそういうことだと思う」
「でも、あたし、バスケ選手になりたいわけじゃないよ? 画家とかそんな才能も無いし、美術の点低いし……」
「だから、そうじゃなくてね。できるから、とか、できないから、とか、才能がって結論だけで考えるんじゃなくて、根っこを探すの。好きの根っこだよ? やりたいことをする、って難しいことだけど、でも、なりたりものって続けなきゃなれないと思うの。どんなことでもどこかで絶対楽しくないときが来るはず。そんなとき、楽しいから、だけじゃ続けられないと思う。だから、嫌なことを忘れられるとか、誰かにこう言ってもらえたからとか、自分はなんでそれを選んだのか、そんな好きの根っこの部分が大事になってくると思うんだ」
「すごい! ゆか、やっぱりすごいよ! あたしはゆかになりたい! どの高校を志望すればゆかになれますか! ゆか先生!」
「今回のテスト、赤点いくつだっけ?」
「ふ、ふたつです……数学と国語……」
「本当苦手だよね、その二つ。数学はともかく、国語は「小説を愛読する今のあたしに死角はない!」って言って人の話聞かなかったのは誰だっけ?」
「すみません。数学もゆか先生に教えてもらったとこはできたんですけど、公式は合っているのに答えが違うとか、点の付け忘れ、回答欄を間違えるなどのケアレスミスが多発しまして……」
「だからあれほど終わってもちゃんと見返しなって――」
「はい! はい! ごーめんなさい! でさ、ゆかは何がやりたいのさ? さっきなりたいものがあるって言ってたよね?」
「あ、う、うん、わたしは……先生。……学校の先生になりたい、かな」
「おお、すごい。ホントにゆか先生だ」
「勉強とかさ、別に嫌いじゃなかったんだけど、楽しいってわけでもなかったんだよね。でも、誰かに教えようって思ってする勉強はちょっと楽しくてさ。誰かに喜んでもらえるって……嬉しいよね」
「ゆかってホント教えるの上手だもんね。先生の説明なんかよりずっとわかり易いもん」
「う、うん、そう言ってくれるから……」
「あたし、勉強ダメでさ。いや、ホントに助かっています。部活辞めさせられずに続けられるのもゆか先生の勉強講座のおかげです」
「あやちゃんの苦手って、文章の誤読が原因だと思うの。国語とか、苦手って思い込みが目を滑らせて、問題を自分で勝手に作っちゃってるんだよ。貸した小説はちゃんと読めたでしょ? あれだって短くないし、集中力や、読解力がないと面白いって思う前に閉じちゃうと思う」
「そうかなー、確かに最初ちょっと独特で入りづらかったけど、ゆかのおすすめしてくれたヤツだから面白いんだろうなって思ってたよ」
「……ありがと。またなんかお勧めできそうなのあったら貸すね」
「あ、うん、お願い。ゆかさっきから顔赤いけどどうしたの?」
「な、なんでもない! よ、よし、じゃあ、勉強だ! 今から勉強だよ! 赤点だった数学と国語の勉強!」
「げっ。なんで小説の話から勉強になるのさ。それに、今はあたしの大事な将来のため、この調査表を慎重に……」
「落書きしながら自宅の距離と偏差値との睨めっこを将来を考えているとはいいません」
「ひどい! あたしにとっては重要なのに!」
「あと、その犬と猫……かわいいからこっちのノートにも描いて」
「えー、どうしよっかなー」
――オレンジ色が揺らぎ、目の前の風景がだんだん遠退いていく。
私の記憶ではない。それでも、何だか温かい気持ちが入ってくる気がした。




