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二十九話

「僕は優柔不断で、いつも迷ってばかりさ。特に男らしくリードなんて苦手で、デートはいつも後悔ばかり」


「そういえば、あなたはいつも『君はどこ行きたい?』『君は何したい?』って私にばかり何かを決めさせて」


「何も考えてなかったわけじゃないんだ。怖かったのさ、ああしなきゃ、こうしなきゃって焦ってしまって。上手く行かないことばかり、いつも格好がつかなかった」


「そんなこともないわ。あ、でも、――いつも何かする前は確認なり一言いってくれるのにあのレストランで席を譲ったときは何も言ってくれなかったのはどうして?」


「本当、昔のことよく覚えているね。ん、どうだったかな。よく思い出せないけど、ただ、早く場所を変えたかったんじゃないかな? 確か何か揉めていたんだよね? だったら、大切な人の大切な日にそんな言葉を聞かせたくないって思ったのさ」


「あなたのそういう所よ。そういう所。私が、ああ、この人だなぁて決めたの所」


「え? そんなこと今まで言ってくれたことあったかい」


「〝らしくない〟でしょ? 恥ずかしくて言えなかったのよ。……〝らしさ〟っていうのは、きっといろんなものを縛ってしまうのね」


「らしさ、か。僕は……」


「あなたはいい旦那だけど、私はちゃんといい奥さんではなかった……少なくとも、……ごめんなさい……」


 奥さんは言いかけて膝のナプキンで目頭を押さえた。おそらく〝いい母親ではない〟そんな言葉を言いかけたのだろう。


 私は隠れる必要がなくとも距離をとってカウンターの陰に身を隠していた。


 口入屋さんと二人の会話を見守っていると、急に空気が変わり、それまで姿が見えなくなっていた禍々しい木が再び浮かび上がった。猛るように枝や幹をうねらせ、赤黒い葉っぱを逆立てた姿はもはや木ではなく獣。


 奥さんの体に這いよるように絡みつき木がまた、グググっと幹を軋ませ、唸りを上げる。枝葉は最初に見たときよりも成長しているようだ。



「そんな……。奥さんはもう気付いてるのに、わかってるはずなのに……。なんで、どうして木は折れないの!」


「……自分を縛る言葉、それを折る言葉がわかっていても人は言葉に囚われ続けてしまう。――ここからはわたしの出番ですね」


 口入屋さんの言葉はどこか鋭く感じた。すると、彼女が手にしていた筆が刃物に変わり切っ先を尖らせ伸びていく。まるで抜き身の刃。


「何を……するんですか?」


「最後の手段です。あの木を断ち切ります」


「断ち切る? どういう……」


「手荒ではありますが、否定の言葉を刺し込む事で忘れてもらうんです。いくつかの記憶にも影響していまいますが仕方ありません」


 忘れさせる? いくつかの記憶に影響? そんなのダメだ!


 私は口入屋さんの前を塞いだ。


「このままでは全ての思い出があの木に呑み込まれてしまいますよ」


「あるんです……あるんですよ、ちゃんと」


 これまでずっと一緒だった。どんな所が好きだったなんて言わなくても離れることはなかった。お互いわかっていた。ちゃんとわかっていた。


「わかりました、もう少し待ちましょう――ところであなたが待ち望んでいるその言葉とは一体どんなものなんですか? あれほど成長してしまったものは相当な言葉でなければ変えることは難しいかと」


