三十八話
半身を呑み込んでいる木々の隙間から蔦が伸びてくる、蔓は私の手を少し窺ったあと、私に手肢を伸ばし始める。
ゆっくり、ゆっくり、緑が私を蔽う。
――――静かだ、何も聞こえない。……暗い、何も見えない。
ここは、言の葉の中、だろうか。
静寂に戸惑いながら、何も見えない黒をただ見つめていると暗い底から言葉が滲んできた。
――『――誰?』――
そんな言葉がじわりと浮かんで、消えた。
暗さに慣れたのか周りがほんの少し見え始めた。真っ暗な所と薄い所がある。月も星もない夜。そんな夜の暗さ。
「私の話するね、ずっと前、なんだけどさ」
言いかけて言葉に詰まった、言葉にすると大したことのない話になるとわかっていたから。それでも、私にとっては大きなこと。私のこと。
「中学の頃の話。友達と話してるとき『あ、能面が笑った』って、いきなり男子に言われて、周りに笑われたんだ。ノリとかそういうの。私、緊張しやすくて無口だったし、目つきも良くなかったみたいだから。よく、怒ってる? なんて、勘違いされたりして。その子にとっても私の笑顔って、意外だったみたいで、そのギャップが面白かったらしい。それからね、人から見られてる自分っていうのが気になっちゃって、上手く笑えなくなって、だんだん人にも会えなくなって……」
言葉にするとなんでもなくこと。人から見れば〝そんなこと〟それでも、私のこと。
私が自覚している私と、どこか外から他人が見た私、その違いやズレ。それらが怖く感じた。
「そのことがあってからかな、鏡を頻繁に見るようになったんだ。自分はどう映ってるんだろ、変じゃないかな、可笑しくないかな、って。高校に入ってからはメイクとか髪型とかを気にして、変わった気になって、少しは人慣れもしたんだけど、それでもやっぱり気にしちゃって……そんなとき、友達が『そんなに誰も見てないよ』って『気にしすぎ』だって。人といるときは意識して鏡なんて気にしないようにしてたんだけどね。それでも、そう見えたみたい。ただの軽口、悪気なんてないし、深い意味なんてない、ただ私を急かしただけ。それだけのこと。わかってる。だけど、……触れてほしくなかった。その言葉を聞きたくなかったんだ。私の事情なんて勝手だけど、触れてほしくないものも、上手く言えないものもある」
言葉にするほど上手く説明できない。誰かに話すつもりもなかったから。
これを話すには、これを話さなきゃ、そんなことが頭をぐるぐると。
でも、この上手くまとまらなさが私の伝えたいことだと思った。自分でもわかっていないんだ。
「私って誰なんだろ、どう見えているんだろ、って」
自分でも理解しきれていない。感情が先走る。なんでそう思ったのか、感じたのか、上手く説明できない、自分の感情を追い切れない。
別に、何か特別なきっかけがあった訳じゃない。いじめを受けた訳でも、何かひどいことをされた訳でもない。
ただ周りから入ってくるいろいろな日常の言葉が消化できなかっただけ。
自分がどう思うが、人からそれだと言われれば、そう思ってしまう。
自分がわからないまま、不安や怖さに呑み込まれていく。
そんな空白。
克服できなかったこと、折り合いはつけたつもり、でも割り切れないもの。
言葉は、澱のように積み重なると心が曇る、動けなくなる。
心が凝る。
私が濁る。
「そっか、これも、言葉なんだ」
明確に誰かに言われた言葉だけが残る訳じゃない、言葉や感情を砕いて、飲み込もうとした自分の思考も言葉になるんだ。
この、辺りを埋める夜のような黒も言葉の残りカス。
言葉を砕いて、感情を飲み込んで、それでも消化できなかったもの。
それらが積み重なり澱になったもの。
見えなかったんじゃない、ここにあるもの全てが言葉。
「そうだよね。嫌なこと、ひどいこと、そんな言葉だけが残るんじゃない。何気ない言葉、感情、そういうのがどうしようもなかったりするんだよね」
暗がりが少しだけ揺らいだ。音のない空間は私の声を残響させる。
――《あたしは……誰……》――
どこからか声が聞こえた。沈んだ声。
「やっと聞こえた」
私の声に答えるように。でも、私に向けられた声じゃない。
――《どれが……ホントの自分……》――
探るような、迷うような、彼女の声。
――《違う……違う……違う……》――
否定。否定。否定。
彼女の声が暗がりに響く。
私の中にもあった言葉――自分は誰なのか。そんな、疑問。
「私も、……私もね……」
いや、違う。そうじゃない、そうじゃない。
えっ? 私は今、なんて言おうとした? 同じ? 何が?
どこか一つを都合よく解釈して全体を決め付けたような言葉。
私でしかない私が人と同じかどうかなんてわかるわけがない。
そんなもの、安易に口にしていい言葉なんかじゃない。
無意識だった。私は〝同じ〟という安心を得ようとして、勝手に自分の境遇を重ねようとしていた。彼女を何も知らないのに、自分を押し付けようとした。
彼女のこと、彼女の言葉、という建前。共感と依存をはき違えそうになる。自分の弱さを他人に押し付けようとした。自分の孤独や寄る辺のなさを押し付けがましく言葉にしようとした。
誰かと一緒、そんな風に思えたら少し楽になるような気がしただけ、それだけ。
これは私だ。彼女のじゃない。そうじゃない。違う。
――違う、か。
彼女の『ホントの自分』という言葉が私に絡まる。
そして、繰り返された『違う……違う……違う……』否定の言葉。
自分が、わからない。そういうの、私もわかる。
これは都合のいい共感なんかじゃない。そういうものとして、理解できること。自分の経験。
自分から見える〝自分〟なんて、せいぜい手や足、体の一部、そのくらい。自力で全体を見ることは難しい。できることといえば鏡や写真に映った姿を眺めることくらい。それでも見えない所はたくさんある。
だからこそ、人から見えて、自分では見えない所、そういうものに気付いたり、傷付いたり、傷付けたり。
嬉しいや楽しい。悲しいや許せない。驚きや不安。関わりや繋がり。そんないろいろな感情や出来事が、自分はどういう人間なのかを考えさせる。
〝私はこうだ〟と、思い込ませる。
その中のどれが『ホント』なのか。――私はわからない。




