三十一話
喫茶店での出来事から一ヵ月が過ぎようとしていた。ある日、私は夢を見た。
何度も見たことのある同じ夢。幼い私が迷子になる夢。
道はわかっているつもりだった。あそこを曲がれば知っている道に出る。でも、気が付いたら知らない場所。真っ白な世界。そこで私はずっと迷子。いつも誰かに声をかけられる所で目を覚ます。これが実際の記憶なのか、どこかで見聞きした記憶なのかはわからない。起きたとき感情だけが妙に残っていて、怖いとか、悲しいとか、そんなのじゃなくて、寒さだけを感じるんだ。
相変わらず、変わらない日々。あれから変わったことと言えば、鏡に触れても割れ人になることがなくなったことくらい。
気付いたことは少しだけ。私は考えや行動は手段が目的になりがち、と言うこと。私は、何かになろうとするばかりで、それだけが目的になっていた。
何がしたいか、何ができるか、そんな当たり前のことがおざなりになっている。就職という手段がいつの間にか、就職という目的に変わっていたのだ。さらに、その活動自体に目的が移行しまったことも否定できない。
自分のことがわからない、空欄が埋まらない、志望動機が書けない、それらは当然である。
そもそも〝何になりたい〟ではなく〝何かになりたい〟なのだから。
核にあるべき言葉の種がないのだから、どんな言葉も借り物でしかない。
つまり、何でもいいから名札がほしかった。空白を否定されたくはないと言いつつも、私自身がその空白を一番恐れていたという話。
私は「何処其処の誰々です」そんな私を表す名札のようなもの。誰かにそう言える名札のようなもの。私がやってきた活動とはそんな名札の色や形を見比べて、ただ物ほしいと手を伸ばしていただけ。
気付いたとき、完成したエントリーシートには空欄ができていた。下書きの履歴書にはシワができていた。どの空白も薄黒く汚れができた。
私は何がしたいのだろう。
四角に収まっていたはずの言葉が消えていく。思い込むことで考えてこなかったものが急に問いかけてくる。考えざるを得ない疑問たち。自分の言葉をと綴った文字は白紙に汚れだけを残していく。
『あなた、だから』旦那さんが言ってくれた言葉を思い出し、胸が締め付けられる。耳触りのいい言葉。私はまだ何もしていない。だから、まだこの言葉に甘えてはいけない。
四角を埋める言葉。
私を埋める言葉。
そんなものがなくなっただけで居ても立っても居られなくなる。足場の無い落ち着かなさ、形容のできない不安。自分の心を自制できないまま部屋をウロウロしたあと、私は外へ飛び出した。
目的地も定めず街に出たのは言葉を探すため。あてもなくアーケードをふらふらと、何かの参考に、言葉を求めて近くの小さな書店に立ち寄った。
何か、きっかけがほしい。私は何がしたいのか。どうしたいのか。自分勝手に都合のいい言葉を探す。
今の不安を埋めてくれる都合のいい言葉。埋まらない□(くうらん)を埋めてくれるもの。
ファッション雑誌や話題書が謳う〝らしさ〟なんて私にはどうにも難しすぎる。自己啓発本や成功者が語る〝こうすれば〟〝こうなる〟そんな結果論はどこにも響かない。
そう、自分にだけ都合のいい言葉なんて見つかるものじゃない。わかっていたこと。言葉の森に来たところで言葉に躓くことはなかった。――しかし、ある小さなポップ書きに足が止められる。
〝よけいな言葉から生きる力は生まれない〟
そんな可愛らしいイラスト付きで書かれた力強い言葉。
思想関係の本の紹介ではない。何か特定の本の紹介でもない。お店のおすすめコーナーや話題書、新書コーナーとは反対側の裏角。画集や美術、資格取得のコーナーの間にひっそりと置かれたポップ、私はその言葉に躓いた。
言葉とは意思や思いを表し、伝える大切なもの。
〝よけいな言葉〟とは、なんなのだろう。悪口や中傷のような無闇に人を傷付ける言葉のことだろうか。成長するにつれ、現実ではあまり耳にしなくなった言葉。意識的に自分が遠ざかった、というのもあるが、ああいう言葉が多いのは噂話の小さなコミュニティ、顔の見えない会話。匿名のネット世界に多い気がする。
言葉の意味はわかる。でも、なぜ、そんな言葉がこのコーナーのポップとしてあるのかがわからない。
私がポップに目を奪われていると近くの棚で若い女性の店員さんが本の入れ替えとポップの交換をしていた。
高校生くらいだろうか、重く感じさせない黒のアンダーツイン。揃えられた前髪は軽くピンで分けられている、アイドルグループの影響か、小顔効果の為か、前髪横の触覚が女子高生ってこんな感じ、と思ってしまう。それが正直羨ましい。
明るそうな雰囲気の子。同じ黒髪でも私のはどこか重く感じる。
「すみません、このポップってここのですか?」
「そうですよー」
「あっ、そうですか。なんかちょっと意外で、誰かのイタズラでずらされたのかなって」
「このポップ、あたしが書いたんですけど……何か変でしたか?」
「い、いや、変じゃないです! ただ〝よけいな言葉〟って何なのかなぁって思って」
「これはこの本に対して言ったんじゃなくて、コーナーに来るお客さんに向けたメッセージというか、言葉って物語や本の中より断然、日常の方が多いじゃないですか。そういうの、全部受け止める必要はないと思うんです」
「……わかる。あ、素敵ですね!」
わかる。そんな語彙力の低い純粋な共感が一番に出た。私より年若いであろう彼女は私よりもはっきりとした〝自分〟を持っている。彼女と何かの勝負をしているわけでもないのに、全てに負けた気がした。
「すみません、作業の邪魔をしちゃって」
「いえ、」
話し終えたあとも頭で彼女のことを考えていた。
よくいる女子高生。外見で個性の有無を安易に決めつけ、羨んでみたり、勝手に内面を想像して負けと感じる私。恥ずかしくなった。
明確な思いを持ち、その思いを自分の言葉でしっかり表現する。そんなこと、なかなかできることじゃない。ましてや、その言葉を誰かに伝えようだなんて。
自分のことがままならず、就職の動機に悩んで、自分を見失って、ただ不安で目先の言葉を求めてウロウロと。私からはとても遠い存在に見えた。
言葉、いらない言葉か。