「大した言葉じゃないです。誰に、言ってもらえるかが大事なんです」


「そうですか……誰に、ですか。なるほど、では、少しおせっかいが必要ですね」


 そう言うと口入屋さんの手に合った刃はどこかへ消えていた。


「紙飛行機、織ったことありますか?」


「紙、ヒコーキ? ですか?」


「ええ、少し背中を押すお手伝いをしましょう。言わせたい事を言わせるのではなく、思っているなら、ちゃんと言葉にしないと相手には伝わらないってことを気付かせる、ね」


 私は口入屋さんに言われるまま、手渡された紙で簡単な飛行機をただ織った。


「では、それを旦那さんに投げてみてください」


「いいんですか? 本当に投げますよ?」


 下手な紙飛行機は意外にも真っ直ぐ飛び、座っている旦那さんの後頭部辺りを力なく突いた。


「ん? 紙飛行機? どこから?」


 旦那さんが気付き、拾おうと伸ばすと飛行機はスッと消えた。


 現実では見えないはずの紙飛行機、少しの認識を与えたのは口入屋さんが紙に何から書いたからだ。


 会話が止まっていても木は変わらず枝葉を絡めていく。


「あなたはいつも良くしてくれる、こんな私にいつも優しく」


「こんな、なんてのは僕の方だ。君はいい奥さんだし、あの子にとっても、いい母親だ」


「でも、私はあのときあの子の手を……握れなかったのよ……あと少しだったのに……あと少し……」


「僕はね。ずっと心に溜めてしまっている澱があるんだ。いい恋人、いい旦那、いい父親、そのどれもが上手くやれていない。〝らしさ〟ってやつなのかな、あれができなかった、これができなかった。そんなものがずっと溜まっている。あの事故の後も、自分の気持ちが精一杯で、君にどう声をかけたらいいかすらわからなくて、僕がしっかりしなきゃって、勝手な理由をつけて、仕事に逃げた。何かをやっている気になれば楽だったんだ。君が自分を責めているのもわかっていながら、ね」


「そんな、あなただって」


「だから、決めたんだ。君がいくら自分を否定しようが、君がどう変わろうが、僕がいれば君は君だ」


「あなた……そんなことを思っていたの?」


「何にもなれない、何も上手くないこんな僕だけど、君を証明することはできる。僕にとってかけがえのない人だって証明してみせる。――〝君だから〟僕は今まで僕でいられたんだから」


「私……だから?」


「そうさ、君だから、だよ」


「私、馬鹿ね。あなたがずっと手を伸ばしてくれていたのに、そんなことにも気が付かないで。本当、優しい人……。私も、だわ……〝あなただから〟私でいれた」


 二人に絡んだ禍々しく獣のような木が崩れていく、枝や幹が解け、自然な姿に還っていく。楓はその綺麗な茜色を最後に見せすうっと溶け込むように姿を消した。


 二人を縛っていた言葉を折ったのは、互いの存在を肯定する言葉。


 『僕が』『私が』そんな言葉は初めから自分だけの思い込みだった。


 ままならない思いだけを抱え込んで、傷にずっと耐えて、重い思い込みを、ずっと。ずっと。


 〝あなただから〟そんな、互いの中にあった言葉ですら、ちゃんと言葉にしなければ伝わらない。表に出さなければわからない。


「奥さんの病気もこんな風によくなれば……」


「そちらもきっと大丈夫。奥さんは何の病気でもありません。後悔や負の感情を膨らませて記憶を混濁させたのも、身体能力を低下させていたのも、あの木が原因。踏み出せなかったと足の自由を奪い、自分のせいと心を追い込んでいた」


「本当ですか!? よかったぁ……」


「病は気から。ではなく、病は木から。なんですよ。――けして冗談やダジャレなどではありません。羊を数える話もそうですが、言葉とはそれほどまでに強く影響を与えてしまう。ですからこちらは危険なんです、軽々に何度も……」


 なにやら説教が始まりそうな流れを感じたので口入屋さんから二歩くらいの距離をとった。


「――ですが、今回は学びました。見える世界が必ずしもいいとは限らない、と言ったのを覚えていますか? あなたは見えていれば対処ができると言った。でもね、見えてしまうから、気付くことに鈍感になるのです、――先ほどのわたしのようにね。原因となるものさえ変えれば済むと、無くなれば終わると、これは対処ではなく一方的な押し付けです」


「それでも、何もできないよりは……」


「傷にさえも、鈍感になるのですよ。このくらいならきっと大丈夫だろうと、見えるものだけで勝手な判断をするようになる。……思い遣ることをだんだん忘れてしまう」


「見えないからこそ見えるものもある、ということですか?」


「ええ、確かに傷が見えれば手当てはできます。ですが、思い遣る心が薄れてしまえば傷付ける言葉や行為は増えるのではないでしょうか」


 見えないからこそ相手を思い遣る、見えてしまうから気付くことを忘れてしまう、……か。


「結局、人はどこまでも自分しか知らないんですね」


 その自分さえ自覚するのはとても難しい。


「だから考えることをやめてはいけないのです。〝こうだ、ああだ〟そんな決め付け、自分にも他人にも向けるべきではない。それは考えることをやめてしまったときに至る一方的な思い込み」


 わかる気がした。自分しか知らない、だから、その自分を物差しに物事を量ろうとする。『自分がやられて嫌なことは人にはしない』なんて、小さい頃、誰かに言われたな。それが、大人になって経験とか思い込みが重なり〝こうだ〟に変わる。それは本当に〝自分がやられて嫌なことは人にはしない〟が出来ているのだろうか。


「見えれば良いというものじゃありません。ですが、見えないから知らない。触れられないから無い。なんてことは絶対にないのです……それはそうと、そろそろ戻らないと心配されるのでは?」


「あっ!」


 さすがに食事中の中座にしては長い。急いでトイレへ戻り自分に還った。

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