三十七話
触れた瞬間、溢れ込んでくる。しゅわしゅわ。気泡する生ぬるい温度。炭酸性のお風呂に浸かっているような。次に感じたのは空腹。何かを食べたい、そんなわけじゃない。ただ、求めずにはいられないような、そういう感覚。
そして……渇き。
満たされたい、ただただ求めるだけの感覚。
これが人の思い……いや、――願望。
――声が聞こえてくる。大木に触れた手が透き通っている。人の声が指先から流れ込んでくる。
――『家族が健康、安全でありますように』――『第一志望校合格!』――
――『彼氏ほしい』――『結婚したい』――『資格が取れますように』――
――『ダイエット成功!』――『インハイ優勝!』――『昔に戻りたい』――
――『推しがセンターになれますように』――『お金持ちになりたい』――
――『人の役に立ちたい』――『病気がよくなりますように』――
――『才能がほしい』――『認められたい』――『有名になりたい』――
――『自分探し』――『旅行したい』――『変わりたい』――
――『みんなの願いが叶いますように』――
様々な声。
誰かの声。
思いや願いの強さが声の強弱になっているのか、聞き取り辛い声や聞き取れないような声、言葉にすらならない声も混じっている。
声の奥へ、奥へと辿っていく。
声の奥、言葉の乱気流の中、彼女の姿が見えた。どこか不安げなその姿、声は何も聞こえない、そのまま遠く……。
彼女が掛けた絵馬もここにある。
私は木の外へ戻っていた。
「ねえ……」
次が言葉が見つからない、上手く繋げられない、何を話したらいいのかわからない、私は彼女のことを何も知らない。どんな子なのかも、どんな物が好きなのかも、彼女がどんな願いを書いたのかも、――知らない。……本当、何もわからない。
すぐそこにいる、でも彼女までの距離が遠い。
気を失っている人にはなんて声をかければいい?
『もしもーし』とか、『聞こえますか―』とか、そんな呼びかけ。
でも、その次は? 返事のない相手になんて声をかける?
――わからない。
だから。
「私、あなたと話したい」
感情をしっかり言葉にしよう、と思った、いまさら。
上手いセリフなんていらない、伝えてみよう。
彼女が何かしらの興味や共感を私に感じてくれて、誘ってくれたように、私も彼女と話してみたい、そう思ったんだ。
嬉しかった、すごく嬉しかった、から。
気を失っている彼女からの返事はもちろんない。私がするこれからの勝手のこと、――ごめんね。
偶然、言葉を交わしただけの仲。名前も知らない。どんな性格かもわからない、そんな小さな関わりの一つ。
もっと話してみたい、話を聞いてみたい、って。
私にあなたのことを教えて。
私に何ができる? どうできる? わからない。でも、目の前の彼女を助けたい。彼女のもとへ。そう思い、手を伸ばした。
口入屋さんが今にも呑み込まれてしまいそうな彼女を繋ぎ留めている。自分の願い、もしくは他人の思い、願い、望み、強く求める言葉、その中に落ちてしまうのをどうにか繋いでいる。
「もし……、あなたが願い事をするなら、どんな言葉を綴りますか? あなたの願いはなんですか?」
「えっ、私の……願い事、ですか?」
私にできること、何をすれば、どうすれば、自分の役割、そんなことに思いを巡らせていた中での質問。〝誰かのこと〟ではない。〝私のこと〟私の願い。
自分のことなのに、すぐに言葉が出てこない。
――少し考えてから身近な大きな悩みに突き当たる。『就職』と言う言葉が浮かんだ。そのあと『どこに?』『何になりたい?』と、自問に答えが出せずに思考が濁った。これじゃない。
……名札が欲しい。
そうだ、私は名札が欲しかった。自分の証明、居所、自分を置ける場所、自分は「何処其処の誰々です」そんなことが言えるような。もっともらしい普通。
「居場所、なのかな……。いや、正確には自信とか、そういうのに近いのかも。人とか、周りから認められるっていう実感。そういうものから生まれる自覚かな。自分に対する肯定感、みたいな。そういうのが欲しい……。上手く言葉にできないんですけど、私の願いはそういうものだと思います」
「そもそも〝願い〟とは〝認められたい〟や〝安心〟という感情が形を変えたものです。それぞれの願いには目的があり、その理由の多くが他人から向けられる〝目〟にあります。『誰かより、幸せ』『誰かより、いい暮らし』『誰かより、いい人生』、自分はそんなに欲深でも利己的でも無いという人は『誰かより、いい人』と。心の中で思うのですよ。どれも他人の〝目〟を気にしてはいますが、結局は自己満足が生む優越感を得たいが目的。その深意は、認められたい。自分を肯定したい。自分はおそらく認められているだろう。という安心が欲しいから。人は誰しも、自分しか知りません。それが不安という抱えがたい種になるんです」
〝認められたい〟〝安心〟……か。
割れ人は自分から離れてしまった人。自分を否定してしまった人。――そっか、だから私はここに惹かれたんだ。
私の中に〝不安の種〟があったから。
「ねえ――あなたは何が怖かったの?」
自然にそんな言葉を問いかけた。
木は少しずつだが確実に彼女を引き込もうとしている。依然、気を失ったままの彼女から返事はない。
「声を、言葉をかけてあげてください、彼女が欲しがっている言葉じゃなくていい、あなたが彼女を思う言葉を。人を思った言葉には魂が宿ります。絡め取られるだけが言葉じゃない」
そうだ、喫茶店のときもそうだった。人は何気ない言葉に足を止めてしまう。
私自身も、でも、そんな嫌なことばかりでもない。誰かの言葉が嬉しかったりすれば、誰かの言葉が支えになったりもする。
――『あなただったから』――そんな言葉が胸の内側を温めてくれた。
私はあのとき、許された気がしたんだ。何かに追い立てられるような焦りをずっと感じていた。否定されているような、否定しているような。でも、あの言葉のおかげで、自分にも居場所がある、そう思えるようになれた。
だから、今度は。
「――ごめん! あなたの声を訊かせて!」
教えて。――あなたの声。あなたの言葉。
項垂れた彼女の手をそっと握った。




