三十六話
駆ける足が妙に軽い、運動神経とは無関係に足が動いた。目の端で彼女の姿を探しながら通りを流れる傘を次々と追い抜いていく。
カラオケ店からだいぶ距離があるように感じていた神社は思いの外早く着くことができた。人波や車、人目や道なんて気にしなければ実際の距離なんてそう遠くないのかもしれない。
現実の社は駅からほどない所にありながら、かなりの土地を有し、適度な緑地や整えられた樹木林で整備されていた。しかし、今は入り口を構える鳥居の前からすでに蔽い尽くさんとする木々や藪で鬱蒼としていた。
大きな石の鳥居、敷地を区画する石塀、鬱蒼としているのは神社の敷地のみで、無闇矢鱈に荒れた、という様子ではない。それどころか神聖さを残しつつも、踏み入れたら帰っては来られないのでは、と感じさせる。
形容しがたい圧迫感、人が安易に踏み込んではいけない地、禁足地のような底知れぬ畏怖。
「深い森、だ……」
入るのが怖い。何かに呑み込まれる。
蔦や苔に覆われた短い階段をゆっくりと上り、恐る恐る鳥居をくぐった。
獣道のように見えていた参道は意外にも遮るものはなく、通り道ができている。
こんな状況でも神様の通り道を思い出しながら、真ん中を避け右側を進む。礼節を欠いたら森の怒りをかうかも知れない。
少し歩いた所で周囲の異質さに気付いた。言の葉から生まれた草や木々は今までにもたくさん見てきた。が、ここのそれらはまた何かが違う。境内にある木々は街で見かけるものより一回り以上も大きく、どこか力強さを感じる。
木、自体が強い意志を持っているような、そんな印象。物の対比が狂う、まるで自分が小人にでもなってしまったような感覚になる。
見上げれば木は大きく、自分は小さく、背の高い木々に気圧される。
どこか知らない世界にでも迷い込んでしまった――そんな感覚。
空気すら何か違うと思えた。
少し冷たい空気、森や滝の近くで吸う水分を含んだ空気。
どこか息苦しい。緊張か萎縮か、吸って吐き出す、ただの呼吸が上手くできていない。
森と化した境内を進んでいると本殿が見えてきた。
「あれ、……意外と普通なんだ」
意外なことに本殿は多少の木々、苔や蔦はあるものの、社殿は荘厳を崩していない。荒れた社殿に樹海の始まりのような壮絶な景観を勝手に想像して身構えていただけに肩透かしを食らった気分になる。
境内に入ってからも注意深く彼女の姿を探したが、その姿どこにもなく、人の気配すらない。境内は深い森にいるような静けさ、まるで木々が音を吸ってしまっているかのよう。
カラオケ店から出たときより雨脚が強くなっている。
細雨が目に映る。
濡れはしないけど、確かに降っている。
木々の葉は雨に音を立てていない。ここは言の葉の森。
静かに地面を打つ音がするだけ。
「ここだと思ったんだけど、違ったのかな……」
本殿の横を覗き込み、引き返そうとした途端、何かに引っ張られるような感覚を受け体がよろめいた。
なに? 今、何かに引っ張られた?
「何ですか、これ」
「あれが強い願いが形を持った姿です、気を抜けば絡め取られてしまいますよ」
引っ張られた方向には巨大な木が見える、参道に入ったときから異様な存在感を放っていた。境内の木々は普通のものより一回りも二回りも大きい、その中にあっても尚、異彩を放つ巨大な木が絵馬掛所の辺りから屹立している。本殿の横にある立派なイチョウが若木に見えるほどの大きさ。
絵馬。秘めた思いや願いを心の中で唱えるのではなく、言葉として綴る。そこに葉が芽生えるのかもしれない。
どうやら私はあの巨木に引き寄せられているらしい、目視で捉えるとより強く引かれるのを感じる。巨木に引っ張られる。何かに掴まれているわけじゃない。それなのに自分からそちらへ向かおうと無意識に体が動いているような、高所から下を見たときの吸い込まれるような感覚。
引かれる力に身を任せたい衝動に駆られながらも、恐る恐る巨木を窺う。
遠くからだと一本の巨木に見えた木。どうやら、円状に設置された絵馬掛所から無数に伸びた複数の木が寄り合うように幹を伸ばし一つの大樹になっている。
10や20では利かないほどの木の群れ、もとい塊。さまざまな思いや願いを綴った言の葉がこの木を形成している。
私はその言葉に引き寄せられているのだろうか、知らない誰かの願いを求めてしまったのだろうか、自分の埋められないものがここにあるのだろうか。
「どうやら当たりのようです」
木々の隙間に彼女姿があった。
体の半分を木の方へ埋められ、意識がない。
「ねえ! 起きて! ねえ!」
「言葉は届かない、願いに呑み込まれつつあります……」
どんな言葉だろうが相手に届かなければ意味がない、相手が耳を傾けていなければ、相手に聞こえなければ、意味はない。
「ですが、届かないから呼びかけない、理由にはならない!」
口入屋さんは言の葉の刃を手に駆け出し、巨木向かって突き立てると、それを手がかりに彼女へと手を伸ばした。
私も何か、何かできること……。
「ダメです! 近付かないで! この木はその辺にあるものとは違う! 割れ人はすぐに呑み込まれます!」
「でも、口入屋さんは……」
「わたしは大丈夫。ですが、……戻って来てください! あなたが求めているものはここにはないはずだ!」
口入屋は尚も彼女に言葉を投げかけ、語気を強める。
人が木に呑み込まれる。そんなこと、想像もできない。想像もできないことが目の前にある。言の葉の影響を受けるとはこういうことなのだろうか。彼女の求める言葉はこの中にあるのだろうか。
目の端では口入屋さんが慌てて見えた。また、危ない、とか、危険、とか、そんな心配事を言っているのだろう。
気付くと私も木に歩み寄っていた。触れていた。木に引き寄せられたわけじゃない。自分から。そう、足が動いていたのだ。
知りたい。教えて。――そう唱えた。




